関川左木夫『ボオドレエル・暮鳥・朔太郎の詩法系列』

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関川左木夫『ボオドレエル・暮鳥・朔太郎の詩法系列―「囈語」による《月に吠える》詩体の解明』(昭和出版 1982年)


 関川左木夫については、このブログで一度、書物趣味と、ビアズレーの日本への影響に関する二冊の本を取り上げています(2015年5月27日記事参照)。さすがに本の装幀について書いている人だけあって、この本の装幀もすばらしく、木口木版作家の栗田政裕の作品を表紙と裏表紙にそれぞれ配しています。
f:id:ikoma-san-jin:20200526125246j:plain:w150裏表紙

 この本では、ボードレールの詩が日本の近代詩の成立に大きく関与したということを、明治から大正にかけての日本の詩壇の情勢や海外からの文学移入の状況を踏まえて、展望しています。主張していることを簡単にまとめますと、ヴェルレーヌ色の強い白秋の象徴抒情詩の影響下に、日本で象徴主義的な詩の運動が乱立し、暮鳥、朔太郎、拓次、犀星らが抒情的詠嘆調から脱しようと模索するなかで、暮鳥がいち早くボードレールのコレスポンダンスの詩法を体得した。その詩法で生み出されたのが『聖三角玻璃』の「囈語」であり、その過程をつぶさに見ていた朔太郎がさらに受け継いで『月に吠える』の詩法を獲得した。ということになるでしょうか。

 気になったのは、盛んに「ボードレール詩法」と書いていますが、実際にボードレールの詩法が何を指すか、章も設けていませんし、ボードレールの詩作品を例を取った具体的な説明はありません。おそらく文章から察するに、万物照応を中心として、自然の発露や抒情的詠嘆からの決別ということのようですが、これは詩法と言うよりは、詩に対する姿勢とかテーマに近いもので、詩法という言葉は不適切。詩法と言うかぎりは、フランス語の原詩を題材にして、音韻や律動を論じなくてはなりません。日本の仏文界からはこの本はどういう評価を受けているのか気になります。

 悪口を書きましたが、しかし、在野の一介の研究者が、ある着眼点をもとに資料にくまなく目を通し、自分の能うかぎりの読み込みを行なって、筋道を立てて追究し、結論へと導いていく論証ぶりには熱がこもっていて、推理小説を読んでいるかのような面白さがありました。また海外の文芸思潮が日本に初めて入ってきた当時に、日本の文学者たちが切磋琢磨しながらそれを吸収しようとした雰囲気が生々しく伝わってくる点で貴重です。

 なかでいくつか分かったことを書いておきます。
ボードレールの受容には、明治から大正にかけて多くの詩人、文学者が参加していたとして、森鴎外上田敏蒲原有明永井荷風、岩野泡鳴、三木露風山村暮鳥大手拓次萩原朔太郎三富朽葉辻潤、相馬御風、ラフカディオ・ハーン芥川龍之介谷崎潤一郎らの名前が挙がっていた。当時は英訳で読むケースが多かったが、フランス語を知らないままフランス原典に挑戦した無謀な者もいて、例えば泡鳴が訳すのを有明が一字一句すべて辞書で引いて手助けし、また二人で象徴詩理解を深めるためにアブサンを買いに行ったというのは微笑ましい。

②著者は、暮鳥の「囈語」を中心に語っているが、「青春時に『月に吠える』に接して、目も眩むような異様に新鮮な感銘を受け」(p29)と告白しているように、最終的には『月に吠える』の詩語を解明しようとしている。

③暮鳥がボードレールに関心をもったのは、暮鳥が神学校を卒業後、布教活動を行なって上級聖職者と相容れず悩んでいた時期で、ボードレールの宗教的側面に打たれたということらしい。『巴里の憂鬱』の「エトランジェ」を文章が簡単なこともあって最先に訳出しているが、その詩の内容は信仰上の苦悶を解決してくれるものであった。

大手拓次も、熱を持ってフランス語原典からボードレールに接近した一人で、ボードレールの影響下に独自に近代詩の情感を形成していった。朔太郎も、『藍色の蟇』の「あとがき」で「私は実際、大手君の詩から多くを学んだ」と告白しているように、拓次から影響を受けたもののようだ。私はてっきり逆だと思っていた。

ランボオの「母音」の影響が思ったより大きかったこと。「母音」を手懸りとして白秋、暮鳥、朔太郎らが新詩体を模索している状況が、豊富な詩作品を例にして説明されていた。

⑥「囈語」という詩もやはり「母音」の影響を受けていて、漢字二文字の罪悪を表す名詞に続けて、無関係な事物を表す名詞を配した13行の詩だが、この上部と下部の名詞は主語と述語の関係ではなく、意図的な断絶がある。これはボードレールの詩法というよりは、「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘」のようなロートレアモン、あるいはシュルレアリスムのデペイズマンの手法というべき。

⑦この本では、暮鳥と朔太郎の詩を同列に論じているが、詩の味わいはまったく別のように思う。朔太郎が詩を書く上で警戒していたのは、安易な調子に引きずられて無難な詩を書いてしまうことで、内奥から生ずるリズムをもとに詩を書こうとした。そういう意味では、むしろ、暮鳥から朔太郎ではなく、拓次から朔太郎への系列を考えた方がいいように思える。

