岡崎文彬『ヨーロッパの造園』

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岡崎文彬『ヨーロッパの造園』(鹿島出版会 1975年)


 いつの頃からか、塔や聖堂、墓地、桃源郷などとともに、庭園に興味が出て、少しずつ古本を買い集めてきました。岡崎文彬の本が未読のまま3冊ありますので、少しずつ読んでいきます。先日読んだ独文・美学の鼓常良とは違って、庭園が専門の農学部の方で、ヨーロッパ中の庭園の現場に何度も足を運んでいます。

 庭園についての歴史的な流れについては、これまで読んできた鼓常良『西洋の庭園』やジャック・ブノワ=メシャンの『人間の庭』と、それほど大きく異なっている部分はありませんでした。重複を覚悟で、いくつかのポイントを列挙しますと、

ギリシアでは芸術的価値の高い公共建築は数多く残っているが、大邸宅や庭園は残っていない。もともと作られなかった。その大きな理由としてデモクラシーを挙げている。この時代すでに、現代の運動公園の前身となるギュムナシオン、大学キャンパスの前身アカデモスという形態が生まれている。

②ローマ時代にはすでに、五点形植栽(キンカンクス)やトピアリ(木を刈りこんでいろんな形を造形するもの)、さらには水による仕掛けが試みられている。

③中世の修道院の回廊では、柱の下に胸壁(パラペット)が作られているのが特徴だが、これは雨で水が入りこまないようにし、聖書の場面を描いた壁面を長持ちさせようというのが狙いであった。

④ラビリンスとメーズの違いは、ラビリンスは中心点に達した後、別の園路を通って外へ出られるもの、メーズは同じ道を引き返すしか方法がないもの。

⑤イタリアの露壇式庭園をフランスの平坦な地に移し替えるに際して、設計師のル・ノートゥルは、中央に大胆なヴィスタ(見晴らしの空間)を設け、その両側を対称につくり上げ、宮殿、邸宅の近くは装飾花壇などのきめの細かい設計を行ない、遠ざかるに従って粗い意匠とし、それに変化を与えるためにボスケ(樹林)を設けた。

ヴェルサイユ庭園は他国の宮廷に強い影響を及ぼした。ロンドンのハンプトン・コート、ミュンヘンのニンフェンブルク、ウィーンのシェーンブルン、ルートヴィヒ2世のヘレンキムゼーの庭、ストックホルム郊外のドロットニングホルム、ロシアのペテルゴフの宮園、リスボンのクエルズの宮園、ナポリのカゼルタなど。フランス式庭園は地形がそれほど構築の制限とはならなかったこと、また植物の種類についても自由度が高かったことが理由。

⑦整形式庭園が全盛をきわめたとき、反動として自然を尊重する風景式庭園が台頭したのは当然の帰趨で、イギリスのゆるやかな起伏のある牧歌的な風土がマッチした。初めは造園家ではなく、画家や詩人から賛美の声があがった。

風景式庭園は放置された場合、その特徴が完全に失われるのに対して、整形式庭園では、荒廃の印象はあるとしても、建造物や彫像、噴泉などによって庭園の原型は保たれる。風景式庭園は、自然のままのようであっても、人間の手で取捨選択がなされ造形されているからである。

風景式庭園への関心が薄くなった後、整形式庭園への復帰が試みられ、それも大規模なものでなく小さな形態が好まれた。現代の造園家には、庭園を戸外の室と捉える機能主義、日本庭園を中心とする東洋趣味、現代美術や工芸を庭に持ち込む傾向などが見られる。それらに共通するのは、管理が容易で経費が少なくて済むというところにある。

 今回も、いくつか新しい庭園について教えられました。10段のテラスがあり屋上庭園を彷彿とさせるマジョーレ湖のなかの美島(イゾラ・ベラ)の庭、前ロマン期の風景式庭園として現存する最高のものというドイツ、デッサウのヴェアリッツ、ドイツといわず全世界の風景式庭園のなかの白眉と書かれていたムスカウのパルク。それと、テボー、ゲブレキアン、マレらのシュールレアリスムの庭園や、オタンの主張する「幻想の庭」というのが紹介されていましたが、実際どんなものか見てみたい。