青山拓央『タイムトラベルの哲学』

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山拓央『タイムトラベルの哲学』(講談社 2002年)


 次は、タイムトラベルについての哲学的考察。新刊で出た当時に一度読んでいます。ちょうどその頃、野矢茂樹の『哲学の謎』や中島義道『「時間」を哲学する』など、時間に触れた入門書的な本を続けて読んでいて、その流れで読んだものと思われます。そのときの感想は、「時間についてのあらゆる観点を、自分の頭で独自に考え抜いている。少し奇抜なところもあるが、それがまた新鮮な魅力となっている」とありました。当時は、大森荘蔵の影響を受けた若手が自分たちの言葉で哲学を語り始めた時期でした。

 この本は、タイムトラベルの時間のあり方について、SF小説に見られる言説からも、物理学からも離れて、独自の哲学的考察を繰り広げていますが、何か結論めいたものがあるわけではありません。タイムトラベルに付随する諸問題について、著者の考えの道筋を披露した書という位置づけだと思います。私のおぼろげに理解できた範囲で、大雑把にまとめてみると、次のようなものです。

第Ⅰ部では、時間を、私の意識だけが捉えた「私の時間」と、物理的な時間軸上に現われる「前後の時間」の二つから考え、私の時間は前後の時間に支えられているとするが、前後の時間にも、物理的な時間軸とは別に、睡眠のあいだは時間が欠落しているなど主観的なものがあると指摘、次いで、客観的な時間軸の根拠は何かと問い、時間の流れという問題やかけがえのない今という存在について論を進めている。

第Ⅱ部がタイムトラベルの本題で、タイムトラベルのパラドックスを考える道具として、過去の歴史と未来の可能性のそれぞれについて時間軸の単線モデルと分岐モデルを組み合わせて、過去も未来も単線(A)、過去は単線で未来は分岐(B)、過去が分岐で未来は単線(×)、過去も未来も分岐(C)の4つのパターンを考え、パラドックスが生じるのは、Bのパターンに限るとし、またこの組み合わせがもっとも常識に近いと指摘。未来へ行って自分に出会うというSF小説の理論的破綻についても言及している。

第Ⅲ部は、アキレスと亀パラドックスでは、二者の運動だけが存在し、時間が尺度となっていないことを指摘したあと、この二者の運動が成立するのは同一性だとして、「視点」の同一性と「対象」の同一性を考え、対象に名前を与えることが同一性の保証になっていることを明らかにしている。さらに終章において、その議論の延長として、同一性と時制の両方を持つ言語に注意を喚起している。


 日ごろあまり自分で物を考えることがないせいで、何度読んでも、理解できないところもありましたが、理解できて強く響く言葉に出会ったり、わくわくするような謎を見つけることで、何とか読み進めることができました。例えば、

色も形もスイカそっくりのメロンが、あるとき発見され・・・一人の科学者のもとに辿り着いた。するとその科学者は、スイカメロンを過去にタイムトラベルさせてしまう。実の所、過去に発見されたスイカメロンとは、この科学者が未来から送ったものであった・・・ではこのメロンは、そもそも「どこから」やってきたのか/p28

われわれは時間の流れのなかで空間を移動することはできても、空間の流れのなかで時間を移動することはできない/p42

なぜわれわれは、「今」について他者と語れるのか?/p48

 これは、

公共的な記憶の一致はいかにして成立するのか?/p80

 と関連しているような気がします。

タイムマシンのスイッチを入れ・・・1970年の時点に移行する・・・自分が過去に戻ったのではなく、世界が1970年の状態に変化したのだ/p54

想起された感覚は、過去の感覚そのものではない。それは過去の想起によって引き起こされた現在の感覚に過ぎない/p74

あなたが一週間前にタイムトラベルするとしよう。このとき一度は現実となったはずの、この一週間はどうなってしまうのだろう? そしてあなたの出発地点にいた人々は? あなた一人のタイムトラベルによってすべてが無に帰すという考え方は、極めて極端なものと言わざるを得ない/p109

持続した時間から無限の瞬間を取り出すことは可能だが、無限の瞬間の寄せ集めが持続した時間になるわけではない/p167

記憶にある出来事と、過去の出来事そのものとを結びつけているのは何だろうか?/p233


 私も調子に乗って、次のような文と問いかけをひとつずつ作ってみました。

死は体験できない、自分の死であっても。

アフリカの一匹の蝶がある花に止まった場合と、その隣の花に止まった場合の二つの世界の分岐と、プーチンウクライナへの攻撃を命じた場合と、命じなかった場合の二つの世界の分岐を比較したとき、分岐の隔たり具合に、どんな違いがあるのだろうか? 未来を改変する強度というものがあるのだろうか。もし強度があるとすればそれを測る尺度はあるのだろうか。

浅見克彦『時間SFの文法』

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浅見克彦『時間SFの文法―決定論/時間線の分岐/因果ループ』(青弓社 2015年)


