時間SFの古典『タイム・マシン』ともう一冊

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H・G・ウエルズ宇野利泰訳『タイム・マシン―H・G・ウエルズ短篇集Ⅱ』(早川書房 1967年)
サム・マーウィン・ジュニア川村哲郎訳『多元宇宙の家』(早川書房 1967年)


 ハヤカワ・SF・シリーズを2冊並べてみました。『タイム・マシン』は学生時代に一度読んだもの、『多元宇宙の家』はいつ買ったか覚えてませんが、読まずに置いておいたもの。このシリーズは高校(中学?)時代に友人からレイ・ブラッドベリの『太陽の金の林檎』を勧められて読んだ記憶があり、とても懐かしい。

 時間SFを取りあげるなら、ウエルズの「タイム・マシン」は避けられないと再読しましたが、この本に収められている他の三つの短篇にあらためて魅入られました(「堀にある扉」は4回ぐらい読んでいるような気がする)。

(ここからまたネタバレ注意)
 なかでも「故エルヴシャム氏の話」は、珍しい換魂譚で、集中最高作。遺書の形で物語られます。若く将来ある若者が、老哲学者に出会い、巨額の財産を相続する代わりに私の名を名乗ってほしいと頼まれ、生命保険をかけさせられたうえに、身体を交換される話。怪しい酒を飲まされて目覚めたときに、自分の身体が皺皺のよぼよぼとなったのに気づく場面は圧巻です。若い自分の記憶を持ちながら、身体だけが老人になっていて、果たして自分は誰なのか、「わたしはエルヴシャムで、彼はわたしなのではあるまいか?」(p132)と悩むのは、荘子胡蝶の夢を思わせます。

 「堀にある扉」は桃源郷譚の秀作。友人が自分の体験を語るという設定で、その世界に引き込まれていきます。幼いころに、堀にある扉を押して大きな邸宅の魔法の園のような庭に迷い込んだ友人が、その場所がどこか分からず探し続けるが、人生を左右するような差し迫ったときに限って、扉のある堀の前を通ることになり、後ろ髪を引かれるように立ち去らざるを得なかったという告白。

 「魔法の店」も、何回か読んだ作品ですが、奇怪な想像力が全開の一品。子どもにせがまれてマジックの店に入ると、片方の耳が大きな店員が次々と手品を披露しながら、店にある変わった品々を説明し、最後に子どもに円筒形の箱をかぶせると、子どもはどこかへ消えてしまう。店員に子どもを返せと体当たりをするが、当たったのは外にいた他人で、子どもも横に居たが、店は消えてなくなっていたという話。

 「タイム・マシン」は詳しくは説明しませんが、昔読んだ記憶と違って、けっこう活劇場面があるのに驚きました。802701年後の世界へ着いてみると、そこは、地上に住み美と快楽を享受する優雅な人たちと、地下に住むとても人間と言えない白い怪物のような労働者とに別れた世界で、現代の資本家と労働者の身分が固定化され、それが極端におし進められた世界だったという話。これは先日読んだ『時間衝突』のレトルト・シティの構造と似ています。一種の未来社会論であり、現代社会批判の書でもあると思います。「気候はぼくたちの世界よりよほど温かくなっているのだった」(p160)という温暖化の視点がすでにあったのに驚きました。もうひとつ面白かったのは、「死んだ人間がみな幽霊になっているとすると、地上はまもなく幽霊で氾濫してしまうだろう」(p177)というグラント・アレンという人の説が紹介されていたこと。


 『多元宇宙の家』は、SFならではの奇想天外な話。で概要は次のとおり。
接時点という場所がアメリカに何カ所かあり、そこに行くと、並行宇宙(この本では平行と書いていた)に移動できるという設定で、ある島の取材を編集長から命じられた主人公たち(機械に詳しいカメラマンと女流詩人)は1814年から別の展開になっている並行世界に行くはめになる。そこは、ワシントン政府を焼打ちし樹立したコロンビア共和国と、セント・ヘレナからナポレオンを救出したメキシコ共和国とが対峙している世界だった。

その世界では飛行機がない代わりにロケット列車や人を溶かす分解銃があり、窮地に陥りかけた主人公たちは空飛ぶ車に乗って脱出、さらにサンフランシスコが首都になっていると思しき別の並行世界へ行き、令嬢に詩を教えるという触れ込みでアメリカ大統領に接近する。そこで、人口過剰に悩む住人を火星に移住させるロケット技術を教える代わりに、分解銃を無力化する対ナパーム繊維を入手することができ、前の並行世界に戻ってコロンビア共和国とメキシコ共和国の和平につなげるという話。

結末部分で、取材を命じた編集長は、並行宇宙の問題を解決するエージェントの一員で、コロンビア共和国とメキシコ共和国の和平を目的として適任者を選び派遣したということが分かる。主人公たちが和平を一件落着して大元の世界へ戻ると、そこはイギリスがアメリカを支配している大英共和国という別の並行世界だったという落ちがついている。アメリカ映画的ハッピーエンド。

 「女流詩人の中には、往々にして並はずれて醜い容貌の人たちがいるものだけれど―おそらく、それだからこそ彼女たちは感情の捌けはけ口を詩作に求めるようになったのだ」(p24)とか、メキシコ共和国の兵士を見て「三人の、小鬼のように醜悪な容貌の男ども」(p136)という言葉を発するあたり、どきっとするような差別的偏見が見られるのは、1950年代のアメリカならではでしょうか。