マーリオ・ヤコービ『楽園願望』

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マーリオ・ヤコービ松代洋一訳『楽園願望』(紀伊國屋書店 1988年)


 今回と次回は、楽園についての本を取りあげます。まず、楽園願望をユング精神分析の立場から解説したこの本から。歴史、文学、文化人類学の知見も交えながら、人間の本性を深く掘り下げており、充実した書物に久しぶりに出会ったという印象。分かりやすく叙述されており、訳文も読みやすい。

 人間ははるか昔から、古きよき時代のイメージを抱いてきたが、古きよき時代というのは、実際には体験されたことのないものであり、具体的な時代であるよりもむしろ心のなかにあるもので、その失われたなにものかへの憧憬の源には、乳児のときに感じた手厚く世話をみてくれる母親との一体感への渇仰があるとして、いろいろな事例や考察を繰り広げています。

 誤解があるかもしれませんが、簡単にいくつか要約して紹介しますと、
①まず楽園とはどういうものか。動物の言葉を解し動物とともに平和に暮らし、労働を知らず、食に恵まれ、心配事もなく、死ぬことがなく、性も生殖も知らなかったというアフリカの神話、死はすでに存在していたが嘆き悲しむべきものではなかったとするヘシオドスの黄金時代、自然に保護され本能的動物的欲求も決して罪ではない状態と解釈できる旧約聖書の楽園が紹介され、倫理的に言うなら、一切が善で悪がまだ現われていない世界であるという。

②子宮外胎児期の長い人間にとって、幼児期の母体験が成長後の性格に大きな影響を及ぼすことが、民族間の相違の事例で示されている。ニューギニアのアラペシュ族、西アフリカのドゴン族では、幼児は愛情豊かに扱われ、成人たちは共同体のなかで信頼し合って生きているのに反し、ニューギニアの首狩り食人族では幼児は邪険に扱われ、敵意に溢れた人間に育っていく。

③西洋ではどうかというと、中世以前においては子どもは邪険に扱われていて、子殺しは紀元374年までは罪にならず、子どもが這いまわるのは獣の兆候だとして縛りつけられていたという。14世紀以降、幼児教育の手引き書が普及し、聖母マリアと幼な子イエスへの信仰が広まった。西洋の歴史では、キリスト教的隣人愛の掟があるにもかかわらず戦闘的な攻撃性がつねに支配的であり、原罪の一件以来、人間の本性は先天的に悪とされていることに注意を促し、それらは幼児期の母子関係の障害から生ずるものとしている。

私見ですが、西洋では自我が発達し自己主張がはっきりしている一方、日本では自我が未熟で共同体が優先されるといった見方が一般的で、日本人を貶めるときによく使われます。これは逆に西洋には幼児期の母子関係に何らかの障害があるために、協調的でない人間に育っていると言えないでしょうか。

④創世記の楽園は、人間が神の意志にそむいて善悪の知識を身につけた瞬間に失われたが、これは自我の発生とともに楽園状況が終わったと言い換えることもできる。原罪の最初のきっかけは蛇が吹き込んだ疑いの念であった。疑いの念は秩序の側からすると悪であるが、生命の側からすると疑念を抱くことは必要でもある。乳児は攻撃性を発揮した際、その攻撃で母親を失ってしまったのではないかという疑念を抱き、微笑むなど赤ん坊特有のアピールを行なって確かめようとする。このやりとりが善と悪の観念を身につけるのに必要で、悪しき行為を償おうとする欲求は、元型的な仕方で人間の心的生活の一部をなしているという。

⑤どんなよい行為であれ、その行為には悪の暗い部分が働いていることを知る必要がある。悪の力がなければこの世は楽園の完全性のなかに収まってしまい変化もなくなる。悪の力のなかにこそ、特別な神意があるのである。自らの内に悪の力を認めることは苦痛だが、それを乗り越え自己自身に対して寛容になれることは、他人に対しても寛容になることができる前提となる。

⑥楽園は、人間の幸福とは何かという問題と密接である。ギリシアにおいては、有徳であることが幸福のうちに数えられていた。心身両面の活力を発揮し、あらゆる方面に駆使して自他を喜ばせることのできる人間が幸福であるとされていた。これは現代でいう自己実現に近い考え方である。

⑦この世では、たえず緊張、不満、感動、不安、憎悪、葛藤、また真理の強迫的な追求、悪および死との対決に苛まれ続けている。鬱積した欲求の突然の充足で幸福を感じることもあるが挿話的な現象に過ぎない。緊張がなく心地よい身体感覚でいられる調和や無葛藤状態と、そこから引き離されてある現状とのギャップが、楽園への願望を生み出すのである。

⑧楽園に憧れることを一種の退行現象と考える人もいるが、楽園は象徴として、自己実現のプロセスの発端であり目標でもある。ユングも退行を単なる病理的な現象ではなく、「よく跳ぶための一歩後退reculer pour mieux sauter」でもあると見ていた。