雑誌「is 特集:庭園」

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「is 特集:庭園」(ポーラ文化研究所 1984年)


 「is」は何冊か所持しております。執筆者に私好みの人が多く、また毎回取り上げられているテーマも面白そうですが、読んでおりませんでした。よく考えてみると、昔は忙しかったせいか雑誌はパラパラ見をするぐらいで、まともに読むということはしてませんでした。最近は雑誌も、通読するように心がけております。

 今回読んでみると、デザイン先行で、非常に読みにくい。まず活字が小さく行間が狭いこと、3段組み、多いところでは4段組みになっていて、ページによっては紙にデザインが施されていて背景の絵と文字が重なっていること。私ぐらいの歳になると、白内障も出て、印字がぼやけて見えます。そろそろ手術した方がよいのかも。


 つまらぬ前置きはさておき、内容紹介に移りますと、面白かったのは、若桑みどりと横山正の対談「人間と庭園の歴史―ルネサンスの庭・神の庭」、川崎寿彦「イギリス庭園の栄光と恥部―絶対王政からロマン主義へ」、志村信英「歩行のカダンス―アンリ・ド・レニエと庭園」、それに庭園のテーマから外れますが、堂本正樹「鏡―異空間への窓」の4篇。

 なかでも、レニエの『碧玉の杖』を訳している志村信英の評論は、私の趣味にぴったりで、なぜもっと早く読んでおかなかったかと悔やまれるほど。レニエで庭と言えば、ヴェルサイユ宮殿でルイ十四世の亡霊に出会う「LE MÉNECHME(瓜二つ)」(『Couleur du Temps(時の色)』所収)を思い出しますが、レニエがフランス式庭園を愛したのは、庭園を歩いていると、幾何学的小径や並木、石像のもたらす独特の調子(カダンス)があり、また、滅びていった時代の都雅の跡を訪ねる趣きが感じられるからと言います。

 レニエがヴェネツィア固執したのも、ヴェネツィアの小路や、橋、広場、回廊が絡まる迷路には、庭園に通じる歩行のカダンスがあり、また前世紀の「退勢と完了の美」と「快い無聊」があったからで、レニエの反近代的傾向の特徴が、時代をむきになって否定するのではなく、新しい安ピカものを無視し、過去のカダンスを愛でるという点にあったと指摘しています。

 若桑と横山の対談は、巻頭を飾るにふさわしく、創世記から16世紀まで、またオリエント、ヨーロッパ、中国、日本にわたるパースペクティヴの広い内容で、さまざまな指摘がなされていました。十字架が立面図として見れば木になり平面図として見れば四分割の庭園になる(若桑)、古代の民が屋上庭園に驚いたのは揚水技術に対してだった(横山)、中国では王朝が北と南を往復することで北方の抽象性と南方の自然に即する姿勢が重なり合った庭が造られ、同様にイタリアのデザインがアルプスの北方で抽象化されることがあった(横山)とか、さらには、16世紀の庭の特徴であるグロッタは古代ローマにあったミトラス教のグロッタ信仰に起源がある(横山)や、16世紀になって古代の洞穴信仰が復活したのは、自然というものを隠された神秘と考える新プラトン主義とかかわっている(若桑)という発言。

 川崎寿彦の評論は、イギリスの王室が導入したフランス式整形庭園は、王の支配意志と秩序への志向が記号化されており、清教徒革命でそれらの庭園が破壊されたのは、清教徒たちがその暗黙のメッセージを直感したからで、同様に、ヴォルテールやルソーがイギリス式庭園に心酔したのは、その思想史的記号を解読していたからにほかならないと指摘しています。「ハハア」と呼ばれる隠し塀の名前の由来とか、庭に隠者のための庵が建てられ、瞑想する隠者が雇われたが、あまりの退屈さに脱け出して村の居酒屋で飲んでいて首になったというエピソードが面白い。

 堂本正樹の「鏡」は、私のふだんなじみのない日本の古典芸能の世界で、鏡がどう表現されているかを、豊富な引用で解説しており、鏡のいくつかの性格、パターンを示しています。例えば、鏡の中には時として映るべからざるものが映るという民俗信仰(『東海道四谷怪談』)、鏡は死者が異界から来る窓(金春権守『昭君』)、水に若かりし日が映る(世阿弥『実方』)、人の死を水鏡で知る(お伽草子貴船の本地』)、鏡を潜って死の国に赴く(コクトオ『オルフェ』)、盥の水に桜の花が映り女が桜の精と知る(金剛流『墨染桜』)、水鏡の中に髑髏が映って死霊たることを知られる(馬琴『俊寛僧都島物語』)など。


 その他で印象的だったのは、
益田勝実「古代人と庭―庭園前史」:日本人には古来から、ありふれた天然のあるがままを囲みとって賞でるという性格があり、その後の造園・園芸・盆栽・生け花などの基本姿勢を形作っているとする。地元奈良の遺跡が多く紹介されているので嬉しい。

高山宏「風景庭園―凸面鏡のなかの〈近代〉の自画像」:18世紀に的を絞り、その時代の「百科全書」と「庭」が所有という感覚で共通することを指摘し、人工的調和のフランス庭園への反動で誕生したはずの自然嗜好のイギリスの庭園が、次第に反自然的な偏奇に陥っていく様を描いている。

