川合康三『桃源郷』


川合康三桃源郷―中国の楽園思想』(講談社 2013年)


 日本の常世の話の次は、中国の桃源郷についての本。常世とか桃源郷、またユートピアなど、人々が現実とは別のもう一つの世界を思い描くのは世界共通の現象ですが、中国における独自のあり方について、中国古典文学が専門の著者が、詩などの作品を通じて概観しています。神仙世界に始まり、士大夫が官界から逃れて私人として自由に生きる隠逸という生き方、西洋のユートピアに近い理想の国、現実のなかで楽園を築こうとした庭園や隠れ里、最後にタイトルともなっている桃源郷について論じています。

 まず、仙界は、中国で独自に形成されたもので、仙人になって不老長寿を得るという一点に絞られ、仙界がどんな様子かは詳述されていないところに特徴があるとのこと。精神的な内容よりも身体的側面に関心が集中していて、魂が逃げて行かないように肉体に閉じ込めようとしたり、仙人そのものが空に舞ったり、仙人は食べ物を食べないといったことが語られています。古代の中国では、歴代の皇帝が、不死を求めてさまざまな修練や服薬などを試みますが、一方では、仙界に対する疑念はつねに付きまとい、後代の詩文では、仙界への憧れを語りながらも、最後に否定したり、現世の快楽を賛美したりするようになるということです。

 次の隠逸というのは、国の中心で政治の実務に就く士大夫という生き方への反発から、山中など周縁に世を避けて生活し、精神の気高さ、自由を得ようとするものですが、決して世をはかなむ態度ではないということ、また、西洋の隠者は、苦行や戒律の下で生活する宗教者であり、日本の場合も、世俗を捨てて出家するという仏教的な要素がありますが、中国の隠逸には宗教的な要素がないことが指摘されていました。中国では高潔さを尊ぶ風潮があり、隠者としての名声が高まって再び政治の中枢に召しだされるということもあったということです。

 中国では「楽土」という言葉があり、中国の古い時代の詩に、生活苦から逃れられる場所としてよく登場していたと言います。圧政を収穫物を食べる鼠に譬え、「楽土」への希求を語るが、具体的にどんな国か記述されることはないとのこと。また、遠いところにある理想の国と言われる「華胥氏(かしょし)の国」も、人々のあいだに身分の差がない、愛憎がない、利害がないと、すべて否定の形で語られていると言います。とにかく今居る場所から逃れられることが大事だったわけです。

 架空の国を夢見るのではなく、地上に楽園を実現しようとするのが、造園と隠れ里ということになります。庭園では、周囲120キロメートルにも及ぶという漢の上林園や、王維の輞川(もうせん)荘など歴代詩人の所有する庭が紹介されています。実際の庭はともかく、それが詩文に表現されると、楽園と同一の色調を帯びることが感じられました。上林園の場合は、詩と文の中間の表現形式である賦で、園のなかの動物や植物が豪華絢爛に描かれる一節、王維の庭園の場合は、庭の20の場所のそれぞれの自然美を友人の詩人とともに歌った絶句の一部が引用されていました。隠れ里では、主君の仇を討つために数百人の徒党を率いて山中に籠り、一つの共同体を作った田疇(でんちゅう)の例が挙げられていました。結局、復讐はできないまま、平和に暮らし、そのことが陶淵明の詩に歌われているということです。

 桃源郷については、意外なことに、陶淵明の「桃花源記」のあと、同類の楽園物語がわずかしか書かれることがなかったということで、その一例として、王績の「酔郷記」が紹介されていましたが、先述の「華胥氏の国」と似ていて、明暗、寒暑の区別がなく、喜怒哀楽のない平板な国で、人々が楽し気に暮らす「桃花源記」の様子とはまったく違っているということです。他に、唐時代に、王維、韓愈、劉禹錫が桃源をテーマにした詩を書いていますが、いずれも桃花源を仙界として受け止めているという点で、陶淵明の「桃花源」とは異なること、また、志怪小説でも異界に踏み迷う話は多いが、いずれもこの世ではありえない事柄が書かれており、不思議ではあるが合理的に説明できる世界を描いている「桃花源記」と異なることが指摘されていました。

久しぶりに古書店で買う

 先月末、箕面の友人宅へ昼酒を飲みに行く途上、緑地公園で降りて、天牛江坂店へ立ち寄り、4冊ほど買いました。天牛江坂店は、おそらく大阪で最大の蔵書量があるのではないでしょうか。調べてみると、驚くべきことに、昨年5月以来、古書店での購入がありませんでした。この間、外買いではもっぱら古書市に頼っていたということになります。古書市では古本仲間で集まることが多かったせいに違いありません。