 私の所持している限りで時間SF作品を読み続けてきましたが、ここからは時間SFやパラレル・ワールドなどについての評論を読んで行きたいと思います。まず多くの作品の例証を挙げながら論じているこの本から。説明が簡略化されていて、理解できない部分もありましたが。

 私が読みながら感じていたようなことは、すべて書かれていました。さすがに専門的に研究されている方のようなので、いろいろ教えられるところがありました。いくつかの特徴がありますが、まず最初に目につくのは、時間SFの多くの作品を網羅して、それをパターン別に分類していること、たぶん取り上げている作品の多さは類書のなかで抜きん出ているのではないでしょうか。

 時間SFのパターンとして、まず、意志と計画にもとづいて時間を移動するものをタイム・トラヴェル、否応なく移動した場合はタイム・スリップとして区別したあと、時間移動をしない場合と、並行世界へ移動する場合と合わせて、とりあえず4つに分け、さらにそのなかでの種々のパターンを挙げています。それぞれに具体作が紹介されていますが略(以下、すべての要約は私の個人的な理解で行なったものなので的が外れているかもしれません)。

 タイム・トラヴェルの部として、
歴史改変型:過去に旅した者は過去の事象に介入することになるが、それで大きく歴史が変わった世界を描く。これにはパラドクスの問題が生じる。
歴史不変型:過去へ旅した者の行為はすでにあらかじめ歴史として組み込まれているという筋立て。これは一種の運命論、決定論でもある。

 タイム・スリップの部として、
過去への郷愁を謳いあげるもの:ジャック・フィニーに代表されるファンタジー的な作品。
反復世界もの:何度も同じ時間を繰り返すことになる地獄のような世界。
シャッフルもの:人生のいろんな時期をランダムに移動する。
逆行もの:時間が逆行したおかしな世界を描く。

 時間移動しない部として、
異時間通信もの:舞台は現代だが、そこで異世界と手紙や電話で通信したり、過去や未来を見る装置が登場したりする。

 並行世界の部として、
改変偽装型:過去を改変したつもりが、時間線の分岐を引き起こして別の並行世界に入る。
偶然世界型:至る場面で並行世界が生じているとする世界観にもとづく。

 また別の分類の仕方と思われますが、次のようなパターンもあります。
因果ループもの:反復世界ものは単に時間が反復するだけだが、これは、原因と結果が円環をなして、互いに干渉し合うパラドックス的な世界。
自己重複の物語:タイム・トラヴェルした先で自分と出会う話。一人だけじゃなく複数の自分が出て来て混乱するのもある。
時間の外へ突き抜ける物語:時間から外れた虚無の世界が描かれる。

 そして、歴史不変型の決定論的な世界観や、並行世界の物語に潜む現在の不確かさをあぶりだす気分、因果ループものが持ついかがわしさについて、注意を喚起し、その後の論を進めているところが、この本の大きな特徴です。


 次に、この本の面白いところは、時間SFの作品のなかの時間のあり方を、小説の語り方とともに論じているところで、次のように論を展開しています。
時間SFでは、時間を逆行させるなどして、時間的経緯に従わないが、それが物語としての本物らしさを失わせてはいない。物語のリアリティは、現実世界との照合によってではなく、物語内の言説の相関的秩序によって支えられており、過去や未来に飛んだ場合でも、また並行世界をまたぐエピソードが展開される際も、直接的な因果が成り立ち得る。物語には、語られる世界の時間的継起とは別の時間秩序があるからだ。

 また物語を語る作者の視点のみならず、読者の読みのあり方も重要な要素として考えているところに、新しさが感じられました。
作者は、物語の結末から始めて発端へと遡るという具合に、あらかじめ全体を掌握して書いているが、読者は冒頭から線状の時間で物語を読み進んで行くという性質がある。そのため、因果ループ作品のなかにある堂々巡り的な時間のあり方には不自然さを感じることになる。しかしそれを救い、物語の本物らしさを作り出すものがある。本物らしさは、語られる世界の真実味ではなく、文章の滑らかさとエピソードの展開のリズムとメロディに基づく。それは、読みのテンションと充実をもたらす語りのあり方であり、例えば、物語の展開と文章が醸し出すユーモアによって、嘘くさい世界に読み手を引き込む仕掛けが挙げられる。
 時間SFには、しばしばユーモアの感覚が漂っているのには気づいてましたが、そういうからくりだったわけです。

 おそらく、著者がもっとも主張したかったのは、時間SFの持つ相対性やいかがわしさの感覚が、現在の文化状況の様相と通じていると断じている部分でしょう。
例えば、タイム・マシンの作り方を未来から教えに来た男が居て、それを作ると、その知識がタイム・マシンの作り方として未来に引き継がれるという因果ループに潜むいかがわしさは、現実の社会のなかで、話題のアイドルだとメディアが注目し、何がすごいかをそっちのけにして、相互作用的にどんどんアイドルの価値が増殖されて行く構図のいかがわしさと共通する。時間SFのなかに見られる過去・現在・未来の同時的相互拘束的決定の関係には、例えば上記の例で、誰がタイム・マシンを創ったのか不明なように、創造する主体がなく、個人としての意志と自由が完全に否定されてしまっている。この状況は、現代文化を生きる者たちの、ニーチェが「消極的ニヒリズム」として断罪したような精神の萎縮へと通じているのではないか。