山口勝弘「理想の庭園―イマジナリュウム」:庭園は、イマジネーションの発生をテクノロジーの力を借りて実現する場であったと考え、現代のテクノロジーとメディアの複合機能によって生み出される現代芸術を論じている。イヴ・クラインの焔の噴水というのは強烈なイメージ。

金両基「マダンとマダン・ノリ―韓国の〈庭〉の芸能」:韓国固有の庭であるマダンとそこで生まれた芸能マダン・ノリについて解説している。自然とともにあるという韓国の美意識は日本と似ている気がした。

粉川哲夫「庭の文化装置的機能―作庭からテレビへ」:かつての庭の機能が現在どういう形で現われているか、まず庭の移動する機能の代替として自動車、そしてさらに遠大な距離を短縮できるテレビを取りあげ、それらが都市生活者が庭を持たなくなった一つの原因としている。

鴻英良「湖底の空中庭園―ロシア式庭園の不在について」:風景式庭園は、それまで建築的要素が優位にあったことへの反乱であるとし、人工的な廃墟建築は建築の死を告げるものだと言う。ロシアでは古代から庭を自然と同一視していたとも。これは日本や韓国と似ている。

DANIEL MALLINUS『MYRTIS et autres histoires de nuit et de peur』(ダニエル・マリニュス『ミルティス―夜と恐怖の物語集』)

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DANIEL MALLINUS『MYRTIS et autres histoires de nuit et de peur』(marabout 1973年)


 この本は昔の思い出深いパリ古本ツアーで、「L’Amour du Noir」という店を見つけて爆買いをしたうちの1冊(2012年7月16日記事参照)。 Maraboutの幻想小説叢書はラインアップも充実し表紙のイラストが刺激的で好きですが、ページの綴じが不十分で、読んでいるうちにばらけてくるのが難点。                                             

 マリニュスはベルギーの作家で、雑誌「小説幻妖 弐」の森茂太郎の評論で名前を知りました。雑誌の編集長を務めるかたわら演劇や写真の分野でも活躍した人のようです。この作品はジャン・レイ賞の受賞作ですが(1973年第2回受賞)、幻想文学の新人に与えられるという賞の割には、すでに熟練の技がうかがえ、奇想天外な想像力、他の作家にはない着想があります。すでに亡くなっていて、この作品集しか残してないらしいのは残念。

 作品も多様で、小町九相図のような人間が腐敗して解体していく描写のある「Myrtis」や「Mourir un peu(ちょっとだけの死)」、猟奇殺人が出てくる「Photos graphein(グラビア写真)」など、残酷で猟奇的な書き手かと思えば、幻影の町を見る「La cité des flots(流動する町)」や古い城館の少女に恋をする「Le voyage de noces(新婚旅行)」など、ファンタジー的な幻想譚も書いています。

 古典的な幻想怪奇テーマとしては、吸血鬼らしき男が登場する「Votre mort sera horrible(恐ろしい死に方をするだろう)」、ドッペルゲンガーを扱った「Dernière lettre à mon avocat(弁護士への最後の手紙)」や「Dans une infinité de mondes(無限世界のなかで)」、人形譚の「Myrtis」、奇蹟譚の「Le Dieu des enfants noyés(溺死した子らの神)」。また「Votre mort sera horrible」と「Photos graphein」では古本屋が中心的な役割をしています。

 SF的な要素のある作品もありました。目の前で起こったことが過去の言い伝えになっているという時間のずれが眩惑的な「Le voyage de noces」、過去や未来が鏡に映し出されるという「Le miroir aux hallucinations(幻影を見せる鏡)」。また並行世界をテーマにした「Dans une infinité de mondes」。

 叙述の仕方も、日記体の「Myrtis」、手紙体の「Dernière lettre à mon avocat」、何枚かの絵葉書に綴られた文章で物語が組み立てられる「Votre mort sera horrible」、独白体の「Le miroir aux hallucinations」と「Madeleine, c’était mon rêve」、散文詩的な「Le plus insoutenable des possibles(可能だったことのなかでもっとも耐え難いもの)」など、多種多様です。  

 各篇の内容を簡単に記しておきます(ネタバレ注意)。
〇Myrtis
ユダヤ人の骨董商から念願の蝋人形を買った伯爵は、その日から日記をつける。愛猫がその人形に怯え、老女中も部屋に入りたがらない。祖先の記録の調査のため部屋の出入りを許していた神父がある日その人形の服を脱がそうとしているのを目撃する。二日後にその神父は焼けただれて倒れ、「ガエタノ・ズンボ」という謎の言葉を残して死んだ。調べると、イタリアの人形細工師の名前だった。日記は、人形が「今夜、真夜中にね」と呟いたと記入されたところで終っており、翌朝伯爵は腐敗した姿で発見された。骨董趣味や美食趣味が散りばめられて、小説の味わいを高めている。

〇Le plus insoutenable des possibles
伝説の町の存在しない通りにある窓も壁もない家。その扉をふいと開けてしまうと、自分の過去の姿が千変万化して現われる。かつてそうでなく、そうなることもできず、またそうなりたくなかった私。いろんな可能性の私が幽霊のように襲ってくるのだ。