 ここで、古書市古書店の違いを考えてみると、古書市では本の量が圧倒的に多いということがありますが、一方、古書店では本がジャンル別に整理されているので効率よく探せるということがあります(古書店にもよりますが)。天牛書店は、天神橋店もあわせ、きちんと整理されている上に、私の好みの本がたくさんあるような気がします。

 天牛での購入は下記のとおり。
「日本の美学26 光―影と闇へのドラマ』(ぺりかん社、97年9月、100円)→2Fの100円均一ルームで購入。熊田陽一郎「美と光」が読みたくて。
石渡美江『楽園の図像―海獣葡萄鏡の誕生』(吉川弘文館、00年7月、480円)
加地大介『なぜ私たちは過去へいけないのか―ほんとうの哲学入門』(哲学書房、03年11月、800円)
宇佐美斉編著『象徴主義の光と影』(ミネルヴァ書房、97年10月、700円)
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 それに勢いづいてか、近鉄奈良近辺でまだ行ったことのない古本屋があるのを知って、先週用事のついでに覗いてみました。いかり文庫というお店で、聞いてみると、2年前から開いているとのこと、気が付きませんでした。あいさつ代わりに、少々高くてもまだ持ってなかった下記を購入。ほかに春陽堂版の『泉鏡花全集』の端本が4冊ほど結構安く出ていて、店主の話だと、生田耕作蔵書とのことでしたが、重たいのと家に置く場所がなくなってきているで断念しました。
イタロ・カルヴィーノ米川良夫訳『レ・コスミコミケ』(早川書房、昭和53年8月、1200円)
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 古書市では、珍しく梅田阪急百貨店メンズ館というところでミニ古書市があり、初日にたまたま麻雀会があったので、寄り道し下記を購入。
アンドレ・モーロワ菊池映二訳『アレクサンドル・デュマ』(筑摩書房、71年10月、1000円)→ネルヴァルとの交友などが出てこないかと期待して。がたぶんもう読まない。
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 オークションでは、同じ出品者から。
内藤吐天句集『早蕨』(青磁社、昭和18年9月、1000円)
上田周二詩集『彷徨』(沖積舎、平成21年8月、300円)
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谷川健一『常世論』

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谷川健一常世論―日本人の魂のゆくえ』(講談社学術文庫 1989年)


 タイム・トラベルの次は、この世の外の話。谷川健一の著書は昔からよく見かけますが、ほとんど読んだことがなく、『神に追われて』という小説的雰囲気の濃厚なノンフィクションと(2014年10月10日記事参照)、『海の夫人』冒頭の短歌62首ぐらいしかありません。この本は、民俗学の細かい考証が至る所にあって、読みにくくよく理解できない部分もありましたが、強く印象に残ったのは、序章の常世の波のイメージです。

 序章では、『日本書紀』の「海(わた)の底におのずからに可怜(うまし)小汀(おばま)あり」という言葉を引用し、他界にもきよらかな波打ぎわの平地があると説明したあと、『丹後風土記』から、浦島の子が海神の娘に贈ったとされる「子らに恋ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の浜の 浪の音聞ゆ」という歌を引用しています。以前読んだ長谷川正海『日本庭園雑考』の常世国の波が現世の伊勢の海に打ち寄せるという記述を思い出しましたが、そこでは、あの世を地下とか天上ではなく平面的延長として考えている日本の特徴を指摘していました。何かは分かりませんが、「常世の浜の 浪の音聞ゆ」というのは心にしみるフレーズです。

 その後、著者は次のように論を展開しているように私には見えました。
敦賀などで産屋がなぎさに建てられたのは、昔の人にとっては、出産は新生ではなく再生であり、生まれて間もなくはまだこの世に完全に戻ってきていないと見て、あの世とこの世がつながっているなぎさで育てた。一方、淡路などで、古墳が海浜あるいは岬に集中しているのは、そこがもと風葬の地であったことを示している。産屋と喪屋という二つを見ても生と死の儀礼には共通点がある。

②船に乗ってあの世を目指す補陀落渡海の伝統は、那智勝浦以外にも、高知県鳥取県、大阪の四天王寺の海、熊本県など日本の各地に見られる。舟を棺のように仕立てることや、那智補陀落寺の僧が死ぬと、まだ生きているかのように担いで舟に乗せ、近くの島に水葬するという風習もあったことから、補陀落渡海が一種の水葬であったことが分かる。

