:気谷誠の三冊

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気谷誠『愛書家のベル・エポック―アンリ・ベラルディとその時代』(図書出版社 1993年)  
気谷誠『西洋挿絵見聞録―製本・挿絵・蔵書票』(アーツアンドクラフツ 2009年)
気谷誠編『版画とボードレール―詩人が語る19世紀フランス版画』(町田市立国際版画美術館 1994年)


 愛書趣味についての読書の続き。読んだ順番です。他に、気谷誠の本は、もう20年以上前に『風景画の病跡学―メリヨンとパリの銅版画』を出版後すぐ読んだことがあります。そのときは銅版画への興味からでした。この時期は読書ノートもつけていない頃でいま見てもまったく覚えていないのは情けない。

 『西洋挿絵見聞録』の著者プロフィールを見ると「2008年9月22日永眠」と書かれていますが、あとがきにあたる「静かな悦楽」という文章の日付は、2008年9月17日になっています。死のわずか5日前に書かれたその「静かな悦楽」の文章は、デュパルクの「前世」という曲のことを書きながら、死を前にしての諦観の境地が淡々とつづられていて、胸に迫るものがあります。(詳細は著者のホームページ「ビブリオテカ グラフィカ」参照http://bibliotheca-g.jugem.jp/

 著者が西洋の装幀本を蒐集することになったきっかけは、「アールヌーヴォー・アールデコ展」という展覧会で装幀本を見たのがきっかけと『愛書家のベル・エポック』に書いてありました。きっかけがその後の方向を決定するもののようで、著者の蒐集の中心は、19世紀に乱立した愛書家協会が出版した豪華本のようです。


 『愛書家のベル・エポック』では、『愛書狂』や『書痴談義』の登場人物のモデルになったような人物が続々と現われます。架空の話ではなくて現実の世界の話だったということがよく分かりました。この本に出てくる装幀本では、やはりオーギュスト・ルペールの挿絵によるユイスマンス『さかしま』(p37)と、トゥーヴナン装幀による『タステュ夫人詩集』(p46)が魅力的です。

 ただ、著者の豪華本に対するスタンスには若干違和感を感じました。著者は、「愛書家は必ずしも書物を読まなくてもよい」(p44)というベラルディの言葉を引用し、書籍を刀剣や掛軸のように実用から離れた純粋な美を観賞するものとして扱えばよいと、本を読まないことを称揚したり正当化したりしていますが、しかしどんな本でも装幀がよければよいという訳ではないと思います。やはり内容に思い入れがどれだけあるかがもっとも重要なのではないでしょうか。ベラルディは「ノディエを、文学趣味に毒されているとして非難した」(p11)とも書いてありましたが、私はどちらかと言えばノディエを擁護したい。


 『西洋挿絵見聞録』は、著者の死後に、雑誌発表のエッセイとホームページの文章をまとめたもの。巻頭の「西洋の挿絵本」が、挿絵本の定義からはじまり、挿絵本の型式や歴史をコンパクトに概観していて分かりやすい。本文は、フランス挿絵本の歴史を「ルネサンス編」「ロココ編」「ロマン派編」「擬古典編」「ベル・エポック編」とたどり、その後、挿絵本に関しての日本と西洋の交流のエピソードが綴られ、最後に蔵書票についての一文が付録のような感じでついています。

 いちばん面白かったのは、ボードレール悪の華』の初版に様々なタイプの版があり、さらに愛書家たちが独自のルリュールを施した様子が記述され(p152)、貴重な読物になっています。次に、千個以上の宝石で飾られていたという『ルバイヤート』が買い手がついてタイタニック号で運ばれる途中、北大西洋の海底に消えたという話や(p231)、ドニゼッティのオペラ「ランメルモールのルチア」の原作、スコット「ランマームーアの花嫁」が『春風情話』という題で本邦初訳され、その挿絵の女主人公が着物を着ていること(p264)、ドイツの画家キューゲルゲンの自伝を第一高等学校の学生たちが卒業記念に翻訳出版したが(後に『一老人の幼時の追憶』と改題され岩波文庫に)、装丁が矢代幸雄、訳者四名のなかに大沢章がいたこと(p318)。

 この本を読んでいて、挿絵本が無性に欲しくなってしまいました。とくに、ジョアノー挿絵によるノディエ『ボヘミアの王と七つの城の物語』(p5)、18世紀末から19世紀にかけてのイギリスのピクチャレスクな風景画を挿絵とした書物(p7)、ジョアノー挿絵ネルヴァル訳『ファウスト』(p102)、エドモン・ルドー挿絵によるネルヴァル『シルヴィー』(p174)など。

 やはり私はロマン派挿絵が好みなようです。ソーヴァンの『セーヌ川のピクチャレスクな旅』に添えられたオーガスタス・ピュージンの挿絵なども、ジョン・マーティン風でなかなかいいではありませんか(p86)。

 以前から思っていたことと同じ主張があったので心強く思ったのは、「安価な復刻本が出回っていて、困ったことに、というかありがたいことに、これが原本とそう変わらない。・・・復刻にあたり初版の不備を補い『造本美を完成させた』というから、多分、復刻版のほうが本としては仕上がりが良い」(p321)という一節です。


 『版画とボードレール』は、ボードレールを中心に置いて美術を語った展覧会カタログで、性格が異なります。気谷誠が企画編集の代表であり、かつ一文を寄せていたので、強引に一緒に取り上げてしまいました。

 ボードレール自身の美術批評、阿部良雄の「ボードレールと版画」、気谷誠のメリヨンとボードレールの関係についての文章のあと、はじめにボードレールの肖像写真や肖像画、次にボードレールが論評したり、ボードレールの作品に影響を受けた各時代の画家や版画家たちの作品が掲載されています。

 いちばん印象の強烈だったのは、ボードレールとメリヨンの奇々怪々な出会い。メリヨンは完全に精神が壊れてしまっているのに、ボードレールが辛抱しながら対応している様子がよく分かります。ボードレールもメリヨンのなかにどこか自分に似た存在を嗅ぎつけたからに違いありません。

 ボードレールの肖像写真の、ナダールの写真の毅然とした表情と、カルジャの写真の幽鬼のような表情を見ると、同じ人物なのに、こうも違う印象を与えるものかと驚いてしまいます。それとブラックモンの版画との風合いの違いも。

 ゴヤの版画にはやはり鬼気迫るものがありました。ボードレールが「激しい対照(コントラスト)に対する感覚、自然の物凄い形相(ぎょうそう)に対する感覚、偶発情況によって奇妙に動物化された人間の顏貌に対する感覚・・・ゴヤの偉大な長所は、真実らしい怪物性を創造することに存する」(「外国の風刺画家たち数人」)(p156)と書いているのは的確な言葉だと感心しました。