◎La cité des flots
夏の海水浴場。目覚めると、人も舟も建物も消え、地平線の限り砂と茂みに覆われていた。突然、目の前に城が現われ、大勢の人たちが蠢くのを目の当たりにする。が、彼らはまるで気づかず、また触れようとしても空を切るばかりだ。その幻影は次から次へと現われては消え、目まぐるしく変わっていく。最後は一人の女性に導かれるままに、階段を登り詰めるが…。人の顔や形が流れるように移ろっていく描写はあまり見たことがない。

〇Mourir un peu
初めはちょっとした胃痛で、会社を早退し布団の中にもぐりこんだ男。だが、すべての病気が一度に押し寄せてきたようになり、手足の力が失せ布団から抜け出せなくなった。歯が抜け落ちているのに気づくと、次に脚が溶け、腹が溶け、頭が崩れて行って、眼も耳も聞こえず声も出なくなり…。だが自分である意識は明晰なままだ。これは死ではなく、ちょっとした死に過ぎないと考える。

Dernière lettre à mon avocat
妻を殺したという嫌疑をかけられた男が自殺するまえに弁護士へ書いた手紙。そこには奇妙なことが書かれていた。妻を尾行するとラブホテルに入って行った。私が受付で部屋番号を聞くと、不思議そうな顔をして先にあなたは部屋に入ったはずと言う。部屋に入ると妻が殺されていた。私と同じ顔をした男が殺したんだ。私は無実だ、天国で妻に会いたい、と。

〇Photos graphein
性的に偏向のある独身の男。古本屋に特別なポルノはないかと持ちかけたり、隣の部屋に訪ねてくる男の子の裸を夢想したりしている。古本屋ははじめはそ知らぬふりをしているが、徐々にその素顔を見せ始める。古本屋の奥に地下に続く階段があり、男が案内されてそこへ降りて行くと…。どんどん加速していく猟奇度が凄い。

◎Le voyage de noces
女性と縁のない醜く貧しい中年男。何かの間違いか女子学生から好きよと言われ、毎朝学校の前で逢引きを重ねる。町はずれまで一緒に歩いて、母と住んでいるという廃墟のような城館の前で別れるだけだったが。仕事も辞めてしまった男にやきもきする母親。ある日、男が「新婚旅行に行く」と言い残して出て行った。必死に後を追いかけると息子は少女とともに城館のなかで消えてしまった。10年ほど前そこに母と娘が住んでいて、娘が中年男と失踪してからは誰も住んでいないという。

◎Votre mort sera horrible
ブリュッセルに住んで古葉書収集に熱を上げている男が、古本屋でたまたま一連の葉書を見つけた。日付もないばらばらの状態だったが、どうやらローマにいる愛人がフランスにいる人妻に夫を殺せと唆しているようだ。調べてみると、実際に50年ほど前、夫が吸血鬼と信じ込んだ妻が夫を殺し、イタリアの愛人のところへ逃げていこうとして捕まったという事件が起こっていた。葉書の断片が少しずつ事件を語っていく手法が秀逸。

〇Le miroir aux hallucinations
飲み屋でもらった金属製の鏡にいろんな時代の自分が映る。揺りかごの赤子、幸せな子ども時代、そして精神病院に入れられた老人の姿。憎しみに燃えた大勢の人に取り囲まれ打ち据えられる姿もある。鏡を持って逃げだすとさっき見たばかりのその場所だった。現在形が不気味さを煽る。

〇Le Dieu des enfants noyés
半年ほど前から村に住みついている素性の分からぬ男。宿を提供してくれている老人から聖ヨハネ祭の日に起こった事故と翌年から聖ヨハネ祭の夜にこの村を襲う怪奇現象について聞かされ、老人の止めるのも聞かず事故の現場に向かう。翌朝、事故現場の十字架のキリスト像に異変が起こっていた。

Madeleine, c’était mon rêve
お化け屋敷の怪物のひとつになりたいと興行主に迫る男。かつて一目見て恋焦がれた女性が蝋人形になって展示され、自分とそっくりの顔の男に絞殺されようとしているその男に成り代わりたいと。前夜、その女性と偶然再会しこの縁日で遊び、お化け屋敷に入ったら、女性がその展示に駆け寄って行ったという。同じ時間に、その女性は突然死していた。女性の死ぬ直前の霊が現われていたのだ。

◎Dans une infinité de mondes
車に飛び込んできた男は私と瓜二つだった。顔も仕草も、傷も、誕生日も名前もみな同じ。違うのは男が結婚してるのに、私が独身。男の妻の名は若き日に別れた恋人の名前だった。その恋人と別れた瞬間から二つの人生が始まっていたのだ。

「ユリイカ 特集:空中庭園」

f:id:ikoma-san-jin:20210605152145j:plain:w150                                        
ユリイカ 特集:空中庭園」(青土社 1996年)


 建築のテーマからの流れで、これからしばらく庭についての本を読みたいと思います。まず建築と庭の両要素を兼ね備えた空中庭園から。というのはバビロンにあったという空中庭園は幾重にも層をなした露壇に土を盛ったもので一種の建造物と考えられるので。雑誌という性格上、玉石混交、話題もまちまちでしたが、そのなかでとりわけ分かりやすく記述も面白かったのは、澁澤龍彦「バビロンの架空園」、竹下節子「蛇の追憶」、原研二「陰惨なサルタンの庭園」、高遠弘美「匂い立つアモールの国へ」の4篇。