③黄泉は、奄美の言葉で醜さを意味する「よも」から来ているという説があり、記紀では、死者を埋葬するまで棺におさめ喪屋に置く殯(もがり)を黄泉国としていることから、死穢(しえ)の観念や死霊に対する恐怖が、黄泉国という他界の観念を形成したと見ることができる。

④日本では、当初、他界は生者の生活圏からそれほど離れたところではなかった。常世も最初は死者の行く世界であったが、後では蓬莱島とか仙郷の島とかに変化していった。浦島伝説はすでに祖霊の行く死者の国としての常世の感覚を失っている。一方、沖縄の他界概念であるニライカナイには、祖霊神の住む島から現世を眺める視座がまだ残っている。

⑤イザナキの命が黄泉の国に妻を訪ねたり、スサノオの命が妣(はは)の国に行きたいと泣きながら根の国に降りていくなど、日本の神話は国生みの直後から常世と現世との間の意識の分裂を伝えている。常世の観念には、現世から他界を望み、その分裂を痛ましく思い、合一への憧れに身を任せる感情がこめられている。

⑥すなわち、失われた楽園への嘆きが日本神話の神代の巻を貫くライトモチーフである。この点では「創世記」に似ているが、ヘブライ神話が父なる神を求めているのに対して、妣(はは)の国への身を焦がす思慕が記紀を貫いているところに特色がある。常世は一種のエディプス・コンプレックスとも言え、日本人の意識のなかに、繰り返し、ひそかな憧憬と哀愁の旋律を奏でているのである。

 他に、古代の日本には、春分秋分に、三輪山の頂上から太陽が出て二上山の頂上に太陽が沈むという東西の軸線の意識がすでにあり、その軸線を延長したものが、伊勢と淡路の二つの場所で、淡路は当初は国生みの中心であったが、5世紀の後半から次第に伊勢の方に移って行った、ということが指摘されていました。

 谷川健一の出発点が、柳田国男折口信夫の二人の足跡を追いかけるところにあったことが、「まえがき」や「あとがき」に書かれていました。古来からの日本の学問は机上の探究に終始したために、他界概念を正面から取り上げることがなかったが、二人の先達が他界を生涯にわたって研究テーマとし、とくに晩年になっていっそう関心を深めたことを語り、自分がその後を継ぐという決意が表明されていました。


 『海の夫人』のなかの短歌に、この本のテーマに通じるものが多数見つかりましたので、いくつか引用しておきます。
海底の竜の都に卵なす無目籠(まなしかたま)は降りてゆきたり

海若(わだつみ)の娘が蒔きし向日葵のいろこの宮に今咲きほこる

現し世の夜の境を越えむとしともしびの油つぎ足しにけり

みどりなす潮は洗ひぬ産砂(うぶすな)の神にまかせて汝が捨てし児を

わが心海に葬らむ日の果に水牛の瞳(め)の悲しく見ゆる

沈みゆく船の帆柱にとまる鳥不幸を吾と頒けあひにけり

わが喪船潮のくだり海くだり日の崖(きりぎし)に幻は落つ

NOËL DEVAULX『LA DAME DE MURCIE』(ノエル・ドゥヴォー『ムルシアの貴婦人』)

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NOËL DEVAULX『LA DAME DE MURCIE』(GALLIMARD 1987年)


 私の愛でるフランス幻想小説の一群のなかに、また新たな作家がつけ加わりました。前回、マルセル・ブリヨンの記事でも触れた『現代フランス幻想小説』というアンソロジーで、表題作「ムルシアの貴婦人」(滝田文彦訳)を読んではいましたが、他に翻訳もなくそれほど意識はしておりませんでした。今回、「La Dame de Murcie」を原文で再読するとともに、他の3篇を読み、相当な巧手であることを確認しました。

 ブリヨンに較べると、文章は少し難しく感じました。丁寧に書かれているというか、簡単に先を予想させない文章の運びと言えばいいのか。いつもなら大体の予想で読み進めることができますが、ドゥヴォーの文章は正確に文章を読み取らなければ先に進めないほど、構築されている感じがあります。私のフランス語読解力のせいか、もとの文章がそうなのかはよく分かりませんが、書かれている文章が全体の物語のなかでどう位置付けられているのか、不鮮明な部分がありました。「La Dame de Murcie」で意味が分かりにくいところを、翻訳で確かめてみると、誤解している部分が多々ありました。私がいかにいい加減な読み方をしているか、一向に上達の気配が見られないのは嘆かわしいことです。

