最近読んだ本シリーズ。最近と言っても、この半年ぐらい机の片隅にずっと置いていて、時たま手に取ったり、ずっと一月以上もほったらかしにしたりという状態でしたが。
ボヌフォワは詩を読み出した頃「現代詩手帳」に平井照敏の評論が載っていて興味を覚えたのがお付き合いの始まりです。この新しい2冊の詩集を見る限りは、昔と比べて詩行が長くなリ、言葉が多くなったようですが、詩の持っている雰囲気は変わっていません。
小沢書店刊の方は、『光りなしにあったもの』という詩集の翻訳です。はじめの詩「想い出」の冒頭数行で独特の世界に引き込まれました。
ふいに あそこで風が向きを変えるのだ。
それは世界が立てる帆布の大きな音だ、
まるで色彩の生地が
たったいま 事物の奥底まで裂けたかのようだ。
/p13「想い出」
大きく動きのあるイメージ、静かで重い言葉の連なり・・・ありありと描かれる世界。われわれの知らない始原の光景のなかで動いている神話的人物を見ているような気がします。
この上なく古い夢をまた見はじめるのでないとすれば
私は目醒めたのだと信じるべきだろうか。夜は静かだ、
その光が水の上を流れる、
星々の帆がかすかに顫える、
幾つもの世界を吹きすぎる微風のなかで。
/p14「想い出」
喚起力の強い単純な言葉が一つの文章に組み合わされてゆくなかでますますイメージがふくらみ、大きな物語の断片としてほのめかされるようなところがあります。それが何かはよく理解できませんが、なぜか魅力があります。
そんなにも 心はあの声に捉われているのだ、あそこで
砂の道を遠ざかりながら
消えがてにまだうたいつづけているあの声に。
/p17「想い出」
そして、いま、とうとう、彼は向きを変える。
夜のなかを遠ざかってゆく彼が私には見える。
/p20「想い出」ぎっしりと並んだたくさんの壷があった。その一つひとつから
炎が立ち上がっていた、炎の一つひとつは
それぞれに異なる色で かすかな音を立てていた、
/p24「ハイタカ」
それらの色に触れてみたが、燃えてはいなかった。
私はさらに手を伸ばした、否、何も摑みはしなかった、
光とは異なる果実のこれらの房の何一つ。
/p25「ハイタカ」
だが、一艘の小舟が
赤い石を積んで遠ざかっていった
/p26「別れ」
引用するときりがないので止めますが・・・
ボヌフォワもインタビューのなかで、「イマージュのなかで生じていたことが本当に理解できたかどうかは、今もって判りません。」と正直に言っていますが、作者も分からないものが私に分かるわけがない。
青樹社刊の詩集は、フランスでは刊行されていない(当時)詩も含んだ日本オリジナルの詩集です。この詩集の前半の詩を読んで、何となくボヌフォワの技法のひとつが少しだけ分かったように思います。
今朝はやく初雪。
と雪で始まります。雪そのものがイメージにとんだ物質です。
それから、夕刻、
光の天秤は動かない。
影と夢との重さが釣り合っている。/p14
と次は光と影(照度)が登場。
次いで、雪に関連した言葉として、窓、雪片(雪の変奏)、靄が登場。
そして、場としての扉、庭、樹が登場。
次には青さ(色)が出てきます。雪の色がどこか青さを感じさせることと関連があるのでしょうか。
青い空で/p27
世界の青さのなかに散ることのほかの未来もなく/p28
青い水たまり/p29
碧さのおののき/p39
そしてなぜか蜜(味覚)。(予兆として蜜蜂が何度かその前に出てきた)
これはほとんど蜜なのだろうか。それとも雪なのだろうか。/p50
雪がすべての詩篇のモチーフになりながら、詩篇ごとに雪はいろんな表情を見せ、また先に進むにつれてひとつずつ新しいイメージ・感覚が加わり、それらが何度も反復され、重奏的なふくらみを作ってゆき、最終的に詩集全体でひとつの世界が形づくられるように考えられています。
これは音楽のモチーフの展開と同様の作り方のように思われます。