岡崎文彬『ヨーロッパの造園』

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岡崎文彬『ヨーロッパの造園』(鹿島出版会 1975年)


 いつの頃からか、塔や聖堂、墓地、桃源郷などとともに、庭園に興味が出て、少しずつ古本を買い集めてきました。岡崎文彬の本が未読のまま3冊ありますので、少しずつ読んでいきます。先日読んだ独文・美学の鼓常良とは違って、庭園が専門の農学部の方で、ヨーロッパ中の庭園の現場に何度も足を運んでいます。

 庭園についての歴史的な流れについては、これまで読んできた鼓常良『西洋の庭園』やジャック・ブノワ=メシャンの『人間の庭』と、それほど大きく異なっている部分はありませんでした。重複を覚悟で、いくつかのポイントを列挙しますと、

ギリシアでは芸術的価値の高い公共建築は数多く残っているが、大邸宅や庭園は残っていない。もともと作られなかった。その大きな理由としてデモクラシーを挙げている。この時代すでに、現代の運動公園の前身となるギュムナシオン、大学キャンパスの前身アカデモスという形態が生まれている。

②ローマ時代にはすでに、五点形植栽(キンカンクス)やトピアリ(木を刈りこんでいろんな形を造形するもの)、さらには水による仕掛けが試みられている。

③中世の修道院の回廊では、柱の下に胸壁(パラペット)が作られているのが特徴だが、これは雨で水が入りこまないようにし、聖書の場面を描いた壁面を長持ちさせようというのが狙いであった。

④ラビリンスとメーズの違いは、ラビリンスは中心点に達した後、別の園路を通って外へ出られるもの、メーズは同じ道を引き返すしか方法がないもの。

⑤イタリアの露壇式庭園をフランスの平坦な地に移し替えるに際して、設計師のル・ノートゥルは、中央に大胆なヴィスタ(見晴らしの空間)を設け、その両側を対称につくり上げ、宮殿、邸宅の近くは装飾花壇などのきめの細かい設計を行ない、遠ざかるに従って粗い意匠とし、それに変化を与えるためにボスケ(樹林)を設けた。

ヴェルサイユ庭園は他国の宮廷に強い影響を及ぼした。ロンドンのハンプトン・コート、ミュンヘンのニンフェンブルク、ウィーンのシェーンブルン、ルートヴィヒ2世のヘレンキムゼーの庭、ストックホルム郊外のドロットニングホルム、ロシアのペテルゴフの宮園、リスボンのクエルズの宮園、ナポリのカゼルタなど。フランス式庭園は地形がそれほど構築の制限とはならなかったこと、また植物の種類についても自由度が高かったことが理由。

⑦整形式庭園が全盛をきわめたとき、反動として自然を尊重する風景式庭園が台頭したのは当然の帰趨で、イギリスのゆるやかな起伏のある牧歌的な風土がマッチした。初めは造園家ではなく、画家や詩人から賛美の声があがった。

風景式庭園は放置された場合、その特徴が完全に失われるのに対して、整形式庭園では、荒廃の印象はあるとしても、建造物や彫像、噴泉などによって庭園の原型は保たれる。風景式庭園は、自然のままのようであっても、人間の手で取捨選択がなされ造形されているからである。

風景式庭園への関心が薄くなった後、整形式庭園への復帰が試みられ、それも大規模なものでなく小さな形態が好まれた。現代の造園家には、庭園を戸外の室と捉える機能主義、日本庭園を中心とする東洋趣味、現代美術や工芸を庭に持ち込む傾向などが見られる。それらに共通するのは、管理が容易で経費が少なくて済むというところにある。

 今回も、いくつか新しい庭園について教えられました。10段のテラスがあり屋上庭園を彷彿とさせるマジョーレ湖のなかの美島(イゾラ・ベラ)の庭、前ロマン期の風景式庭園として現存する最高のものというドイツ、デッサウのヴェアリッツ、ドイツといわず全世界の風景式庭園のなかの白眉と書かれていたムスカウのパルク。それと、テボー、ゲブレキアン、マレらのシュールレアリスムの庭園や、オタンの主張する「幻想の庭」というのが紹介されていましたが、実際どんなものか見てみたい。