 珍しいことですが、この本は落丁本で、残念なことに、「Album de famille(家族のアルバム)」という短篇が脱落していて、最後の1ページ半しか印刷されていませんでした。p63の次空白の頁がありその次はp81となっています。フランスのしかも古本なので、文句の言いようもありません。そのわずか1ページ半を読むと、何か昔住んでいた館に入ったときの情景が描かれていて、とても気になります。これもヌーヴォー・ロマンの一種の仕掛けかとまで思われます。

 ドゥヴォーの書法の特徴の一つは、幻想怪奇譚の要諦とも言えますが、怪をあまりだらだらと見せないという点にあります。不思議な怪しい美が登場するのは確かですが、それは一瞬垣間見えるだけで、その一瞬を盛り上げるために前段で話を盛り上げていく工夫があり、また一瞬の出来事でよく分からないままに謎めいた余韻を残す結末部を作っています。正体が分からぬまま謎だけが残るという仕掛けです。具体的な例は各篇の紹介を見ていただくことにしますが、これはまさしく、中心を欠如させて、それを類推させることによって、一種の美の境地を作る象徴主義の書法ではないでしょうか。

 怪奇とかグロテスクの印象は、一瞬の出来事においてよりいっそう強烈に感じるものですが、それは、ある一定の秩序で営まれているわれわれの生や美意識に突然亀裂が生じ、何か得体の知れないもの、秩序を乱すものが出現するその瞬間に、そのずれた感覚、違和感、居心地の悪さがグロテスクな印象をもたらすということで、秩序が揺らぐのを元に戻そうとするせめぎあいの中に不思議な感覚が生じるわけでしょう。

 これらの作品に共通するもうひとつの特徴は、いずれも男性の目線から、性的な妄想に関連した美に誘惑される姿を描いていることです。「La Dame de Murcie」では、「スフィンクスとラミアが、ムルシアの貴婦人のなかに固く結合していた・・・野獣とも猛禽とも見分けのつかない腰の盛り上がりは、讃嘆すべきものだった」(p14)とか、「Euphémisme(聖ウフェミ崇拝)」では、「腕はむっちりしていて腰も豊か・・・虚ろな眼差しは何か眩暈を起こさせた」(p30)とか、「L’aubade à la folle(気違い女へのセレナード)」では、「半開きの窓から手が出て来て、それがまた薔薇色で細やかで・・・われわれは固唾を飲んだ。鎧戸は計算されたようにゆっくりと開いた。ようやく、ナイトキャップから豊かな髪を垂らした驚くように美しい顔が現われた」(p62)とか、「Cour des miracles(奇跡の庭)」では、「そのとき、女性が私がしつこく跡をつけてくるを楽しんでると気づいた。見失いかけると、薄闇から出てきてスカートをひらつかせるのだ」(p90)といった文章が目に留まりました(訳はいい加減)。

 蛇足ですが、La Dame de MurcieはLa belle dame sans merci(慈悲なき美女)をかけたものなのでしょうか。

 以下、各篇の概要です。                                   
◎La Dame de Murcie
旅に出る部屋の持ち主から、開けるなと鍵を渡された二重に閉じられた秘密の部屋。主人公は、そこから抜け出てきたスフィンクスともラミアとも見える美しい幻獣を見るが、幻獣は見られていることに気づくとさっと消えてしまう。部屋主から帰るとの知らせを受けて、主人公の狂気のバネがはじけた。幻獣と何をしたかは覚えていないがその叫び声だけは覚えている。帰って来た部屋主は、夜穴を掘り、人間ぐらいの大きさの袋を穴に入れるが、そのとき袋の隙間から白い身体が見えていた。手掛かりはこの三つしかなく、幻獣の正体は何なのか、主人公は幻獣に何をしたのか、白い身体は幻獣なのか、なぜ部屋主は幻獣を埋めたのか、謎を生み出し謎を残しながら物語を進行させているところが、なかなかの手腕を感じさせる。

〇Euphémisme
彫像おたくの税務署員が、仕事の傍ら、各地に残る礼拝堂を行脚しているうちに、聖像をコレクションしている老婦人と出会い、家を訪ねたところ、そこで古色を帯びた聖ウフェミ像と出会う。家に持ち帰って、ある夜、豪華な衣装を纏わせ、仲間を集めて乱痴気パーティを開くと、翌朝、聖像は裸になっていた…。メリメのヴィーナス像を思わせる一篇。聖像を主人公がもらい受けて去る場面で老婦人がにんまりとしたのはなぜか、聖像を玄関に置いたとき腕が少し開いているように見えたのはなぜか、旅から帰るたびに聖像が変化しているように見えたのはなぜか、なぜ聖像が裸になっていたのか。Euphémismeを辞書で引くと「婉曲語法」とあるように、何事も明示はしないが、婉曲的に石像に命が通っていたことを暗示している。

