時間・次元SFアンソロジー二冊

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ロバート・A・ハインラインほか福島正実編『別世界ラプソデー―時間・次元SF』(芳賀書店 1972年)
C・ファディマン編三浦朱門訳『第四次元の小説』(荒地出版社 1960年)


 二冊とも、読むのは2回目で、『別世界ラプソデー』は35年前、『第四次元の小説』は約40年前に読んでいました。各作品についての評価はおおむね変わっていませんが、かなり違っている作品もありました。とくに二冊に共通して見られるユーモアの感覚について昔はあまり分かってなかったようです。『別世界ラプソデー』は、タイム・トラベルSFが中心、『第四次元の小説』は、位相幾何学などをテーマにしたものを集めたもので、SFというよりは数学小説と言った方がふさわしいかも知れません。二冊に共通して収められているのは、ロバート・A・ハインライン「歪んだ家」。

 私の好みから言うと、『別世界ラプソデー』のなかでの最高作は「歪んだ家」、エドモンド・ハミルトン「追放者」、マレイ・レンスター「もう一つの今」、J・T・マッキントッシュ「プレイ・バック」の4作。次に来るのが、バートラム・チャンドラー「漂流者」、アーサー・C・クラーク「時間がいっぱい」、アイザック・アシモフ「もし万一…」。『第四次元の小説』では、最高作はやはり「歪んだ家」とブルース・エリオット「最後の魔術師」、次に、アーサー・ポージス「悪魔とサイモン・フラグ」、ラッセル・マロニー「頑固な論理」、マーチン・ガードナーの「はみ出た教授」と「五色の島」、H・ニヤリング・Jr「数学のおまじない」といったところでしょうか。

(ここからネタバレあり注意)
 『別世界ラプソデー』のなかの作品は、大きく3つに分けられると思います。ひとつは、4次元空間を扱ったもので、一部屋の建物に八部屋を封じ込めた〈過剰空間〉に入りこんで抜けられなくなりようやく抜けたと思ったら遠く離れた土地だったという「歪んだ家」、ハンドバッグのなかにある他宇宙の4次元空間との無謀すぎる闘いを描いたアラン・E・ナース「虎の尾をつかんだら」の2作品。

 もうひとつは、物理的な何らかの器械が出てくる時空間移動もの。無人島で救助を求めている人影があったがそれが未来の自分だったという「漂流者」(島に不時着?していた宇宙船にタイム・マシンがある)、時間の進行速度を変える腕輪をつけることで宇宙人が地球の財産を盗み保管しようとする「時間がいっぱい」、時間往復機に乗ってタイムトラベルの不正が行われていないかを監視するポール・アンダースン「タイム・パトロール」、何百光年離れた世界を映しだすテレビが出てくるが心の中の見たいものしか映していなかったというマレイ・レンスター「失われた種族」、作用・反作用の法則を時間に応用した時行機なるものが登場するウィリアム・テン「ブルックリン計画」、二人の相性が良ければどんな紆余曲折があっても結局運命は変わらないという「もし万一…」(別の選択肢を取った場合の世界を映すスクリーンが出てくる)、時間のスプリングを垂直に辿って恐竜時代へと遡るP・スカイラー・ミラー「時の砂」。

 三つ目は、器械の出てこないファンタジーSFとも言うべきもので、SF作家らが酒場談義をしているなか一人の作家が自らの想像した世界に閉じ込められているのが今だと告白する「追放者」、交通事故で妻を亡くした夫が交通事故で自分の方が死んでいる世界に住む妻とラブレターのやり取りをする「もう一つの今」、ある男が亡き妻を愛するあまり妻の死の直前に来ると時間を巻き戻してしまうため全世界が時間のループにはまる「プレイ・バック」。

 また別の仕分け方をすると、時間ループものが「漂流者」、「プレイ・バック」。恋愛ファンタジーSFが、「タイム・パトロール」、「もし万一…」、「もう一つの今」、「プレイ・バック」ということもできます。


 『第四次元の小説』は、さすがに数学だけあって私にはよく理解できないところがありますが、訳者の「何やら面倒なことが書いてあるなあ、と鼻糞をほじりながら読んで貰えればいい」という声に励まされて、各篇を俯瞰してみます。

 目につくのが、難問を課されてそれを解こうとするという作品が多いことです。悪魔からの魂を買いたいとの申し出にフェルマーの定理を解けたら魂を売るという契約をして悪魔を苦悶に追い込む「悪魔とサイモン・フラグ」、できの悪い生徒が教授の娘に結婚を申し込むと教授から解ければ許そうと数学の問題を出されるエドワード・ペイジ・ミッチェル「タキポンプ」、できの悪い生徒が問題に答えられないのを見かねて髪の毛を植えた人形を作ってその人形に教えるとその生徒がみるみる数学の天才になるという「数学のおまじない」。

 具体的な数学としては、メビウスの輪をテーマとするものがあり、ベルトの外側にだけペンキを塗ろうとするのをメビウスの輪を応用して罠に嵌めるウィリアム・ハズレット・アプソン「A・ボッツとメビウスの輪」、側線のある複雑な路線を持つ地下鉄でひとつの列車が別の次元世界に入りこみ行方不明になってしまうA・J・ドイッチュ「メビウスという名の地下鉄」。クラインの壺のテーマでは、人間を位相幾何学的に折りたたむという荒唐無稽だが面白い「はみ出た教授」、クラインの壺に入って脱出しようとする魔術師が偽の壺ではなく本物の壺に入ってしまい抜けられなくなる「最後の魔術師」、それに「五色の島」の最後にも少し顔を覗かせます。

 その他、フェルマーの定理を悪魔に解かそうとする「悪魔とサイモン・フラグ」、確率論で比喩として語られる、六匹のチンパンジーがタイプライターを目くらめっぽう叩き続けたら大英図書館の本の文章を全部作ることができるというのを実際にやってみると、一文字も無駄なく作成してしまう「頑固な論理」、列車の上に列車をどんどん積んでいくとスピードが加算されて行くという一種の相対性理論?が出てくる「タキポンプ」、四色問題を解くために5つの部族すべてが互いに接しているという島の実態を探る「五色の島」。                             

 数学の難しい話ですが、どことなくユーモアのある作品が多い。まず人物像ですが、「歪んだ家」のマッド設計師ティール、マーチン・ガードナーの2作に共通して出てくるスラペナルスキー博士や、「タキポンプ」に登場する家庭教師のリバロールら、エキセントリックだが憎めない人物が印象に残ります。これは賢すぎる人(とくに理系)にどことなく滑稽なところがあるという日常の経験が背景にあるような気がします。それに語り口にどことなくおかしみがありました。「悪魔とサイモン・フラグ」で、悪魔が悪戦苦闘して時間とともにやつれ果てていく様子や、「頑固な論理」で、助教授が最初は馬鹿にしていた6匹のチンパンジーが完璧なタイプを打つのを見て次第に狂気を募らせる場面、「A・ボッツとメビウスの輪」のチャップリンを思わせるような失敗の連続など。