 澁澤龍彦「バビロンの架空園」は、大洪水やバベルの塔など古代の伝説が科学的な発掘により次々と実証されていくなかでバビロンの架空園も実在が証明されたこと、伝説とは違って造ったのはセミラミスではなくネブカドネザル二世であること、メソポタミアでは前15世紀から噴水の伝統がありそうした技術力のレベルの高さが空中庭園を可能にしたこと、などを叙述しながら、古代王国のかつての栄光に思いを馳せている。話題の繋げ方が澁澤龍彦ならではで魅力的。

 竹下節子「蛇の追憶」は、聖書からミルトンまで連綿と続くエデンの園のヴァーチャルな趣のある描写に触れ、大航海時代の探索の原動力にはエデンの園の痕跡と宝の島への希求があったこと、中東の楽園には「知恵の樹」の要素がないことに注意を促し、また西洋の造園の根底には原罪で追われた楽園の模倣があること、中世の二大造園テーマは「閉じた庭」と「歓びの庭」でありその二つが時として重なっていることなどを指摘し、西洋の伝統の根底にあるエデンの園と黄金時代の系譜を総覧している。

 原研二「陰惨なサルタンの庭園」は、舞台表現やレオナルドの飛翔器械、教会天井の騙し絵などを挙げながら、16,17世紀は浮遊を夢見る時代だとし、それはまた、浮遊が現世を離れる願望だという点で庭園につながるものであり、現実の庭園だけではなく、料理を風景に見立てるパジャントや、図と詩を組み合わせるエンブレーム、パノラマを背景とするオペラ、風景を寄木細工に閉じ込めたインタルジアなど風景引用術ともいうべき表現が続出する時代であった。高山宏と同様、見ることに関連した奇怪な図柄に満ちた驚愕の論文。

 高遠弘美「匂い立つアモールの国へ」は、「匂える園」という東洋の愛の技法書に「園」という言葉があることに着目し、庭園には性愛の含意があるとして、『旧約聖書』「雅歌」から、古代エジプトの写本の詩、プルースト、『千夜一夜物語』、モーリス・バレスを引用し、またサマンやレニエの詩、「ルバイヤート」にも言及し、エロスと香気に満ちた束の間の幻想世界を開示している。マルドリュスが晩年になって訳したという恋物語『L’Oiseau des hauteurs(高みの鳥)』はぜひ読んでみたい。


 次に面白かったのは次の各篇。
高山宏「庭という絵『空』ごと」:18世紀末には、建築で廃墟崇拝、文学では断片記述という新機軸が登場し、庭園では、回教寺院とキリスト教会の廃墟が併置され戦慄の美として珍重された。断片とコラージュが架空庭園のキーワードのようだ。

三宅理一「フリーメーソンの地下庭園」:18世紀末はまたフリーメーソンの時代で、各地にエゾテリック庭園が造られた。そこには地底に降り土・火・水・空気の体験を経て賢知に迎え入れられるという構図があり、モーツァルト魔笛」の最後を飾る「清め」の場面と共通している。

松浦寿夫「絵画の庭」:絵画が、時間のなかで筆触によって形姿を出現させていくのと同様に、庭園にも散歩者の眼前の広がりの様相が絶えず変貌するという特性がある。内面の無限性と外枠(額)との関係も論じている。絵画と庭の比較論。

安西信一「埋められた不協和音」:一枚の絵画から、キュー庭園を造った皇太子フレデリックの家族の不協和の関係を絵解きし、その庭園は政治的なエンブレムに溢れていて、啓蒙主義の庭を目指していたと説く。当時の西欧にとって中国が理想郷だったというのは驚き。

飯島洋一「庭が消えた」:人口を抑制することは環境に対する義務という考え方が世の中に存在する。20世紀初頭にエコロジーをまっ先に唱えたのがナチスで、その環境保護運動ユダヤ人大量虐殺が同時並行的に進行していた事実は衝撃的。

尾形希和子「王侯の密やかな愉しみ」:エトルリアの冥界趣味、洞窟や森(ボスコ)の偏愛、巨大志向など、ラブレーを愛読していた貴族が愉しみとして造ったボマルツォ庭園の特色を列挙。当時造られたいろんな庭園の水の仕掛けが面白い。

岡部真一郎「爆発を続ける庭園」:20世紀初頭、単に響きだけでなく楽曲の起承転結を司っていた機能和声の枠組みを破壊してしまい、構成の基盤を喪失した作曲家たちが、文学や演劇の力を借りたり、ミニアチュール作品に特化するなど、暗中模索を続けた様子を活写する。


 澁澤の「バビロンの架空園」は雑誌(「血と薔薇」)や単行本(『黄金時代』)で発表されているものの再録ということから考えると、この雑誌は澁澤へのオマージュとして編集されたのではないでしょうか。そのまわりを澁澤の影響を受けて登場してきた年代の書き手たち、高山宏、原研二、竹下節子高遠弘美が取り囲んでいるという印象です。とくに高山宏と原研二の文章には澁澤龍彦の影響が色濃く感じられました。