◎L’aubade à la folle
町の新旧の姿についての外国人向けテキストと、若き日の愚行話が交互に語られているが、愚行話の中の一つの出来事が中心となっている。それは、年中垢だらけのコートを纏っている気の狂った老女の家の前で、笛の名手とともに、仲間とふざけてセレナードを捧げていたとき、窓から一瞬現われたのが若く美しい女性だったので、みんな家の中に殺到したが老女の他には誰も居なかったという一件だ。今や老人となった語り手は、地面に耳を当て奥に流れている水の音を聞こうとして、みんなから気違いと避けられているが、これは外国人向けテキストの「今は涸れて砂で覆われている河の底には力強い水が流れている」という記述、ならびに老女の窓から美女が現われたというイメージと呼応している。

◎Cour des miracles
町は道具係や役者たちが作りあげる舞台だと見なしている主人公が、突然の嵐で雨宿りすると、同じくアーケードの端で雨宿りをしている若い女性に気づいた。雨がやみ、女性は歩き始めた。後をつけていったが、その女はびっこを引いている。町はずれまでついて行ったころには日が暮れてきた。彼女を見失って、修道院の回廊に座っていると、また足を引きずる音が聞こえてきた。が女の足音とは別の間合いがある。月影に照らされた修道服に身を包み大きな頭巾をかぶったその人物は何者か。歩く途上にも、グロテスク文様で飾られた壁龕の怪異な像、奇怪な石組や床張りなどが現われ、夜のなかで妄想が跋扈する。

ミチオ・カク『パラレルワールド』

                                        
ミチオ・カク斉藤隆央訳『パラレルワールド―11次元の宇宙から超空間へ』(NHK出版 2006年)


 引き続いて、タイムトラベルに関連した物理学の本。相対性理論誕生後の宇宙や物質に関する現代物理学の趨勢が概観できた気がします。と偉そうに言っても、門外漢の私にはよく理解できないことだらけで、こんな本を手に取るんじゃなかったと後悔しきりですが、おぼろげに何となく分かったような気になったことや、読んでいて素人なりに抱いた感想は、
相対性理論量子論がまったく正反対の世界観を持っていること

②物理や宇宙を記述する場合の速度や圧力、重力などのスケールが想像できないような大きさや小ささであること

③観察装置がどんどんと進化して、理論を裏付ける発見が次々なされているが、観察装置に厖大な費用をかける競争が起こっているのと、とてもそんな観察は無理という理論が続々と現われていること

④宇宙を組成する要素として考えられているのは、光や磁力、電力、重力など波的なものと、陽子、中性子など物質的なもの、それに幾何的形状(トポロジー)や時間があること

⑤多くの物理学者が次から次へと現われては、「ひもだ」とか「いや膜だ」とか珍説を披露しているのを見ていると、私など素人からは、詐欺集団同士の騙し合いのようにも見える。

⑥11次元とか26次元とか言われても皆目見当がつかない。これらは数学的な算式から導かれて出てきた話だと思う。3次元の立体は容易に思い描けるが、われわれの住むといわれる4次元はなかなか想像できない。ましてや5次元より上はとても。

⑦科学者たちが謎を解いて、新しい世界像を提案しても、また新たな謎が生まれ、次々に世界像が改変されて行く様子で、終わりがないようだ。次々に謎が生まれていく仕組みは何だろうか。

⑧この本が書かれたのは、2005年なので、その後の17年ほどのあいだにどれだけ新理論ができ、また新しい実験・観察装置が開発されたのか気になるところだ。


 第Ⅰ部第Ⅱ部では、これまでの学説を丁寧に説明していたのに比べ、第Ⅲ部は、著者の観点が強く主張されており、宇宙の誕生から死までの流れと、文明を高度化させて別の宇宙に脱出するまでどういうプロセスを踏めばよいかを述べています。誇大妄想的記述に加え、人間中心主義、しかも白人英語圏のエリート主義が芬々と漂ってきて、いささか辟易しました。著者は、地球に生命が生まれたのは奇跡であり、「宇宙には『それを存在させるべく観測する、われわれのような知覚力のある生き物を生み出す』という目的がある」(p416)と人間を特別視しています。私は、R・ドーキンスの「物理的な力が支配する世界では・・・理由などないし、正義もない・・・設計もなければ目的もなく、善悪もなく、ただ非情なほど意図を持たぬ無関心しかない」(p430)やS・フェイバーの「私は地球が人間のために作られたとは思いません」(p431)という見方につきます。