 たしかに、そういった面があるのかも知れませんが、それを言ってみても仕方がないことです。CMにあるように、「で、どうする?」が問題で、ニーチェは、もう一方で、永劫回帰という時間ループに対し、「これが生だったのか。よし。もう一度」という運命愛に満ちた勇気ある態度で接することを説いています。もし因果によってがんじがらめになっているのであれば、よそ事として客観的に見るのではなく、その世界を引き受け、主体的に参加しようとする意志が重要ではないでしょうか。

古本買いもそろそろ店じまいか

 4月で72歳になろうかというときに、性懲りもなく、せっせと古本を買いためているのはどうかなと思うこの頃です。20年ぐらい前は、古本市で倒れそうになりながら本に顔を近づけている老人を見かけていたのに、最近はそういう老人を見かけないなと思っていたら、自分がその老人の姿になっていることにハタと気がつきました。日ごろ理解ある家内からも、そろそろ買うのを止めたらと言われる始末。まわりの古本仲間も世を去ったり、買うのを控えたり、まるで煙草仲間が一人ずつ禁煙して行ったときのような寂しい気持ちです。しかし、絶古本宣言するほどの勇気もないので、少しずつ減らす努力をすると言うに留めておきましょう。(と言いながら、昨日も一冊落札してしまった。まだ手元に来ないので次回報告)。

 2月は古本市も行かず、古本屋もほとんど行きませんでした。残念なのは、奈良へ出るたびに立ち寄っていたフジケイ堂が、もちいど商店街、小西桜通りの2店とも2月20日で閉店したことです。そんなわけで、ヤフーオークションと「日本の古本屋」で買ったのみ。

 いちばん高い買い物は、大学時代持っていて卒業するときに友人にプレゼントしたか売り飛ばしたかした下記の本。
前川道介『ドイツ怪奇文学入門』(綜芸舎、昭和40年11月、3000円)
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 少し珍しいのは、デュマがネルヴァルについて書いた本。回想なので読みやすそう。中のタイトルは「La mort de Nerval(ネルヴァルの死)」となっていて、ネルヴァルが、ヴィエイユ・ランテルン(古角灯)通りで首を吊ったという一報を聞いて、駆けつける場面から書き起こしている。
ALEXANDRE DUMAS『Sur Gérard de Nerval―Nouveaux Mémoires』(Complexe、90年3月、800円)
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 次の2冊は古本好きの友人から勧められたので、買ったもの。小津夜景氏はフランス在住の俳人とのこと。
小津夜景『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』(素粒社、20年11月、1380円)
東直子/佐藤弓生/石川美南『怪談短歌入門―怖いお話、うたいましょう』(メディアファクトリー、13年、9月、1000円)
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 古本と接していて、有益なことは、知らない作家と出会えることでしょう。今回は帯に引用されていた「人間の袋のみが歩いてくる/カサカサと風に鳴りながら町を」とか「巨いなるスフィンクスの鬚返せよと/久しき恨みかれら言ひいづ」が気に入って。
『初期 永田典子作品集』(短歌新聞社、平成16年11月、600円)
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 戦前の日本の幻想絵画の図録を買いました。こんな展覧会があったことは知りませんでした。シュールレアリスムの影響が濃厚。惹かれた画家は、浜田浜雄、浅原清隆、難波田龍起、米倉寿仁、北脇昇といったところでしょうか。
『地平線の夢―昭和10年代の幻想絵画』(東京国立近代美術館、03年、800円)
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 その他は下記の本を購入。
清水茂『冬の霧』(舷燈社、98年11月、600円)
服部正編『書物の王国⑦ 人形』(国書刊行会、97年12月、772円)
柳瀬尚紀『ノンセンソロギカ―擬態のテクスチュアリティ』(朝日出版社、昭和53年10月、577円)
荻野昌利『さまよえる旅人たち―英米文学に見る近代自我〈彷徨〉の軌跡』(研究者出版、96年5月、810円)
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時間・次元SFアンソロジー二冊

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ロバート・A・ハインラインほか福島正実編『別世界ラプソデー―時間・次元SF』(芳賀書店 1972年)
C・ファディマン編三浦朱門訳『第四次元の小説』(荒地出版社 1960年)


 二冊とも、読むのは2回目で、『別世界ラプソデー』は35年前、『第四次元の小説』は約40年前に読んでいました。各作品についての評価はおおむね変わっていませんが、かなり違っている作品もありました。とくに二冊に共通して見られるユーモアの感覚について昔はあまり分かってなかったようです。『別世界ラプソデー』は、タイム・トラベルSFが中心、『第四次元の小説』は、位相幾何学などをテーマにしたものを集めたもので、SFというよりは数学小説と言った方がふさわしいかも知れません。二冊に共通して収められているのは、ロバート・A・ハインライン「歪んだ家」。

