:仏教関係2冊、玄侑宗久『禅語遊心』、宮元啓一『日本奇僧伝』

  
玄侑宗久さんは「中央公論」連載の歯切れの良い文章が気に入っていますが、この『禅語遊心』も分かり易くかっこよくまとめられています。

 昔から、ことわざとかアフォリズムに何となく気を惹かれてきました。短い言葉で一瞬の悟りを開いたような気になれる。その警句に触れることによって、触れる前と触れた後が確然と分かれるような、自分が一段階飛躍したような気分になることがたまにあります。

 禅語というのはその極地のような言葉だと思いますが、この本で紹介されている季語別に編集された禅語を読んでみて、短歌や俳句の世界に近しい詩情も感じました。禅の側からも詩の側からも反撃されそうですが、一種の形而上詩と言えるでしょう。

 禅語(漢語の形や読み下した形)はもちろん、短歌や俳句、それに都都逸、ことわざなど、1ページに3つも4つもの割合で豊富な引用があります。とくに都都逸に深い味わいがあります。ところどころ出典をあきらかにせずそっと付け足したようなものがありますが、玄侑さんの作品でしょうか。なかなか味わいがあります。

引用の引用になるかもしれませんが、気に入った詩句やフレーズを紹介しましょう。

雪も霰も雹も、芯になる塵や埃がないと結晶化しない
無邪気こそ、我々の禅が回帰すべき場所
梅に鶯 竹には雀 わたしゃなにゆえ松ばかり
春は梅梢に在りて雪を帯びて寒し(天童如浄)
春が来たから梅が咲いたのではなく、梅が咲くから春が来る
一葉落ちて天下の秋を知る
春枝一枝中(わずかな気配にも全てが具わっている)
落花流水はなはだ茫々(散り始めた無数の花弁が流水にのって果てしなく広がっていく様)
風は息虚空は心日は眼(まなこ)海山かけて我が身なりけり
明々たり百草頭(どの葉先にも真理を宿すの意)
鳥啼いて山更に幽(しず)かなり
山中に暦日なし
逆境に克つ人は大勢いるが、順境にはなかなか克てない
ああしてやったこうしてやった やったやったで地獄行き
水を掬すれば月手に在り
仏尋ねて仏を連れて 
月落ちて天を離れず
宇宙無双日 乾坤只一人(自分が宇宙の中心におり、自分から放射される光があるという実感)
裾野より見上げて見たるお富士山甲斐で見るより駿河いちばん

同じちくまから『禅的生活』という本も出ているようなので読んでみようと思います。



 『日本奇僧伝』は、人物に焦点を当てて日本の昔の仏教の姿を紹介したものです。修験道や遁世の僧たちの奇跡譚、神仙譚が中心です。著者が敢えて禅宗を忌避したと書いていますが、そのせいか、少し単調になったきらいがあるのが残念です。

 西行フランケンシュタインを作った話は知りませんでしたがなかなか面白い話ですし、またところどころに出てくる次のようなハッとするようなイメージは新鮮です。

 行基が説法を聞いている母子に対して、突然、「その子を淵に捨てなされ」と告げ、迷ったあげくに思い切って投げ捨てたところ、水中から浮び上がってきた子どもが目をかっと見開き、「畜生、残念無念だ、あと三年がっついて食いつぶしてやりたかったのに」と叫ぶ場面。

 仙人が香の煙に乗って空へ飛翔し去って行き、また香の煙をたどって求める人のところへ現れるという、香りが乗り物になるというイメージ。

 荒れた僧坊に老僧がひとり住んでいて、魚の鱗や骨が食い散らかしたままになって大変な悪臭。ところがあるお告げがあった後は、先ほどの悪臭がこんどはえも言われぬ香ばしい香りがして、鮒の鱗や骨だと見えたものは、実は、色鮮やかな蓮華を鍋で煮て食い散らかしたものだったというエピソードなど。

この本でも、

仏もむかしは凡夫なり
我等もつひには仏なり
何れも仏性具せる身を
隔つるのみこそ悲しけれ

というような今様や

娑婆世界の西の方
十万億の国すぎて
浄土あるなり極楽界
仏まします弥陀尊(みだのそん)

といった和讃の調子に面白さを感じました。

桃水が腐った飯を弟子に食べさせる逸話に差し掛かって、どこかで読んだことがあると思い、著者が重複して書いているのではと、初めから一ページずつ繰っても見つからず、しばらく気持ちの悪い状態が続きましたが、はたと「びわこのなまず」さんの日記で読んだことを思い出しました。