鼓常良『西洋の庭園』

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鼓常良『西洋の庭園』(創元社 1961年)


 針ヶ谷鐘吉、岡崎文彬らと並んで、日本人が西洋庭園のことを書いたかなり初期の書物です。 あとがきで、庭園の写真を集めるのに、ヨーロッパに留学している人の手を煩わせて、わざわざ撮影に行ってもらったり、現地の写真家の転載の許可を得たりと、感謝の辞を述べています。当時は海外へ行くのもそう簡単ではなく、資料の少なさに加えて、当時は実際の庭を見ることがいかに大変だったかということがよく分かります。

 鼓常良本人はドイツ文学者、美学者ということで、造園の専門的な技術よりも、日本の庭と比較したり、思想や歴史との関連で考えたりなど、全体を俯瞰するような記述に特色があると思います。また、この本のねらいは、日本人の西洋庭園への理解を深め、日本の新しい公共庭園や邸宅の庭に西洋庭園の良さを取り入れてもらおうということにあるようです。

 まず、日本の庭園と西洋庭園をいくつかの点で比較してそれぞれの特徴を浮き彫りにしています。例により、誤解も交えて要点をまとめてみますと、
①日本庭園は自然の美景を手本とし型どったもので、茶室の茅萱葺屋根や土壁など、できるだけ人工の痕跡を消そうとするが、西洋庭園は人工が支配している。日本庭園では滝が重要なモティーフだが、西洋庭園では噴水。これはまさに水の天然の性質に反抗する人工の試みである。

②日本の庭師は植木屋の位置づけであるが、西洋では建築家である。日本庭園では廻遊によって見られる庭の個々の部分が鑑賞されるが、西洋庭園では全体が重要で、建物と一体となって設計される。建物と同じ素材を庭園にも使用し、建築物の立体形を投射するかのように庭面を造り、区画された地割は、絨毯を敷き詰めた床のような外観がある。立木も建築物のように刈り込んで壁面やトンネルを造ったりする。

 さらに広げて、日本人と西洋人の比較も行っています。
①日本人は鳥類、西洋人は獣類に比すことができる。日本人は地面より離れた床を作り植物性の材料を用いるが、西洋人は基本的に穴居であり床は地面の一部、材料は石と土で鉱物性である。

②西洋人は自然に親しむ場合は気軽に出かけて行って自然のなかで楽しむが、日本人は「居ながらにして絶景を楽しむ」という不精なところがある。これは日本人の坐生活の副産物ではないか。

 西洋庭園については歴史的に流れを追っています。いくつかのポイントがありました。
ルネサンス以前の西洋は、自然自体の価値を認めず、実用的か宗教的なものとして自然を捉えていた。僧院の庭も薬草園か菜園の性格があり、絵画では自然が景色として描かれることがなかった。13世紀頃からの漂浪学生の詩歌集やそのほかの抒情詩集に、初めて花咲く野原や荒野など自然を愛好する心を歌ったものが現われ、絵画でも14世紀末には自然風景が描かれるようになった。

②イタリアのルネサンス様式の庭園は、形式美の創造に全力を尽くし、形式庭園なるものの基礎を確立した。その後、形式庭園の反動として登場した風景庭園をまったく別種の物ととらえるのは皮相な考え方で、形式庭園で磨かれた造園術が発揮されている。

③ドイツなど北方では、イタリア建築の細部の面白い型式をすぐ真似して取り入れ、そのルネサンス様式の影響が17世紀の中頃まで続いた。フランスにおいても、イタリアルネサンスの影響が早く流れ込んだが、フランスには広々とした花壇など独自の造園術があり、平面を拡大する方向でフランス式庭園を造って行った。ドイツは今度はフランスの影響を受けることになる。

バロック期の造園設計で目につくところは、自然的要素(植物、土、水)よりも人工的要素(擁壁、洞窟、壁龕、階段、水槽、柱廊、彫刻像)が今までよりも幅を利かすようになったことである。全体の構成は律動的となり、飛躍や落下などが具体化された。