 私の好みから言うと、『別世界ラプソデー』のなかでの最高作は「歪んだ家」、エドモンド・ハミルトン「追放者」、マレイ・レンスター「もう一つの今」、J・T・マッキントッシュ「プレイ・バック」の4作。次に来るのが、バートラム・チャンドラー「漂流者」、アーサー・C・クラーク「時間がいっぱい」、アイザック・アシモフ「もし万一…」。『第四次元の小説』では、最高作はやはり「歪んだ家」とブルース・エリオット「最後の魔術師」、次に、アーサー・ポージス「悪魔とサイモン・フラグ」、ラッセル・マロニー「頑固な論理」、マーチン・ガードナーの「はみ出た教授」と「五色の島」、H・ニヤリング・Jr「数学のおまじない」といったところでしょうか。

(ここからネタバレあり注意)
 『別世界ラプソデー』のなかの作品は、大きく3つに分けられると思います。ひとつは、4次元空間を扱ったもので、一部屋の建物に八部屋を封じ込めた〈過剰空間〉に入りこんで抜けられなくなりようやく抜けたと思ったら遠く離れた土地だったという「歪んだ家」、ハンドバッグのなかにある他宇宙の4次元空間との無謀すぎる闘いを描いたアラン・E・ナース「虎の尾をつかんだら」の2作品。

 もうひとつは、物理的な何らかの器械が出てくる時空間移動もの。無人島で救助を求めている人影があったがそれが未来の自分だったという「漂流者」(島に不時着?していた宇宙船にタイム・マシンがある)、時間の進行速度を変える腕輪をつけることで宇宙人が地球の財産を盗み保管しようとする「時間がいっぱい」、時間往復機に乗ってタイムトラベルの不正が行われていないかを監視するポール・アンダースン「タイム・パトロール」、何百光年離れた世界を映しだすテレビが出てくるが心の中の見たいものしか映していなかったというマレイ・レンスター「失われた種族」、作用・反作用の法則を時間に応用した時行機なるものが登場するウィリアム・テン「ブルックリン計画」、二人の相性が良ければどんな紆余曲折があっても結局運命は変わらないという「もし万一…」(別の選択肢を取った場合の世界を映すスクリーンが出てくる)、時間のスプリングを垂直に辿って恐竜時代へと遡るP・スカイラー・ミラー「時の砂」。

 三つ目は、器械の出てこないファンタジーSFとも言うべきもので、SF作家らが酒場談義をしているなか一人の作家が自らの想像した世界に閉じ込められているのが今だと告白する「追放者」、交通事故で妻を亡くした夫が交通事故で自分の方が死んでいる世界に住む妻とラブレターのやり取りをする「もう一つの今」、ある男が亡き妻を愛するあまり妻の死の直前に来ると時間を巻き戻してしまうため全世界が時間のループにはまる「プレイ・バック」。

 また別の仕分け方をすると、時間ループものが「漂流者」、「プレイ・バック」。恋愛ファンタジーSFが、「タイム・パトロール」、「もし万一…」、「もう一つの今」、「プレイ・バック」ということもできます。


 『第四次元の小説』は、さすがに数学だけあって私にはよく理解できないところがありますが、訳者の「何やら面倒なことが書いてあるなあ、と鼻糞をほじりながら読んで貰えればいい」という声に励まされて、各篇を俯瞰してみます。

 目につくのが、難問を課されてそれを解こうとするという作品が多いことです。悪魔からの魂を買いたいとの申し出にフェルマーの定理を解けたら魂を売るという契約をして悪魔を苦悶に追い込む「悪魔とサイモン・フラグ」、できの悪い生徒が教授の娘に結婚を申し込むと教授から解ければ許そうと数学の問題を出されるエドワード・ペイジ・ミッチェル「タキポンプ」、できの悪い生徒が問題に答えられないのを見かねて髪の毛を植えた人形を作ってその人形に教えるとその生徒がみるみる数学の天才になるという「数学のおまじない」。

 具体的な数学としては、メビウスの輪をテーマとするものがあり、ベルトの外側にだけペンキを塗ろうとするのをメビウスの輪を応用して罠に嵌めるウィリアム・ハズレット・アプソン「A・ボッツとメビウスの輪」、側線のある複雑な路線を持つ地下鉄でひとつの列車が別の次元世界に入りこみ行方不明になってしまうA・J・ドイッチュ「メビウスという名の地下鉄」。クラインの壺のテーマでは、人間を位相幾何学的に折りたたむという荒唐無稽だが面白い「はみ出た教授」、クラインの壺に入って脱出しようとする魔術師が偽の壺ではなく本物の壺に入ってしまい抜けられなくなる「最後の魔術師」、それに「五色の島」の最後にも少し顔を覗かせます。