 先日テレビを見て得たにわか知識ですが、日本の前方後円墳も、遠くから見えるように土を盛り上げ、上には壺を置いたり、樹々や花を植えていたと言いますから、一種の空中庭園だったに違いありません。

建築に関する本二冊

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植田実『真夜中の家―絵本空間論』(住まいの図書館出版局 1989年)
澁澤龍彦『城―夢想と現実のモニュメント』(白水社 1981年)


 異質な二冊ですが、建築関連で同時期に読んだので、一緒に取りあげました。『真夜中の家』は先日読んだ『真夜中の庭』の前篇というべきもので、小説、絵本、漫画のなかの建築や空間を題材にしたエッセイ。『城』は、雑誌「新劇」の3回連載をまとめたもので、日本の城や西洋の城館に関連した評論・紀行。


 植田実の本では、よく知っている名前が出てきて懐かしく思いました。渋谷から宮益坂をあがったところの中村書店は、私も東京にいたころよく行った古本屋。途中にあった古色蒼然としたはかり屋さんのことも出ていたのでそのときの情景が浮かんできました。それから個人的なことになりますが、私の知り合いの名前が出てきてびっくりしました。著者が、同僚の自宅の2階に間借りしていたとき、その弟の森田君から青い函に入った城昌幸の『みすてりい』を見せられたとありました。森田さんとは大学の頃からの知り合いの古本酒仲間です。ちなみに青い函の桃源社版の『みすてりい』は高校の頃読んだ記憶があります。

 私は児童書や絵本、漫画は疎いほうなので、いろんな知らない、あるいは名前しか聞いたことがない作家、また作家の未読の作品を知ることができました。列挙すると、諸星大二郎の漫画『地下鉄を降りて』、ビアトリクス・ポターの『のねずみチュウチュウおくさんのおはなし』、ルネ・ドーマルの『類推の山』、ウィンザー・マッケイの『スランバーランドのリトル・ニモ』と『チェスターチーズ狂いの夢』、井上直久イバラード物語』。本ではありませんが、福岡の天神地下街も面白そう。

 共感できるのは、ひとつは、現在の都市空間が地下街的になっていることへの嫌悪感です。地下街と超高層の構造がひとつとなり、地上には自然の風景がないと嘆いています。これは「1960年・・・竣工したての、頭部の平たい箱状のチェースマンハッタン銀行が、それまでの尖った山状のタワー群の上限を越えて、そのなかに割り込んだ写真を見たとき、私はそれ以前にニューヨークを訪れる機会がなかったことを心から悔んだ」(p100)という言葉に通じるものがあります。

 もうひとつは、簡素であってもアンティームな場所を求めている姿勢。その場所は『のねずみチュウチュウおくさんのおはなし』の穴ぐらであったり、イギリスの湖水地方の自然と生活を反映した『ピーター・ラビット』のミニアチュール圏であったりします。その延長線上だと思いますが、緑が建築を侵食していく建築・都市観を表現したピーター・クックによる「アルカディア・シティ」に触れ、「緑に覆われていく都市のイメージには、廃墟の意味が醸成されている」(p57)とコメントしています。これは藤森照信の草屋根に通じるものがあるように思います。


 『城』は、三部に分かれていて、真ん中に、サド侯爵の城を訪れたときの紀行を中心に、西洋の王や作家たちの城館との関わりについての論考を置き、第一部に、安土城を中心に、日本の城について西洋を対比する文章、第三部に、姫路城を舞台にした鏡花の『天守物語』やヴェルヌの『カルパチアの城』などを軸に、城の空間を論じた文章を配しています。

 久しぶりに澁澤龍彦の本を読みましたが、一気に書いたものらしく、澁澤にしては、歯切れのよくない印象がぬぐえませんでした。悪口ついでに書きますと、澁澤の持ち味の博引旁証ですら、私の一世代上によくある何でも知った風な書き方が鼻につきました。「さすがに目のつけどころがいいな、と私はバルトに同感せざるを得ない」(p124)といった上から目線は、もう少し謙虚になれないものでしょうか。それが澁澤らしいところではありますが。

 主張のひとつは次のようなことでしょう: 城が、「君主たるべき者は世界の中心に玉座を据えなければならない」という権力の凝集した場所であることはもちろんだが、サド侯爵、ベックフォード、さらには、ユイスマンス『さかしま』の主人公デ・ゼッサント、ビアズレーの『ウェヌスタンホイザーの物語』の騎士タンホイザーらを見れば、現実に専制君主でなくても、空想の世界で絶対権力に酔うことは可能で、文学の領域では、城は失われた権力のイリュージョンを醸成する舞台となる。また牢獄が監禁と同時に夢想の場所となることを考えると、牢獄とは裏返しにされた城であり、城とは裏返しにされた牢獄である。

 先日、『迷宮1000』と『メトロポリス』についてこのブログで触れましたが、ともに高層ビルの上層階には独裁者や上流階級がいて、下層に住んでいる労働者や奴隷たちと敵対する構図がありました。この本でも、鏡花の『天守物語』には、天守の美しい妖怪の世界、地上は醜い人間の世界という垂直構造が見られ、この作品は、妖怪世界と俗世間との対立を契機に動き出す鏡花の小説パターンと城とが見事に一致した例と指摘していました。

Jacques Sternberg『Le coeur froid』(ジャック・ステルンベルグ『冷酷』)