⑤風景庭園がとくにイギリスで発展した理由は、日本と同じ島国で、大陸よりは景色が変化に富み、また小さくまとまったものを発見しやすいということにある。建築物に近いところは形式庭園にし、遠いところを風景庭園にするという日本と同じ手法を使っているところもある。

 いくつかの庭園が写真で紹介されていました。面白そうでもし機会があれば行ってみたいと思えたのは、イタリアのエステ別荘のオルガンの噴水、カゼルタ宮の大庭園、ドイツのヴィルヘルム・スヘーエの段階瀑布。

庭についての二冊

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梅津忠雄『愛の庭―キリスト教美術探究』(日本基督教団出版局 1981年)
ジャック・ブノワ=メシャン河野鶴代/横山正訳『人間の庭』(思索社 1985年)


 庭という言葉がタイトルにある本を適当に選んだら、かなり色合いの異なる本が二冊並んでしまいました。『愛の庭』は、ドイツのルネサンス宗教改革の時代の思想と美術の関係を追った専門書で、その絡みで、キリスト教の閉じられた庭についても論じられています。『人間の庭』は、逆に広く世界に目を向けて、人類にとって造園がどんな意味をもつのかを追求したジャーナリスティックな書物です。                                         

 それぞれ初めて知り得たことなど印象深かった指摘を羅列しますと、『愛の庭』では、
クラーナハがルターと親交を結んでいたり、デューラーもルターの著作に特別な関心を寄せ、またエラスムスと親密だったなど、宗教思想家と画家との交流が意外と深いことに驚いた。ルターの談話には壁にかけられた授乳のマリア図を指しながら話す場面があって、それはクラーナハの絵ということだ。一方、クラーナハは、ルターの思想の図解を行なうなど宗教画を描いているが、古代神話や古典文学からの題材も多く、幅広い人文主義の美術家であったと位置づけている。

②人間の罪の歴史と人間の救済の歴史を対比する思想によれば、キリストは「新しきアダム」であるという。一方、マリアは神秘の結婚によってキリストの花嫁になったという思想があり、そうであればマリアは「新しきエヴァ」となる。

旧約聖書の『雅歌』には、花婿と花嫁が歌われているが、花婿はキリスト、花嫁は教会もしくは人間の魂という解釈があり、ルターも花婿を神、花嫁を神の民と考えている。『雅歌』にはまた庭の描写が出てくるが、ルターの解釈では、庭は聖徒たちである木々に満ちたパラダイスであるという。

④キリストの十字架降下から埋葬までについては、新約聖書では、ヨハネの「十字架のそばに、母マリアと愛弟子の一人が佇んでいた」という記述しかなく、マリアが死せるキリストを抱いて嘆く姿というのは、詩的所産であり、美術に現れるようになったのは11世紀以降のことであるという。

⑤マリアが幼な子イエスに乳を含ませる「授乳のマリア」という聖母図があるが、似たような図に「授乳のエクレシア」というのがあり、その意味するところは、「無知な者たちが教えの乳を摂取する旧約聖書」であるという。さらに淵源を辿れば、エジプトや中東の豊饒を司る大地女神の表現のモティーフに行きつく。「授乳のマリア」のモティーフも、中世もかなり末期になって盛んになったものらしい。

⑥「閉じられた庭における一角獣狩り」というテーマも、15から16世紀にかけて、とくにドイツで製作された。この一角獣狩りの絵には犬を連れたガブリエルが登場したり、祝福の言葉が添えられているように、受胎告知図として描かれていた。

 このほかの記述では、マリアが懐胎したのは14歳の時であり、キリストを出産したのは15歳の時というから驚きです。現代なら未成年の婚姻にひっかかるのでは。


 『人間の庭』では、各国の庭の特徴が述べられています。
①中国では、水盤や鉢に入ったり、掌に乗るような極端に小さな庭もあるが、自然の景が比例関係はそのままの形で縮小されていることが重要である。造園に際しては、過酷な現実という外的な拘束からの逃避だけでなく、魂を閉じこめている内的拘束からも解き放たれることを目指している。

②日本では、中世に夢窓国師が、岩の群があり砂利を敷き詰めただけで一滴の水もない簡素な庭を造り、庭に道徳的、哲学的な内容を与えたが、こうした清浄な庭の原型はすでに伊勢神宮の神域で示されていたものであった。