 奇想天外な理論であっても、それが想像できるように描かれている場合はなんとなく分かったような気になります。物理学者たちも結局は比喩を使っているのが面白い。例を示すと、

インフレーション期の膨張のすごさを視覚的に理解するために、急激にふくらむ風船の表面に銀河があると考えよう・・・われわれの宇宙は、すべてこの風船の表面に貼りついていて、内部にはない(p22)

池に石を投げ込み、衝撃で波が立つ場合・・・石が大きいほど、水面に生じる歪みは大きい。これと同じで、星が重いほど、その星を囲む時空のたわみは大きくなる/p50

ニュートリノはほとんど質量のない幽霊のような粒子で、厚さ何兆キロメートルもの固体の鉛を何ら相互作用することなく通過できる/p101

考えられるすべての世界がわれわれと共存している・・・さまざまな量子論的現実は、まさにわれわれがいる場所に存在している・・・もしそのとおりなら、われわれの部屋にあふれ返っている別世界は、なぜ見えないだろう?・・・ワインバーグは、この多宇宙理論をラジオにたとえている/p206


 長くなりますが、他にも、深い意味は分からなくても印象に残った魅力的なフレーズがたくさんありましたので、引用しておきます。

たくさんの素粒子も、ひもが奏でるさまざまな音にすぎない(p27) 

われわれの体は文字どおり星くずで、何10億年も前に死んだ星々でできている(p87)

宇宙もかつては電子より小さかった(p117)

独楽から台風、惑星、銀河、さらにはクエーサーに至るまで、われわれの世界は回転しているものだらけだ。それはまるで、宇宙に存在する物質の普遍的な特性にも見える。ところが、宇宙そのものは回転していない(p119)

多世界解釈・・・が正しければ、今この瞬間にあなたの体は、死闘を演じている恐竜たちの波動関数と共存している・・・あなたの部屋に存在する無数の宇宙の中にあるのだ(p205)

われわれには第五の次元は見えないが、その次元に生じる波紋が光として見える(p241)

物理学者は、この世界を毎秒1㎡あたり10億個のダークマター粒子が吹き抜けており、もちろんわれわれの体も通過していると考えている(p319)

ジョン・グリビン『タイム・ワープ』

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ジョン・グリビン佐藤文隆/田中三彦訳『タイム・ワープ―平行宇宙への旅』(講談社 1983年)


 なぜか書棚にあったので、タイムトラベルについて物理学の視点から書かれ本を読んでみました。ふだん科学書を読んでない私には、知らないことが多くありました。著者は、きちんとした物理学者で、科学ジャーナリストでもあるとのことですが、フリッチョフ・カプラやライアル・ワトソンの超自然学の影響を受けているのか、いささかトンデモ本のにおいがしました。書き方も、歴史的エピソードに偏りがちなことと、超常体験の例がたくさん出てくるのが怪しい。

 佐藤文隆による訳者あとがきには、「心の情景と外部世界での物理的現象とがいかなる関係にあるのかという問題は、物理学者にとっては、いわばタブー・・・正直言って苦手な問題」とか、「現状では説得力に欠ける」、「部分部分は既知の法則で十分」、「速断はできない」、「一つの刺激であるには違いない」といったふうな説明がありましたが、心からこの本を勧めているとは思えず、不本意に引き受けてしまったという後悔がにじみ出ているのが感じられました。「田中三彦氏が初め訳したものに佐藤が手を加えた」とも書いていますが、田中三彦氏本人か編集部から、権威付けのために頼まれたに違いありません。

 次のような構成になっています。
ストーンヘンジの場所は、夏至の日の出、冬至の日の入り、月の出入りの北端、南端を示せるように入念に選ばれていること、グレゴリー暦導入時に暦を11日カットしたことで命が11日奪われると民衆が騒ぐ混乱があったこと、地球上の各地の時間を決める際のどこに基準の子午線を置くかや日付変更線の設定の苦労など、時間に関係した歴史上のできごとを科学コラム風に紹介。