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Jacques Sternberg『Le coeur froid』(CHRISTIAN BOURGOIS 10/18 1973年)


 ジャック・ステルンベルグは、シュネデールの『フランス幻想文学史』でもバロニアンの『フランス幻想文学展望』でも取り上げられている作家ですが、いずれにもこの作品への言及はありません。

 現代(と言っても1970年頃なので公衆電話やタイプライターが出てくる)を舞台にした小説で、少しハードボイルド的な雰囲気もあります。主人公の男が一人称で語り、登場人物は主人公がGlaise(粘土)とあだ名した女性とほぼ二人だけ。二人が出会って別れるというストーリーで、物語の展開もほとんどありません。

 この作品の眼目は、Glaiseという謎の女性の造形にあります。名前もなく、身分証もなく、ほとんど何も持たず、着古したセーターで、男の前に現われます。現在の一瞬にしか生きておらず、過去の記憶がありません。自分の過去についてまったく喋らないだけでなく、少し前の出来事の記憶もなくなっています。日にちの計算もできず、ワシントンも知らず、アメリカすら知りません。知恵遅れの子どものようでもあるし、別世界からやって来た生き物のようでもあります。「ある植物の放つ毒汁の性質、鉱石の凍ったような凝縮性、ある種の動物の夢遊病のようなけだるさがあったが、人間であるのを否定することもできない」(p51)と書いています。

 突拍子もない行動をして回りをびっくりさせます。例えば、トラックに轢かれた死体を見て腕だけピンとしてるわと大声で言ったり、レストランでは隣の席の皿を覗き込み不快になった客が早々に立ち去ろうとするとまだ残ってるからポケットに入れて持って帰ったらとアドヴァイスしたり、列車で向かいの席に座った赤子を抱いた母親に、その子を針で突いて風船みたいにしぼむのを見てみたいと言ったりします。

 がその一方で、彼女は太い首、広い肩、真直ぐで引き締まった腰、すらりとした脚を持ち、眼差しは官能的で、「よく女性を猫に喩えたりするが、彼女の場合は虎だった」(p31)と、主人公の男は、息を飲むような不純な美しさに揺さぶられます。一緒に行動するうちに、主人公の心の奥底に潜んでいた軽蔑と破壊の情熱が目覚めてきます。男は何度も彼女を振り切ろうとしながら、離れると彼女の幻影が頭のなかに渦巻き、仕事も手につかなくなり、書籍卸会社の要職の地位を投げ捨て、持ち金がなくなるたびに、地方巡業の営業職についたり、顧客の苦情に返事の手紙を書く仕事についたりと、転々としますが身が入りません。

 彼女と相対していると間に厚い壁があるかのように思われ、眼を見ていると、夜の淀んだ色、藻や腐った葉のどんよりした色が反射する沼を思わずにはおれないので、Glaise(粘土)とあだ名しました。「グレーズからは性愛をほのめかす言葉は聞けなかった。精神面では5歳か6歳でしかなかった・・・が、それは私が勘違いしているだけで、彼女自身も目的を忘れているが、巧みな娼婦の手口だったのかもしれない」(p147)と述懐しています。                                  

 謎の女性が物語を牽引していく枠組は『ナジャ』を思わせ、女性に対して独り芝居をする男の悲哀を描いたという意味では『ロリータ』を思わせる雰囲気があり(50年以上前に読んだので違っているかもしれない)、魔女に滅ぼされる男と解釈すれば「つれなき美女」となるかもしれません。また、グレーズが雨水が好きで河をうっとりと眺め今にも服を脱いで飛び込みそうになる場面がありましたが(p21)、そうなるとこれはウンディーネ譚の変種ということになるでしょうか。

 いずれにせよ、一方的な男目線が充満していて、少々古い時代を感じさせ、女性の読者が読めばどんな感じがするのか気になります。同じことかもしれませんが、もうひとつ気になったのは、主人公がいともたやすく女たちに声をかけ夜を共にすること、また主人公はそうした目でしか女性を見ていないと思われることで、日本の小説風土との違いが感じられました。

幻想の建築に関する二冊

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坂崎乙郎『幻想の建築』(鹿島出版会 1969年)
ユリイカ 特集:幻想の建築―〈空間〉と文学」(青土社 1983年)


 「幻想の建築」という題のある本を二冊読んでみました。片方は、建築に関連した幻想美術について、塔、回廊、室内、庭園、牢獄、宮殿、大伽藍、廃墟、ユートピアなどの章を設け、系統だって論じた本、もう片方はいろんな研究者によるテーマもアプローチも異なった評論・対談を集めた雑誌です。                                         


 坂崎乙郎『幻想の建築』は、澁澤龍彦の『幻想の画廊』(1968年)とほぼ同時期の書。学生時代に『幻想の画廊』は私のバイブルとも言える美術書で二読三読しましたが、この本はそれに勝るとも劣らない幻想美術論。どうして買ったまま読まずにいたのか残念でなりません。題名に「建築」という文字があったので敬遠したのだと思われますが、内容は完全な幻想絵画論です。鹿島出版会だったから「建築」という言葉は外せなかったのでしょう。