③ペルシアの神話では、光の神オルムズドが粘土から最初の一組の人間を創り出し、庭を住家として与えた。光の神に反抗した使者のひとりアーリマンが楽園から深淵に投げ落とされ悪の化身となったときに、人間がアーリマンに組したので、一緒に追放されることとなった。が哀れを催したオルムズドが、人間に何とか至福の可能性を与えようと善と悪のいずれかを選べるようにし、かつ庭造りという難しいわざを教えた。庭を育て美しくせんとする努力によって、人間は少しずつ「下界」から「上界」へと近づくことができるというのである。

イベリア半島を支配していた回教徒の総督たちが去った後、キリスト教修道院は回教寺院の方形の形態や鎖された空間のあり方などを模倣した。クロアートル(修道院回廊)の語源はホルトゥス・クラウス(鎖されし庭)である。ただその性格は、砂漠の脅威に対して鎖されたアラブ人の快楽の庭とは反対に、世俗に対して鎖された瞑想と祈りの庭となった。

⑤フランスの庭は、当初はイタリアからの影響を受けたが、「方形」と「矩形」の組合せの洗練された構図はフランス独自のもので、遠近法の利用、見渡せるような高低の確保、城館との一体的な軸線の考え、外景をも巻き込んだパースペクティヴなどに特徴がある。

⑥フランスでは、ル・ヴォーやヴェルサイユなどでの庭を舞台にしたパフォーマンスが際立っており、オペラやバレーがたえまなく演じられたことにより、「フランス人を世界中でもっとも芸術的な国民にした」(ヴォルテールの言葉)。が王を中心とする社交界が瓦解し、大貴族たちはヴェルサイユの勿体ぶった豪華さよりはパリの気のきいた夕食を好むようになった。

⑦結局、庭は人間が至福を求めて、それを自然のうちに造形しようとしたものであり、失った楽園のイメージをたよりにして、地上に楽園を築こうとたえず努力してきたさまざまな結果である、ということのようである。


 創世記やペルシアの神話では、造物主は罰する神として父権的な厳しい姿を見せていますが、一方、古代から大地母神のような自然の神格化があり、キリスト教のなかでも、授乳のマリアや聖母図に見られるマリア信仰が中世に盛んになるなど、優しく包み育てる女神という系譜があるようです。日本でも、天照大神をはじめとする女神はもちろん数多いですが、中世の観音信仰というのは、性は中性とは言え、女性的な優しさを持つ女神の系譜に連なるように思います。

HENRI DE RÉGNIER『L’ESCAPADE』(アンリ・ド・レニエ『束の間の逃避行』)

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HENRI DE RÉGNIER『L’ESCAPADE』(MERCURE DE FRANCE 1926年) 


 5年ほど前、パリのブラッサンス公園の古本市で買った本。レニエの後期の長編小説です。人物造形、ストーリー展開、話を面白くするような筆運びなど、ハーレクイン・ロマンスのような大衆小説の風合いがあります。盗賊と騎兵隊の乱闘、果樹園や並木、池がある貴族の館の生活、夜の森を少女が馬で駆け抜けるシーンがあったり、田園、渓谷、山岳など自然の風光が描かれ、映画にもできそうな物語です。題名の「束の間の逃避行」というのは、主人公の少女の二晩の失踪のこと。

 物語はおおよそ下記のとおり。
パリの貴族の家柄の3兄弟が登場人物の主軸。長男は侯爵で、負傷して除隊しながらも国に忠誠を尽くし、王に助言する立場の人間となり尊敬を集めていたが、次男は男爵で、若いころの女性体験がトラウマとなって女性嫌いとなり、エスピニョルという田舎にある屋敷に隠遁していた。三男は爵位も欲しがらず、賭け事や放蕩に身を持ち崩していた。

冒頭、エスピニョルの近くの渓谷で、いきなり馬車が盗賊に襲われる場面から始まる。馬車には、17歳の美しい少女と付き添いの女中が乗っていて、次男の男爵が、兄嫁の侯爵夫人から頼まれて、その娘を自分の館に引取るところだった。幸い騎兵隊が現われて事なきを得る。ただ盗賊の首領を見てから少女の様子が夢見がちになる。恋をしたのか。