 その他、フェルマーの定理を悪魔に解かそうとする「悪魔とサイモン・フラグ」、確率論で比喩として語られる、六匹のチンパンジーがタイプライターを目くらめっぽう叩き続けたら大英図書館の本の文章を全部作ることができるというのを実際にやってみると、一文字も無駄なく作成してしまう「頑固な論理」、列車の上に列車をどんどん積んでいくとスピードが加算されて行くという一種の相対性理論?が出てくる「タキポンプ」、四色問題を解くために5つの部族すべてが互いに接しているという島の実態を探る「五色の島」。                             

 数学の難しい話ですが、どことなくユーモアのある作品が多い。まず人物像ですが、「歪んだ家」のマッド設計師ティール、マーチン・ガードナーの2作に共通して出てくるスラペナルスキー博士や、「タキポンプ」に登場する家庭教師のリバロールら、エキセントリックだが憎めない人物が印象に残ります。これは賢すぎる人(とくに理系)にどことなく滑稽なところがあるという日常の経験が背景にあるような気がします。それに語り口にどことなくおかしみがありました。「悪魔とサイモン・フラグ」で、悪魔が悪戦苦闘して時間とともにやつれ果てていく様子や、「頑固な論理」で、助教授が最初は馬鹿にしていた6匹のチンパンジーが完璧なタイプを打つのを見て次第に狂気を募らせる場面、「A・ボッツとメビウスの輪」のチャップリンを思わせるような失敗の連続など。

タイム・スリップ長編二冊

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ジェリー・ユルスマン小尾芙佐訳『エリアンダー・Mの犯罪』(文春文庫 1987年)
ジュード・デヴロー幾野宏訳『時のかなたの恋人』(新潮文庫 1996年)


 わが家にある本のなかから手あたり次第、時間SFに関係した本を読んでいますが、今回はともにかなり長めの長編小説。文庫本ですが、『エリアンダー・Mの犯罪』は474ページ、『時のかなたの恋人』は602ページありました。『エリアンダー・Mの犯罪』は出版された直後に一度読んでいて今回二度目。30年以上前なので、読みながら雰囲気は思い出したものの、その先どうなっていくかまったく覚えていませんでした。

 両者に共通するのは、男女の恋愛場面が物語のなかで頻繁に出て来て、あからさまな性の描写もふんだんにあるというところでしょうか。『エリアンダー・Mの犯罪』は、主役は離婚したばかりの女性で、母親からセックス狂と言われるのもそのはず、夫の部下や、船旅の途中知り合った男、父親付の弁護士、ドイツの外交官と次々に関係を持ち、副次的主役である祖母は娼館の女経営者で、本人も高級娼婦としての振舞いを見せるほか、娼館内の様子や好色な男たちが憚ることなく描かれています。『時のかなたの恋人』は、主人公の女性は外科医と同棲している身でありながら、16世紀の好色な伯爵に夢中となり、最後は飛行機のなかで知り合った伯爵の子孫の建築家と結ばれるという展開。

 タイム・トラベルの点から眺めた場合、両者ともタイム・トラベルという意志的で悠長な状況ではなく、気がついたら別の時代に居たという点で、タイム・スリップというのがいいと思います。


(ここから物語の核心に触れるので、ネタバレ注意)
 『エリアンダー・Mの犯罪』は、1970年に息を引き取りかけている老女エリアンダーの魂が、1907年に馬車から突き落とされ意識を失った若い自分の身体にタイム・スリップすることが物語の核になっています。彼女は、自分の息子が第二次世界大戦で死んだことを知っているので、それを阻止しようと1913年にヒットラーを暗殺し、それ以後まったく別の展開を見せることになる世界が描かれています。タイム・スリップした際、魂が乗り移っただけでなく、部屋の所持物も一緒に移動していて、そこに写真集『第二次世界大戦史』や競馬の勝ち馬が記録された『大英馬事百科事典』があったというのが味噌。

 前半、エリアンダーの孫のレスリーを中心に話が展開しますが、そこは1983年で、第二次世界大戦の起こっていない世界。父親の遺品から『第二次世界大戦史』を見つけ、それが偽書であるかどうか、歴史学者や、写真映像の解析に詳しい映画監督、元イギリス軍准将、元ドイツ軍参謀総長などを集めて、検証する部分が興味の中心です。どう考えてもトリックではなく実際に起こった出来事だが、そんなことはありえないというのが彼らの結論。

 後半になって、エリアンダーの生い立ちが徐々に明かされるとともに、『第二次世界大戦史』が奇書として再刊され、映画化の話が持ち上がるに至って、それを英米の謀略と受け止めたドイツ国首脳陣によって、またヒットラーの悪夢が再現されようとします。レスリーは愛人のドイツ外交官からその動きを聞かされ、外交官とともにドイツ国首脳陣の秘密基地に乗り込んで、一同を爆死させるという祖母と同じような行動を取ってこの物語は終わります。時間SFに関する議論のなかで、過去に遡って歴史上の英雄を殺せば歴史が変わるかというのがあり、英雄は歴史の流れのなかで作られたにすぎないので、死んでも必ずや誰か代わりの者が出てきて大局的には変化はないという考え方がありますが、これを反映したものでしょう。