 澁澤の本では、デシデリオ、クレルチ、ジョン・マルティン、ピラネージなどの鳥瞰的な広々とした光景に圧倒され、また少しエロティックな絵や数々のだまし絵、さらには美術の範疇を越えたシュヴァルの宮殿やボマルツォの庭、自動人形や舞楽面まで広範な領域にわたって幻想美を探究していて興味を刺激されました。坂崎のこの本は、クレルチ、マーティン、ピラネージ(デジデリオも名前は出てくる)など澁澤とかなり重なる部分もありますが、澁澤の本にはなかったいろんな幻想建築の設計図をはじめ、イシドールの城、ユーゴーの幻想画、エルンスト・フックスも取り上げられています。美術の専門家らしく、美術史全体を見渡した論述が光っていて、「画家のアトリエ」の章などは、ツヴァイクの引用から書き起こし、マドンナを描く聖ルカが画家のアトリエのプロトタイプとしながら、デューラークールベピカソへと展開していく叙述の進め方には感心してしまいました。

 文章は難しく分からない部分がたくさんありましたが、その理由のひとつは知らない画家の名前や作品名が何の説明もなしに出てくるので、その絵を知らないものには見当がつかないこと、また使われている専門用語についても丁寧な説明がないこと。それで初心者は躓いてしまいます。この時代(1950~60年代)は、簡潔で断定的な物言いが才気走った書き方としてもてはやされていたようです。よく言えば、分かってもらうことよりもかっこよさを大事にしたということでしょうか。

 素人のひがみで、丁寧に読めばもっと理解が深まるのでしょうが、とりあえず印象に残った点は、
①現代美術に対する辛口の批判で、セザンヌを境目として、その後のキュビスム、フォーヴ、表現主義の画家たちは対象を純粋なフォルムとして扱い過ぎて主題や人間が疎かになっているとし、キュビストの創造した建物のなかでは人は息づまると指摘しながら、新たな空間を模索するキリコにひとつの可能性を見ていること。

ベックリンの「死の島」は当時のドイツの茶の間に飾られるぐらいの大衆画だと聞いたことがあったが、後続の画家たちに多大な影響を与えていたことを知った。著者はキリコの『時間の謎』を挙げるに留めているが、ヴィルヘルム・クライスの『死者の城』にも影響がうかがえると思う。

レンブラントの絵で内面の問題が空間として表現されているように、17世紀オランダ絵画には、内と外、理念と現実との見事な融合が見られる。しばしば空想力の貧困が指摘されることもあるが、現実の持つ幻想性を見る必要がある。これはマルセル・ブリヨンが「幻想的現実」と命名したものではないか、と言う。

④モネの「ルーアンのカテドラル」はデジデリオの幻影の建物以上に、非建築的な幻覚の様相を呈しており、レアリスムから出発した印象主義の一つの極であるとする。石は光の量として測定され、石や大氣は色彩に同化され、現実を離脱した幻想に近づいているとも。

ポンペイヘルクラネウムの死の都が廃墟として取り上げられていたが、私はこれは廃墟ではないと思う。廃墟は、堅牢であるはずの建物が人の手から自然に委ねられることにより、時とともに徐々に崩壊し自然に溶け込んでいく途上の姿が美しいのであって、ポンペイの場合は生活のある一瞬がそのまま封じ込まれており、逆に人間の生々しさが強く残っている。

⑥シュヴァルが憑かれたように造りあげた宮殿について、その原動力は幼児に近いナルシシスムとしている。幼児にとっては現象界はいまだ現実として存在していないが、シュヴァルの場合は、現象界が失われてしまったため、夢の中でしか生きられなくなり、夢が現実を覆い尽くしたと説明している。

 引用されている絵で気に入ったのは、アントニオ・ダ・モデナ『理想都市』、キリコ『時間の謎』、エルンスト・フックス『パリスの審判』と『建築風景』。


 「ユリイカ 特集:幻想の建築」も記号論とかそのほか新しい理論を応用した論述が多く、私の理解の及ばない部分がたくさんありましたが、分からないなりに面白いと思ったのは、アンデルセン井出弘之訳「巨大な夢―英国におけるピラネージの影響」、池田信雄「楽園の引越し魔―ジャン・パウル」、寺島悦恩「俯瞰・断片・メランコリー―バロックの空間」の3篇。

 マリオ・プラーツの高弟というアンデルセンの論文では、ピラネージの絵がイギリスに与えた影響として、コールリッジやド・クィンシーへの直接的影響や、ギリシア対ローマの様式論争が起こったときにローマ派の根拠とされたり、室内装飾のデザインに流用されたりしたこと以外に、ゴシック小説の引き金になったことが述べられていました。ピラネージがベックフォードの父親に版画を献呈していること、ベックフォードは幼少にして牢獄のヴィジョンを植えつけられそれが「ヴァセック」に反映していること、またウォルポールの「オトラント城」の有名な甲冑の場面がピラネージの作品にあることなど。驚いたのは、モーツァルトがフォントヒルの城館で若きベックフォードにピアノを教えたということです。