少女は修道院で育てられていたが、養育費が途絶えたので引取ってほしいと修道院長から頼まれ、次男のところに住まわせることにしたのだ。むかし修道院長の従兄弟の紹介で、貴族の三男がその娘を修道院に預けに来たという。放蕩の結果の実の娘かも知れない。

女嫌いだったはずの次男の男爵は美人で礼儀正しい娘と一緒に生活して、幸せな気持ちになる。男爵がきれいな娘と住んでいるというのが近くの町で噂となり、町の情報屋の耳に入る。情報屋は下心もあり、さっそく男爵の館に行って、馬車を襲った盗賊のその後の話など情報提供した。娘は熱心に聞き入っていた。首領は貴族の出で、除隊してからは賭博場に出入りするようになって悪の道へ入ったという。いろんな顔を使い分けるので百面相という名前で呼ばれていた。

ある嵐の夜に、男爵の館に一人の士官が宿を求めに来たが、娘は一目見て、彼が百面相であることを見抜いた。ますます恋心が募り、夜、彼が泊まっている部屋の棟の階段の下に佇む。士官は置手紙を残したまま男爵の馬を盗んで早朝に去り、男爵は士官が百面相だったことを知って慄く。その日から、娘の頼みで、元兵士だった館の執事が、銃の扱い方、剣術、乗馬を手ほどきをするようになる。生まれつきの才があったのかみるみる上達する。

冬が過ぎ春が来て、町の情報屋が再び男爵の館を訪れ、その後の盗賊団の動きや、オートモットの修道院長の従兄弟の館が百面相の隠れ家と疑われて捜索を受けたことなど喋る。その夜、娘は百面相が残していった馬に乗り、他の馬の腱を切って追いかけられないようにして、館を出た。めざすはオートモットだ。これまでの軍事教練はすべてこの日のためのものだったのだ。途中馬に導かれるがままに、旅籠の前に停まると、なかで盗賊たちが酒を飲んでいた。娘は平然と乗り込むと、首領に会いたいと切り出し、邪魔をする盗賊の一人をあっさりと刺し殺す。騒ぎを聞きつけて出てきた百面相は、彼女をオートモットの館へ連れ込む。

百面相は酒の勢いで疲れて寝ている娘と無理やり情交を遂げる。朝、娘は百面相の野卑な本性に幻滅し泣き伏していたが、騎兵隊に急襲されたことを知り、百面相を拷問の苦痛と恥辱から解放しなければと刺し殺す。そして、娘が失踪して大騒ぎになっていた男爵の館に、何事もなかったかのように戻り、その後生涯を独り身で過ごした。70歳のときフランス革命が起こり、市民たちに池に放り込まれて死んだ。


 だらだらと粗筋を書きましたが、物語を牽引するのは、出生に秘密があり修道院に預けられていた謎の美少女の存在です。貴族の出身の盗賊百面相もその出生の秘密に絡んでいるようです。実は、百面相が若かりし頃、一人の女優をある貴族と分け合っていて、その貴族というのが例の三男で、娘は、三男と女優との間の子だったのです。

 強盗団の首領の百面相は、百面相というようにいろんな顔を持っていること、また悪人のくせに、貴族であり礼儀正しくさっそうとした振る舞いをするところが、アルセーヌ・ルパンに似ています。調べてみると、ルパンの方が早いので、レニエが真似をしたのでしょうか。

 レニエの思想の根底にあるのか、単なる物語のための演出なのか、二つのことに気づきました。ひとつは、人間、とくに女性の内奥には、性の衝動ともいうべき恋愛への性向があって、修道院で模範的に育てられた少女にも、荒々しい行動を誘発する情動があると考えていること。侯爵夫人が三男の放蕩に怒りながら内心は羨ましがっていたかもと書いていますし、謹厳実直な侯爵もイタリアの大公に招かれ、仮面舞踏会で浮かれているうちに放蕩に陥ってしまいました。この考え方にはフロイトの影響があるのかもしれません。もうひとつは、王や貴族、士官など、毅然とした態度への礼讃で、スリやコソ泥を卑劣な振る舞いとする一方、大胆不敵な盗賊は英雄的と好感を寄せたり、フランス革命の野合的な市民たちの行動をあしざまに書いたりするところに現われています。