 以上は大枠の話で、これ以外に、幼児性愛者の露出狂で監獄にも入った大金持ちや、馬車から突き落とされて怪我したエリアンダーを世話し友人となる双子の姉妹のこと、エリアンダーが競馬で勝った金をもとに娼館を経営する話、エリアンダーの母親とH・G・ウエルズの不倫関係や(エリアンダーはウエルズの娘に違いない)、そのウエルズの友人の劇作家がエリアンダーの夫となる挿話などが絡み合う複雑な構造になっており、時代が目まぐるしく交錯し、場面が頻繁に入れ替わるので、訳が分からなくなってきました。私の頭では、年表に落とし込んで逐一整理しないと、正確に理解できないと思われます(そんなことは面倒くさいのでしない)。

 不思議な現象は、例えば、お墓のなかに1970年に亡くなった老女のエリアンダーの遺骨と、1915年に処刑された若いエリアンダーの遺骨が並んで埋められているという奇怪な状況。また、エリアンダーの夫となる劇作家が一度は自動車事故で死に、次にそれを知っているエリアンダーがその自動車を叩き壊して未然に防いだ後、エリアンダーのヒットラー暗殺を止めさせようとして乗った飛行機から落ちてまた死にますが、いずれもヒットラー暗殺で世界が変わる以前の話だということ。エリアンダーに老女の魂が乗り移った後の短い生涯は詳細に描かれていますが、乗り移らずに過ごした人生は、老女になってからの回想で2行ほど出てくるだけなので、謎に包まれたままということ。


 『時のかなたの恋人』では、主人公のアメリカ女性が、同棲中の男とイギリス旅行をしているあいだに捨てられて、教会の墓に凭れて泣いていると、その泣き声に反応して、墓の主が死ぬ直前の1564年の世界から1988年の世界に呼び出されるという第一のタイム・スリップがあり、そこでは16世紀の騎士が現代のさまざまな事物に当惑し、自分が歴史上の笑い者になっているのに悲憤するさまが描かれ、次に第二のタイム・スリップとして、今度は女主人公が1560年の世界に行き、田舎の糞便にまみれた貧困と野蛮さに驚きながら、騎士のために歴史的事実をひとつづつ改変していくという話になっています。彼女が再び現代に戻ったとき、以前「1564年没」と書かれていた墓碑が「1599年」に変わっており、騎士は英雄と讃えられているなど、歴史が塗り替えられていることを発見します。

 ハーレクインロマンスは読んだことがありませんが、たぶんその女性向け大衆小説のジャンルに入る作品でしょう。悪口になってしまいますが、いくつかの要素を列挙してみますと、①女性の主人公が一種のヒーロー(ヒロインと言うべきか)になっていて、弱い部分を見せながらも、正義を代弁し強く生きていること。②根っからの性悪女や恋敵が大勢出てきて、ヒロインが冷遇されたり惨めな気分を味わうという極端な人物の描き方があること。③ヒロインが逆境に陥ると、絵にかいたように都合よく、男が出てきて助けてくれること。④その調子で、最後はハッピーエンドで、すべてが好転すること。⑤適度にきわどいセックスシーンがあること。⑥ヒロインは他人の目線を気にし過ぎており、またすぐ男が言い寄って来るのが不思議。

 この本でも、スコットランド女王メアリの名前が出てきました。準主役の16世紀の騎士は、やはりメアリ女王に加担してエリザベス女王に歯向かうべく軍勢を集めようとした罪で斬首刑を宣告されています。先日読んだアトリーの『時の旅人』を意識した作品なのでしょうか。

Maurice Pons『Le passager de la nuit』(モーリス・ポンス『夜の同乗者』)

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Maurice Pons『Le passager de la nuit』(Points 2017年)


 引き続き、モーリス・ポンスを読みました。1959年に書かれた初期の作品です。前回読んだ『La passion de Sébastien N.』(1968年)に比べて、こちらは一転してまっとうな小説。共通点は、車が主人公のような存在感を示しているところで、ボンネットの先端にクロムの飾りのついたプジョー403という車が登場します。

 全篇、パリからブルゴーニュ地方ジュラ県のモレというところまでのドライブが描かれていて、もし映画ならこういうのはロード・ムービーというのでしょうか。いろんな地名や道路名が出てきたり、猛スピードで車を追い越したり、坂道をクラッチを切って滑走するので、車の好きな人にはたまらないと思われます。

 運転しているのに、レストランで二人でワインを一本飲んで、さらにバーでウィスキーのダブルを飲んで、しかもバーから出た直後警察官と話しをして、双方とも飲酒運転の意識がまったくないのは当時の(今でも?)フランスならではでしょうか。