次に、すでにこれまで読んで来たような、タイムトラベルSFに登場する時間のパラドックスや平行宇宙、閉じたループなど種々相を概観し、最後に、「存在していたものも、これから存在するものも、すべてがあらかじめ存在しており、時が流れるという感覚は、われわれの意識が幻影を見ているに過ぎない」というフレッド・ホイル卿の時間の考え方を披露。

さて、文系脳の私はここからはよく分からなくなりましたが、現代物理学の領域の話題に移り、相対性理論が宇宙の解明に大きく寄与したことを述べながら、タイムトラベルが可能なケースを、ブラックホール重力場を突き抜ける未来へしか行けない第一種のタイムトラベル、回転するブラックホールに光速以上のスピードで脱出できるぎりぎりのところを通れば他の時空の宇宙に旅できるという第二種のタイムトラベル、量子物理学の考えを利用した平行宇宙への旅が可能な第三種のタイムトラベルの三つに分けて説明。

最後に、催眠術による夢遊状態や実際の夢の中での過去や未来を体験する例をいくつか挙げ、そこにタイム・ワープ的な現象が起こっているとし、ダンの夢見の理論やユングの集団的無意識、中国の易経などを借りながら、心のタイムトラベルの可能性についての期待を語っています。

 いくつか印象に残った指摘を記しておきます(言葉は少し変えてあります)。
①宇宙的な時間のリズムが地上の生命に影響を及ぼしている例として、海から採取した牡蠣を研究所の水槽で飼育した場合の不思議な現象が紹介されている。故郷の海が満潮となる時刻に口を開くという時差ボケのような状態から、次第に別のリズムを刻むようになるが、それは研究所のある位置がもし海だったら起こるはずの潮の干満のリズムだという。これは太陽と月の引力を感応している証拠(p54)。

②未来を語る場合に、自由意志の問題が壁となる。自由意志が存在する限り未来は不確定だからである。しかし、これも著者によれば、平行宇宙の存在があれば解決することで、自由意志はどの宇宙を横切るかの選択と言う(p168)。

③次の二つはユングの著書からの引用。古代の人間本来の自然観においては、空間も時間も極めて不確かなものだったが、それが測定というものの導入によって、徐々に固定された概念になり(p153)、また、因果律がわれわれの生活に強力な影響を与えているが、因果律が重要視されるようになったのは、たかだか200年のこと。近代以降、統計学的手法や自然科学の比類なき成功が、形而上学的な自然観を駆逐してしまった(p185)。

marcel brion『l’ombre d’un arbre mort』(マルセル・ブリヨン『枯木の木蔭』)

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marcel brion『l’ombre d’un arbre mort』(albin michel 1970年)


 ブリヨンの比較的後期の長編小説。これでウィキペディアに載っている小説19篇のうち、残すのは初期の『Un enfant de la terre et du ciel(地と空の子)』と没後編まれたらしき『Ivre d’un rêve héroïque et brutal(ヒロイックで荒々しい夢に酔いしれて)』の2篇のみとなりました。早く手に入れたいと思っていますが、高価なので躊躇しているところです。

 登場人物が少なく、長い物語の割には展開もわずかで、しかも同じような場面が何度も繰り返されるというブリヨンの特徴が強く出た作品です。追憶として書かれる現実の話と、夢のなかの話、さらには鏡や絵に現われた情景が入り混じって、読んでいて、錯綜した夢か幻のなかをさ迷っている印象を受けます。書き方も、一人称で進行していると思えば、途中で三人称になるなど、物語の視点が絶えず入れ替わりましたが、これは単に単調さを避けるためだけか、それとも眩惑を増すための手法なのでしょうか。

 なので、あらすじはとても複雑というか、逆にあるともないとも言えないくらい単純で、簡単にまとめられるものではないですし、そんなことをしてもこの作品の魅力は伝わらないので、以下の文章で類推していただきたいと思います。

登場人物は、主人公イギリスの貴族の家系に連なるテレンス・ファンガル、幼馴染で今は人妻となっている愛人ジョルジアナ、主人公が3回遭遇する行きずりの女の三者が中心で、ファンガルの祖父やジョルジアナの夫が少し顔を覗かせるのと、ドイツ人らしき地質学者の友人ベルグと、ローマで会った鏡に姿が映らないエルメス侯爵が、水先案内人のように主人公を神秘に導く役割を果たしています。