 最後にエピローグがついていて、この話はレニエが友人の郷土史家から、地方の言い伝えとして聞いたということが明かされ、その友人にこの物語の舞台となった場所を案内してもらったことが報告されます。が1世紀のときを経て、廃墟になっているところもあり、古い時代への郷愁と慨嘆に耽ることになります。レニエ好みの18世紀への偏愛がうかがえる作品です。

ジャン・ドリュモー『地上の楽園』

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ジャン・ドリュモー西澤文昭/小野潮訳『楽園の歴史① 地上の楽園』(新評論 2000年)


 前回に引き続き楽園についての本。これは楽園がどう誕生し、どう考えられてきたかを文献に基づいて歴史的に展望した書物です。全体の構成もしっかりしていて、この本を一冊読めば西洋における楽園の歴史はほぼ理解できるように仕上がっています。「はじめに」で、「私はひとつの原則を自分に課した・・・その原則とは一次資料とつねに接触を保ち続けるということ」(p2)と書いているように、かなり資料を読みこんだ形跡があり、説得力はありますが、羅列が延々と続くのはいささかげんなり。

 いちばん面白かったのは、16世紀から啓蒙の時代にかけて楽園観が大きく変化していくところです。私の理解した範囲で要約してみますが、あまりに平易にしすぎて大事な部分が抜け落ちているのではと心配です。
ギリシア・ローマには黄金時代、幸福の島のモチーフがあり、東洋の諸宗教にも聖なる庭の神話があり、創世記にはエデンの園が存在した。共通するのは起源に幸福があったということである。初期キリスト教神学者たちは黄金時代、幸福の島のモチーフを拒否し続けていたが、2世紀ごろから徐々にキリスト教化して混交して行った。

②当時のキリスト神学者たちに共通したのはエデンの園が実在したという確信であり、ほとんどの神学者最後の審判で正しい人が復活を前に待機する場所と同じものと考えた。→西洋の墓碑銘に「ここに憩う」、「ここに眠る」とか書かれているのは、一時的に休んで復活を待機しているという思想の現われという。

③中世を通じて、地球上のどこかに地上の楽園があるとして、その場所を特定しようとして諸説が生まれ、ある者は山の頂、ある者は赤道上、またある者はインドの東端にあると考えた。それに関連して、地球上のどこかに未知のキリスト教の王国が存在するという見聞も出てきて、中央アジアエチオピアにその王国があると信じる者もいた。→実際にネストリウス派の国が中央アジアに存在し、ローマ法王に謁見していたようだ。

④14世紀ごろから、こうした説を裏づけるものとして、マルコ・ポーロやオドリコ、マンデヴィル、エンリケ航海王の兄ドン・ペドロ王子らの旅行記が一定の役割を果たし、アイルランドの伝説の影響なども加わり想像力をかき立てた。

⑤地上の楽園を発見したいという野望、終末が近いという確信、新しい地に宗教を広げたいという信仰心、金、宝石、珍しいものを得ようという欲望が、ヨーロッパの人々を駆り立てた。15世紀には、大西洋の島々の発見に始まり、アメリカ大陸に到達して、黄金の国、地上の楽園が間近にあると感じ、必死に探し回った。→エデンの知恵の木の実と目された果物にパッション(受難)フルーツという名を与えたりした。

⑥16世紀に入ると、この世に地上の楽園の存在があると信じる力が消えて行く一方、失われた楽園への郷愁が高まることになった。黄金時代を懐かしんだり、キリスト教的な閉じられた庭を描く文学作品や図像が多数生まれ、貴族の別荘など実際に庭園を作ることが流行し、植物園も誕生した。