 この本の最初に、ヴァレリ・ゼナティという作家と編集者による前書き、そしてポンス自身が1991年再版時に寄せた序文「もう30年も前!」が掲載されていますが、それらからうかがえるこの作品の出版にまつわるエピソードが胸を打ちます。初版(1959年)はアルジェリア戦争真っ只中に出版されていますが、どうやらポンスはFLNアルジェリア民族解放戦線)の一員あるいはシンパで、仲間たちが拷問にあったり、死刑になったりするなか、出版社のルネ・ジュリアーから、「小説の形にすれば逮捕されない」と言われて書いたのがこの作品ということです。

 この小説が当時監獄に居た仲間のあいだで読まれたのがいちばん嬉しかったとポンスは述懐し、「30年前にフランス軍の捕虜となっていたが、その後アルジェリア共和国の初代大統領になったアーメッド・ベン・ベラとバルセロナの空港で出会った・・・彼が監獄でこの本を読んだと言ってくれたことを誇りに思う」(p9)と書いていました。作品中にも「ベン・ベラ」の名が出てきたので、ベン・ベラは獄中で嬉しかったに違いありません。

 今回の版(2017年)のいきさつも胸を打ちました。ポンス作品に魅入られた女性編集者が、過去の絶版となっている作品を復刊しようとして高齢のポンスと手紙をやりとりしていて、急に返事が来なくなったと思ったら訃報が出ていたと書いています。同時に妹さんからの手紙でポンスが再刊を喜んでいたと知り、それが死者からのメッセージのように思えて、出版を急いだということです。


 この作品は、アルジェリア独立戦争の現場を描いたものでもなく、パリのメンバーの暗闘を描いたものでもありません。主人公の作家が、映画関係の知り合いに頼まれて、見知らぬ男を夕刻にパリで拾い、ブルゴーニュ地方のシャンパニョルという町まで、自分の車に乗せるというもので、主人公はFLNでもなくシンパでもない単なるフランス人。

(以下ネタバレ注意)
ただ、その同乗者は、陰気なアルジェリア人で額に傷があり、大事そうに鞄を抱え、「何か起こっても、俺のことは知らないと言うんだ。道で拾っただけとね」とぼそりと言い、パリからどれくらい離れたかをたえず気にしている。カフェでも人目につかないような席を選んで座るが、そのカフェの新聞でその日の朝、パリでテロ事件が起こり大臣が暗殺されたことを知る。途中警察の検問が見えると、男はすぐさま鞄を後部座席に投げる。

どうやら、同乗者は解放戦線の主要メンバーらしく、パリのテロ事件にかかわって逃亡しているという気配が濃厚に立ち込めてくる。主人公はたいへんな奴を乗せてしまったと後悔する。途中で給油したガソリンスタンドで、アルジェリア人と思しき店員から憎悪の表情で睨まれ、立ち寄ったレストランでは、客らから冷たい視線を浴びる。同乗者の説明では、アルジェリア人からすれば同国人が戦争中のフランス人とスポーツカーに乗っているのが憎悪の対象で、またフランス人からすればアルジェリア人はみんな敵に見えるという。

路上で警察の尋問を受け、無事に切り抜けた後、ほっとしたのか、同乗者は、テロ事件をきっかけに、仲間が散り散りに逃げていて、鞄の中身は4400万フランだと告げ、フランス国内での資金の提供ルートや協力者の厖大な網の目を教えてくれる。そして自分は医学生だったが、アルジェリアでは医者はゲリラ軍の診療を拒否し薬局も薬や包帯を売らないので、負傷者の治療を手伝っているうちにFLNに引きずり込まれたと告白し、麻酔や水なしで手術をする地獄のような体験を話す。主人公は自分も共犯者になるのかと悪夢を見ているような気がして来る。

 ところが、結末になって雰囲気ががらりと変わります。シャンパニョルに到着したあと、親切心からその先目的地だという田舎村まで送っていく途中、額の傷は幼いころロバに蹴られた傷だと分かり、最後に行きついた先は司祭館で、如雨露を手にした園芸姿の牧師が迎えてくれ、お茶を勧められたりします。断って帰る際、同乗者から「アドリアン叔父さんは元気だった」と主人公の映画関係の知り合いへの言伝を頼まれるなど、物事が長閑で平凡な方向に収束していきます。結局、本当のところ何だったのか、同乗者が長旅の疲れを紛らわそうとした架空の話なのか、主人公の過剰な想像力のなせる業か分からないままに終わります。このもやもやとした感じは、いかにもフランス的終わり方。

時間SFの古典『タイム・マシン』ともう一冊

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H・G・ウエルズ宇野利泰訳『タイム・マシン―H・G・ウエルズ短篇集Ⅱ』(早川書房 1967年)
サム・マーウィン・ジュニア川村哲郎訳『多元宇宙の家』(早川書房 1967年)