 「楽園の引越し魔」は、ジャン・パウルが意外と現世を愛する「カルペ・ディエム(この日を摘み取れ)」の信望者であったことを、処女作『ヴーツ先生の生涯』などに見られる牧歌的枠組みや、代表作『巨人』の主人公の遍歴を辿りながら示しています。ただ現在の楽園に安住するという単純なものではなく、楽園にいることが楽園を否定するというパラドクスのなかに生きたり、バロック的宮廷陰謀の階梯を経ることが条件となっていたり、一筋縄でないところにロマン的ユーモアのありかがあると断じています。牧歌的枠組みを作るために、辛辣にならないようにユーモアに手心を加えたり、視点を低くとり至近距離からの細密描写に徹したりし、また主人公の設定も高望みしない視野の限定された小人物とする、というのを読んで、これはビーダーマイヤーではないかと思い当たりました。

 「俯瞰・断片・メランコリー―バロックの空間」では、四体液のひとつメランコリーには、老い、死、秋、冬、狂暴、錯乱の面と、霊感を受けた熱狂の面の二重性があり、それが上昇して創造に向かう情熱と、下降していく極度の衰弱の二つの動きに表われるとして、俯瞰と深淵という言葉から考察しています。18世紀の「ピクチャレスク」、ミルトン『失楽園』のエデン、メランコリーの両面が描かれているデューラーの「メランコリアⅠ」、スペンサー『妖精の女王』のアルマ姫の塔などが例にあげられていましたが、印象深かったのは、ヘルメス主義の「混沌のシンドローム」という原理を説明した次の部分です。(1)創造とは両極の交合によるものであること、(2)創造に含まれるグロテスクと不合理の要素、(3)創造は彷徨・悲嘆に関わる、(4)暗黒・混沌は生命原理に関わる、(5)降下すること、怪物との出会いは新しい生を得る経験であること。そして著者は、断片と廃墟を崇めることはバロックの精神に他ならないと断言しています。

 そのほか分かりやすかったのは、沈黙の建築、語る建築、歌う建築という三種類のあり方を散文と詩の言葉と比較した粟津則雄「ヴァレリーと建築」、廃墟の思想はヨーロッパに特有のものと言う篠田浩一郎「廃墟の思想・廃墟の美」、一望監視施設である監獄とフーリエの共同宿舎(ファランステール)を対照した田村俶「幻想・パノプチコンとその周辺―フーコーの射程」。

 宇波彰「差異のない都市」で、40階の高層マンションで、上の方の階へ行くほど社会的地位と収入の高いひとが住んでいるという設定のバラードの『ハイ・ライズ』が紹介されていましたが、先日読んだ二つの小説『迷宮1000』、『メトロポリス』も、同様の垂直的な階層構造を持つ都市が舞台となっていました。また、アメリカでは「道路や橋の維持ができなくなり、交通事故が増えている」という記事があったことが紹介されていましたが、1983年にしてすでにこの問題が発生していたんですね。

「詩と詩論 無限」のバックナンバー3冊ほか

 「詩と詩論 無限」は、特集形式を採用し、その分野の第一人者や気鋭の論者を集めて集中的に議論するという編集スタイルで、その後の「詩と批評 ユリイカ」などにつながっているように思います。驚くのは、文学臭が濃くかなりマイナーなテーマなのに、一般企業が広告に名を連ねていることで、当時の企業の文化度の高さがうかがわれます。あるいはそういう時代だったのか。
リルケ特集やマラルメ特集などいくつか所持していますが、とくに、バックナンバーを集めているという訳でもありませんし、この歳ではもう読むこともないと思いますが、好きな作家詩人のものであれば、手元に置いておきたいというのは、強欲のなせるわざでしょうか。
「詩と詩論 無限ⅩⅧ 特集:戦後フランス詩」(政治公論社、昭和40年5月、1000円)
「詩と詩論 無限ⅩⅪ 特集:CHARLES BAUDELAIRE」(政治公論社、昭和41年12月、1000円)
「詩と詩論 無限ⅩⅩⅤ 特集:エドガー・ポー」(政治公論社、昭和44年3月、1000円)
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 いま読んでいる幻想建築関係の本では、下記の二冊。「ユリイカ 空中庭園」は当然持っていると思って本棚をくまなく探しても見つからず入札。『真夜中の家』は先日、『真夜中の庭』を読んで感銘を受けた同じ著者の作品。
ユリイカ 特集:空中庭園」(青土社、96年4月、298円)
植田実『真夜中の家―絵本空間論』(住まいの図書館出版局、89年7月、800円)
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 古本屋で買ったのは、下記の一冊のみ。奈良で用事のついでに、いつもの「柘榴の國」で買いました。以前、毎日新聞の書評欄で読んで面白そうと思ったので。
呉明益/天野健太郎訳『歩道橋の魔術師』(白水社、17年11月、946円)
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 あとはすべてヤフーオークション
日夏耿之介詩集』(思潮社、76年2月、1300円)
澤田瑞穂『閒花零拾―中国詩詞随筆』(研文出版、86年6月、1000円)→詩についての文章は珍しい
JEAN RICHEPIN『MIARKA―LA FILLE À L’OURSE』(CHARPENTIER、48年?、3210円)→リシュパンの代表作。生田耕作旧蔵書
上田正昭『古代の道教と朝鮮文化』(人文書院、89年11月、330円)
横井雅子『音楽でめぐる中央ヨーロッパ』(三省堂、98年4月、110円)→なじみの薄い中央ヨーロッパ音楽について、ジプシー音楽も含めて詳説。CD案内もあり、便利。
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