⑦最新の地理的発見と、この頃に萌芽してきた合理的精神のもとで、エデンの園に関する古い時代の考えに次々と疑問が突きつけられた。面白いので列挙すると、
もし庭園から追放されてなかったら、子孫が増えてそんな狭い庭に住み続けることができただろうか。
楽園の広さはどれくらいだったのだろうか。
すべての獣が集まり、すべての鳥が飛んだら、歓びよりもむしろ恐怖の光景を呈したであろう。
アダムは大人の状態で誕生したのか。もしそうであれば年齢と身長は?イヴはどうだったか、髪の毛の色は?。
神は何語でその命令をアダムとイヴに伝えたのだろうか。
楽園の自分が耕した土地や収穫した果実に対して、個人の特別の権利は認められなかったのか。

⑧18世紀には、「創世記」の歴史的真実性が徐々に疑問に付された。化石や地層についての理解が深まり、地球の成立が創世記の記述より古いものと考えられるようになり、また生物の種がいきなり創造されたのではなく、時間の経過によって形成されたものであるという進化論的主張が登場してきた。結局、地上の楽園は象徴的な意味合いのものと位置づけられるようになった。

 読み始めてすぐどこかで読んだ気がして、探してみると、つい先日読んだ「ユリイカ 空中庭園」の竹下節子評論にほぼ同じ部分があることが分かりました。末尾に参考文献として名前が挙がっていました。

マーリオ・ヤコービ『楽園願望』

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マーリオ・ヤコービ松代洋一訳『楽園願望』(紀伊國屋書店 1988年)


 今回と次回は、楽園についての本を取りあげます。まず、楽園願望をユング精神分析の立場から解説したこの本から。歴史、文学、文化人類学の知見も交えながら、人間の本性を深く掘り下げており、充実した書物に久しぶりに出会ったという印象。分かりやすく叙述されており、訳文も読みやすい。

 人間ははるか昔から、古きよき時代のイメージを抱いてきたが、古きよき時代というのは、実際には体験されたことのないものであり、具体的な時代であるよりもむしろ心のなかにあるもので、その失われたなにものかへの憧憬の源には、乳児のときに感じた手厚く世話をみてくれる母親との一体感への渇仰があるとして、いろいろな事例や考察を繰り広げています。

 誤解があるかもしれませんが、簡単にいくつか要約して紹介しますと、
①まず楽園とはどういうものか。動物の言葉を解し動物とともに平和に暮らし、労働を知らず、食に恵まれ、心配事もなく、死ぬことがなく、性も生殖も知らなかったというアフリカの神話、死はすでに存在していたが嘆き悲しむべきものではなかったとするヘシオドスの黄金時代、自然に保護され本能的動物的欲求も決して罪ではない状態と解釈できる旧約聖書の楽園が紹介され、倫理的に言うなら、一切が善で悪がまだ現われていない世界であるという。

②子宮外胎児期の長い人間にとって、幼児期の母体験が成長後の性格に大きな影響を及ぼすことが、民族間の相違の事例で示されている。ニューギニアのアラペシュ族、西アフリカのドゴン族では、幼児は愛情豊かに扱われ、成人たちは共同体のなかで信頼し合って生きているのに反し、ニューギニアの首狩り食人族では幼児は邪険に扱われ、敵意に溢れた人間に育っていく。

③西洋ではどうかというと、中世以前においては子どもは邪険に扱われていて、子殺しは紀元374年までは罪にならず、子どもが這いまわるのは獣の兆候だとして縛りつけられていたという。14世紀以降、幼児教育の手引き書が普及し、聖母マリアと幼な子イエスへの信仰が広まった。西洋の歴史では、キリスト教的隣人愛の掟があるにもかかわらず戦闘的な攻撃性がつねに支配的であり、原罪の一件以来、人間の本性は先天的に悪とされていることに注意を促し、それらは幼児期の母子関係の障害から生ずるものとしている。

私見ですが、西洋では自我が発達し自己主張がはっきりしている一方、日本では自我が未熟で共同体が優先されるといった見方が一般的で、日本人を貶めるときによく使われます。これは逆に西洋には幼児期の母子関係に何らかの障害があるために、協調的でない人間に育っていると言えないでしょうか。