舞台となる場所は、ファンガルの故郷の枯木の立つモランドハウス、ジョルジアナと再会するキャスルモルレの館に始まり、いろんな場面が出てきます。列挙してみると、ナポリ近くのポンペイらしき廃墟の町、ハンザ同盟の都市ハンブルクの港、宗教儀式を見物するインドネシア?の洞窟、黒マリアのある教会、ドイツの「野蛮人亭」と近くの教会、ローマの森の中の小屋や人形劇の葬列に出会った町角、侯爵の館の屋根裏部屋の人形劇場、侯爵の館の井戸の下の地下道、見知らぬ女と1回目に出会った港町、2回目の商店の奥、3回目のらせん状に運河が取り巻く町、その運河の町の中心にある広場のサーカスなど。

夢のなかの場面では、断崖を降りて行ったところにある海辺、舟で冒険するファンガルの洞窟、子どものとき覗き込んだ氷の張ったタンク、海のなかの難破船と馬の像。絵のなかの情景では、絵本のなかで柱にしがみつく男の居る海辺の洞窟、大きな姿見鏡のまわりの小さな鏡(もしくは絵)に映っている情景、カフェにかかっている絵のなかの海辺を歩く男、など。

 たえず現われキーとなっているイメージは、次のようなもの。いろんな変奏を伴って現われます。
枯木:タイトルにもなっている平原のなかに一本そそり立つ枯木、キャスルモルレにある日時計の中心の針(柱)、運河の町の広場のサーカスの柱、夢で見た難破船の帆柱、砂漠の教会の廃墟に残された柱頭行者の柱など。

鳥:女騎士のまわりを旋回する鴨の大群、宗教儀式で死者の上にかぶさって死んでいく黒鳥、運河の家の屋根の穴から舞い降りたハルピュイア、砂漠の教会の廃墟に舞うハルピュイア、ジョルジアナを嘴で突き死なせた白い大きな鳥、遠くから聞こえる鴉の声。

船:洞窟探検のときのシレーヌの船首のある舟、運河の町の家の船の形をした風見、海中の難破船、「野蛮人亭」近くの湖の舟、行きずりの女と2回目に会ったとき河を渡るのに乗る舟。

人形:夢のなかで抱えていた少女とともにばらばらになった人形、ジョルジアナも人形と化して一員となっている屋根裏部屋の操り人形劇場、ローマの人形劇の葬列、サーカス広場の偽薬売りの人形たち。

馬像:冒頭の砂丘に彫像のように佇む馬に乗った女騎士の姿、断崖から滑り落ち海中に立つ巨大な馬の像、河を渡る舟で出会い買おうとしたが馬主とともに逃げた馬。

焔:ナポリで地獄と呼ばれる火口、洞窟の儀式で飛び交う松明、最後に落雷で炎に包まれる枯木。

 伏線が仕掛けられているというか、至るところが繋がっています。冒頭部分に登場するイタリアのポンペイと思わしき場所で壁の騙し絵の戸から覗いている3人の女は(p28)、結末部に登場する3人のハルピュイア(p330~340)に繋がっています(蛇髪をした復讐の三女神というのも出てきたp124)。オランダ机の引き出しの中を覗く結末で(p344)、上記の壁画の場面で案内人から記念にプレゼントされた黒い陶器の盃(p30)、教会の司祭からプレゼントされた孔雀石(p89)が出てきます。死者から施しは受け取らないと拒絶した占い師が(p162)、最後にまた言及される(p335)など。他にもまだ見落としているのがたくさんあると思います。

 物語のなかに、シビラ・ファン・ローンの名前が出てきました。これは、ブリヨンの初期の代表作で、『現代フランス幻想小説』(白水社)のなかにも収められている同名の作品のライトモチーフ的存在(ちなみにこの本は私がフランス幻想小説に興味を抱くことになったきっかけの書です)。ブリヨンの長編小説は、全体がつながっている連作小説と見るべきなのかもしれません。ブリヨンの小説のどの頁を開いても、他の作品のなかの頁と見分けがつかないくらい、類似した部分が見つかります。一つの曲の変奏を奏でているという感じで、物語の大枠の設定は異なりますが、細部はみな同じなのです。

 「沈黙が霧のように上ってきて、低い階から順にカタレプシーに陥った。普通の眠りというより魔法にかけられたような眠りだった。この家では、眠りのなかに夢があるのではなく、夢から眠りが染み出してきていた」というような夢と眠りと現実の干渉に触れた文章や(p263~267)、蛸が木の枝から触手を伸ばしたり、蟹が海藻をチョキチョキ切ったり、タツノオトシゴと馬、小魚の群と蟻との対比が描かれる海のなかの驚異の場面など(p269~280)、魅力的な部分がたくさんありました。