フィリップ・ドレルム『ビールの最初の一口ほかささやかな楽しみ』
翻訳が出ていない本を読もうとして手近にあったこの本を引っ張り出しました。先月神保町のO書店で300円で購入したものです。300円でたっぷり20日間楽しめました。
読解の例文として出てきそうな飛躍のある手の込んだ文章です。
(と私には思えます。)結局、私の読解力では、三分の一ぐらいは何だかよく分かりませんでした。
中表紙にはrécitsとありますが、日本で言えばエッセイ、随筆の類に入るものと思います。
枕草子などにも通じる繊細な感覚を扱っていて、日常生活のなかの何気ない一コマを軸に、皆がそれとなく気付いていても、あえて細かく考えても見なかったささやかなことがらを俎上に上げ、それらを綴ることにより、全体として生きていることの単純な喜びを語っているといったところです。
日曜にケーキを買って手に提げて家に帰る道の楽しさ。えんどう豆を剥くときの手先の感覚、リズム。アペリティフにマティーニでもウィスキーでもなく、ポルトを注文した時の独特の気分。ビールの最初の一杯。古い列車に乗る喜び。バナナスプリット(バナナ・パフェのようなもの、縦切りになっていてクリームなどが盛られている)を周りから注視を浴びながら食べるおいしさ。砂浜で本を読む快楽。動く舗道での観察。電話ボックスという街中の不思議な存在、等々。
いくつかのものは、味、香りや色彩にみちた散文詩の趣きがあります。「ポルトを注文」「林檎の香り」「静かな庭」「秋のセーター」等。
衣食住など生活に材をとっていること、さりげないささやかなものに対する愛着、健康的で小市民的、小学生が喜ぶような素直な感覚を平気で吐露するところ。
こういった姿勢に真っ向から対峙するのは、ボードレール的な悪魔的貴族的な態度ということになるのでしょう。
日本でも文章の傾向が、ひところの大士風の大言壮語、華麗絢爛な語り口が少しおさまり、さりげなく淡いもの、単純平明さへの志向が見られるように思いますが、ビーダーマイヤー的な気分が世界全体に共通してきているのでしょうか。
ところで、横文字の本は読み終わったあとで何が書いてあったか思い出そうとして、ぱらぱらと頁を繰っても意味が全然つかめません。意味を摑もうと見ているうちに、結局また一文一文を丁寧に読んでしまう破目になります。
日本語ならぱらぱらと見るだけで、すーと思い出せるのですが。
以前、日本語には漢字があるので、無意識に漢字を目で拾っていくことで、だいたいの意味が分かるということを聞いたことがありますが、そういう言葉がもともと持っている性格のためでしょうか。
それとも単に私の未熟な語学力のせいでしょうか。
とここまで書いて、ネットで見たら、なんと早川から翻訳が出ているではありませんか。愕然!こんどこそ翻訳の出ていないものを探します。