④創世記の楽園は、人間が神の意志にそむいて善悪の知識を身につけた瞬間に失われたが、これは自我の発生とともに楽園状況が終わったと言い換えることもできる。原罪の最初のきっかけは蛇が吹き込んだ疑いの念であった。疑いの念は秩序の側からすると悪であるが、生命の側からすると疑念を抱くことは必要でもある。乳児は攻撃性を発揮した際、その攻撃で母親を失ってしまったのではないかという疑念を抱き、微笑むなど赤ん坊特有のアピールを行なって確かめようとする。このやりとりが善と悪の観念を身につけるのに必要で、悪しき行為を償おうとする欲求は、元型的な仕方で人間の心的生活の一部をなしているという。

⑤どんなよい行為であれ、その行為には悪の暗い部分が働いていることを知る必要がある。悪の力がなければこの世は楽園の完全性のなかに収まってしまい変化もなくなる。悪の力のなかにこそ、特別な神意があるのである。自らの内に悪の力を認めることは苦痛だが、それを乗り越え自己自身に対して寛容になれることは、他人に対しても寛容になることができる前提となる。

⑥楽園は、人間の幸福とは何かという問題と密接である。ギリシアにおいては、有徳であることが幸福のうちに数えられていた。心身両面の活力を発揮し、あらゆる方面に駆使して自他を喜ばせることのできる人間が幸福であるとされていた。これは現代でいう自己実現に近い考え方である。

⑦この世では、たえず緊張、不満、感動、不安、憎悪、葛藤、また真理の強迫的な追求、悪および死との対決に苛まれ続けている。鬱積した欲求の突然の充足で幸福を感じることもあるが挿話的な現象に過ぎない。緊張がなく心地よい身体感覚でいられる調和や無葛藤状態と、そこから引き離されてある現状とのギャップが、楽園への願望を生み出すのである。

⑧楽園に憧れることを一種の退行現象と考える人もいるが、楽園は象徴として、自己実現のプロセスの発端であり目標でもある。ユングも退行を単なる病理的な現象ではなく、「よく跳ぶための一歩後退reculer pour mieux sauter」でもあると見ていた。

フランスから古本届く

 フランスに発注していた古本が、船便のはずにもかかわらず早々と届きました。価格は送料込み。
Georges-Olivier Châteaureynaud『Le Jardin dans l’île et autres nouvelles』(Librio、96年11月、1127円)
NOËL DEVAULX『LA DAME DE MURCIE』(GALLIMARD、87年4月、1802円)→タイトルの一篇「ムルシアの貴婦人」は大昔『現代フランス幻想小説』(白水社)で読んだもの
Maurice Pons『La passion de Sébastien N.―Une histoire d’amour』(Denoël、68年9月、2393円)
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 先月は、1回も古本屋を覗かずに終わりました。すべてヤフーオークションかアマゾン古書で買ったもの。アマゾンでは、清水茂を二冊。
『清水茂詩集』(土曜美術社、12年11月、1089円)→砂子屋書房の現代詩文庫にもあるようだ
清水茂『私の出会った詩人たち』(舷燈社、16年11月、960円)→片山敏彦、ヴェルハーラン、ヘッセ、マルティネなど。
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 ヤフーオークションでは下記6冊を購入。
飯塚公夫訳『ジャン・パウル三本立』(近代文藝社、95年9月、700円)→「今の男性たちの秘かな哀歌」というジャン・パウル作品のおまけ(駒澤大学外国語論集の抜き刷り)がついていた。
世界文学大系16 モンテスキュー/ヴォルテール/ディドロ』(筑摩書房昭和35年3月、1000円)→以前メールをやり取りしたフランスの編集者からディドロの「運命論者ジャックとその主人」はぜひ読むべきと推薦されたので。
吉田加南子『ténèbre―version définitive』(思潮社、00年4月、1000円)→左ページフランス語、右ページ日本語で、モノローグ的な短詩が掲載されている。
岡崎武志『蔵書の苦しみ』(光文社、17年10月、210円)→いまさら読んでもどうしようもないが
塚本邦雄『味覚歳時記―木の実・草の実篇』(角川選書、昭和59年8月、550円)
三輪福松『美の巡礼者』(時事通信社、昭和58年5月、110円)→エッセイ集。フィレンツェの古本屋のことが出ている
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