 ハヤカワ・SF・シリーズを2冊並べてみました。『タイム・マシン』は学生時代に一度読んだもの、『多元宇宙の家』はいつ買ったか覚えてませんが、読まずに置いておいたもの。このシリーズは高校(中学?)時代に友人からレイ・ブラッドベリの『太陽の金の林檎』を勧められて読んだ記憶があり、とても懐かしい。

 時間SFを取りあげるなら、ウエルズの「タイム・マシン」は避けられないと再読しましたが、この本に収められている他の三つの短篇にあらためて魅入られました(「堀にある扉」は4回ぐらい読んでいるような気がする)。

(ここからまたネタバレ注意)
 なかでも「故エルヴシャム氏の話」は、珍しい換魂譚で、集中最高作。遺書の形で物語られます。若く将来ある若者が、老哲学者に出会い、巨額の財産を相続する代わりに私の名を名乗ってほしいと頼まれ、生命保険をかけさせられたうえに、身体を交換される話。怪しい酒を飲まされて目覚めたときに、自分の身体が皺皺のよぼよぼとなったのに気づく場面は圧巻です。若い自分の記憶を持ちながら、身体だけが老人になっていて、果たして自分は誰なのか、「わたしはエルヴシャムで、彼はわたしなのではあるまいか?」(p132)と悩むのは、荘子胡蝶の夢を思わせます。

 「堀にある扉」は桃源郷譚の秀作。友人が自分の体験を語るという設定で、その世界に引き込まれていきます。幼いころに、堀にある扉を押して大きな邸宅の魔法の園のような庭に迷い込んだ友人が、その場所がどこか分からず探し続けるが、人生を左右するような差し迫ったときに限って、扉のある堀の前を通ることになり、後ろ髪を引かれるように立ち去らざるを得なかったという告白。

 「魔法の店」も、何回か読んだ作品ですが、奇怪な想像力が全開の一品。子どもにせがまれてマジックの店に入ると、片方の耳が大きな店員が次々と手品を披露しながら、店にある変わった品々を説明し、最後に子どもに円筒形の箱をかぶせると、子どもはどこかへ消えてしまう。店員に子どもを返せと体当たりをするが、当たったのは外にいた他人で、子どもも横に居たが、店は消えてなくなっていたという話。

 「タイム・マシン」は詳しくは説明しませんが、昔読んだ記憶と違って、けっこう活劇場面があるのに驚きました。802701年後の世界へ着いてみると、そこは、地上に住み美と快楽を享受する優雅な人たちと、地下に住むとても人間と言えない白い怪物のような労働者とに別れた世界で、現代の資本家と労働者の身分が固定化され、それが極端におし進められた世界だったという話。これは先日読んだ『時間衝突』のレトルト・シティの構造と似ています。一種の未来社会論であり、現代社会批判の書でもあると思います。「気候はぼくたちの世界よりよほど温かくなっているのだった」(p160)という温暖化の視点がすでにあったのに驚きました。もうひとつ面白かったのは、「死んだ人間がみな幽霊になっているとすると、地上はまもなく幽霊で氾濫してしまうだろう」(p177)というグラント・アレンという人の説が紹介されていたこと。


 『多元宇宙の家』は、SFならではの奇想天外な話。で概要は次のとおり。
接時点という場所がアメリカに何カ所かあり、そこに行くと、並行宇宙(この本では平行と書いていた)に移動できるという設定で、ある島の取材を編集長から命じられた主人公たち(機械に詳しいカメラマンと女流詩人)は1814年から別の展開になっている並行世界に行くはめになる。そこは、ワシントン政府を焼打ちし樹立したコロンビア共和国と、セント・ヘレナからナポレオンを救出したメキシコ共和国とが対峙している世界だった。

その世界では飛行機がない代わりにロケット列車や人を溶かす分解銃があり、窮地に陥りかけた主人公たちは空飛ぶ車に乗って脱出、さらにサンフランシスコが首都になっていると思しき別の並行世界へ行き、令嬢に詩を教えるという触れ込みでアメリカ大統領に接近する。そこで、人口過剰に悩む住人を火星に移住させるロケット技術を教える代わりに、分解銃を無力化する対ナパーム繊維を入手することができ、前の並行世界に戻ってコロンビア共和国とメキシコ共和国の和平につなげるという話。

結末部分で、取材を命じた編集長は、並行宇宙の問題を解決するエージェントの一員で、コロンビア共和国とメキシコ共和国の和平を目的として適任者を選び派遣したということが分かる。主人公たちが和平を一件落着して大元の世界へ戻ると、そこはイギリスがアメリカを支配している大英共和国という別の並行世界だったという落ちがついている。アメリカ映画的ハッピーエンド。

 「女流詩人の中には、往々にして並はずれて醜い容貌の人たちがいるものだけれど―おそらく、それだからこそ彼女たちは感情の捌けはけ口を詩作に求めるようになったのだ」(p24)とか、メキシコ共和国の兵士を見て「三人の、小鬼のように醜悪な容貌の男ども」(p136)という言葉を発するあたり、どきっとするような差別的偏見が見られるのは、1950年代のアメリカならではでしょうか。