 最後にまた悪口を書くと、以前二冊の本を読んだときも、関川左木夫の文章はまわりくどく感じられましたが、今回も同様で、いわゆる文章の長い悪文で、意味が脱臼していました。とくに序論は意気込み過ぎたのか重症です。また、何かの雑誌に連載されていたのか、重複、繰り返しが多い。簡潔に書き下ろせば、分量は三分の一で済むように思います。

暇にまかせて古本処分

 コロナで閉じこめられているうちにと、何年かぶりに本の整理に取り組みました。不思議なもので、結果は毎回段ボール12~3箱に落ち着きます。本棚の上にキノコのように平積みしていた本も減り、少し部屋が明るくなりました。以前も書きましたが、本の処分の際の秘訣は、ジャンルごとに大鉈を振るうということで、今回は旅行ガイドと探偵小説(ハードボイルド、ミステリー)を中心に。旅行ガイドはコロナで当分もう旅行にも行けないし、情報が古くなると思い。ハードボイルドは、サラリーマン時代にうっ憤を晴らすかのように読み漁ったので、見放すのはとても辛く、夢にまで出てきたので、何冊かはまた本棚に戻しました。

 本は売っても買うのは止まりません。この1か月ほどは相変わらずネットのみでの購入となりました。探求書がフランスの古本屋に安くて出ていたので、下記を買いました。4月上旬に発注して、コロナでもう届かないかと諦めていたら、5月上旬に届きました。ルリュール本の割に866円と安く、送料もフランスからなのに600円という値段でびっくり。
ALBERT SAMAIN『Au Jardin de l’Infante』(MERCURE DE FRANCE、1908年、866円)
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 あとは、ヤフー・オークションで。
大手拓次全集 第2巻 詩Ⅱ』(白凰社、昭和45年12月、2805円)
→前回報告の別巻に引き続き。
巖谷國士/桑原弘明『スコープ少年の不思議な旅』(パロル舎、06年9月、300円)
→ミニアチュール趣味のとても不思議な別世界
坪野荒雄『お伽ばなしの旅びと―谷中安規と短歌』(雁書館、95年10月、330円)
谷中安規が短歌を作っていたらしい。
栗原成郎『スラヴ吸血鬼伝説考』(河出書房新社、91年6月、1200円)
Marceline Desbordes-Valmore『Poésies』(Gallimard、83年9月、500円)
ボードレールが影響を受けたと聞いて。
石黒敬七『旦那放談』(朋文堂、昭和30年2月、300円)
大塚幸男歌集『ひと日われ海を旅して』(心遠書屋、67年12月、1000円)
→200部中109番
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 日本の古本屋で、
『欧米作家と日本近代文学―フランス篇』(教育出版センター、昭和49年10月、810円)
→なぜか持っていなかった。矢野峰人の「ボードレール」が読みたくて。
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佐藤正彰のボードレール関係二冊

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佐藤正彰『ボードレール雑話』(筑摩書房 1974年)
佐藤正彰『ボードレール』(筑摩書房 1956年)


 これまで読んで来たボードレール関連本がどちらかと言えば全体像を概観したものであったのに対し、この二冊は主として研究史的な視点から書かれています。『ボードレール雑話』は、日本のボードレール受容史、フランスでの研究史ボードレールの韻文と散文の関係、ボードレール詩評釈の理想、フランスの百科事典でのボードレールの紹介のされ方などの論考を集め、『ボードレール』のほうは、ボードレールの5つの詩(うちひとつは散文詩)を取り上げ、フランス本国の註釈を網羅し紹介したものとなっています。


 『ボードレール雑話』で知ったのは、日本のボードレール受容では、『悪の華』よりも『パリの憂鬱』の方が先で(明治23年~30年)、これは散文詩というジャンルに当時の文学者たちが光明を見出そうとしたこと、昭和初期の東京大学文学部で、仏文科のみが文学を中心とし(英文、独文は語学が中心だった)、なおかつフランス官学では末流詩人に位置づけられていたボードレールの研究から始まるという世界的に異常な現象を起こしていたこと、フランス本国の仏文学者(国文学者?)は外国の仏文学者に対して狭量で業績を認めたがらないこと、など。

 私の大学時代、すでに作品研究が主体で、伝記研究は過去のものという感じでしたが、著者の時代かその少し前あたりで伝記研究の偏りに対する批判の眼が出てきたことのようです。Edition critiqueという言葉もその頃よく聞きましたが、著者の時代はそれが最先端の現象だったという雰囲気が伝わってきました。また、著者は「肉筆を読むというような仕事は特殊な知識と技術を要し・・・外国在住の研究者等にはこの種の現物主義の批評版編纂などほとんど絶望的」(p139)と書いていましたが、吉田城の「プルースト草稿研究」がこの障害を乗り越えて本国から高く評価されるまでになったのは、隔世の感があり感慨深いものがあります。

 いくつか興味深い指摘がありました。
ボードレールがいち早く大都市をテーマにした詩を書けたのはパリだったからで、当時、ベルリンもウィーンもロンドンもいまだ田舎の大都会にすぎなかった。

ロマン主義時代まで、速成多作が大詩人の条件だったが、ボードレールにより、量や所要時間などは作品の優劣とは無関係というあるべき姿に戻った。そうして、寡作のマラルメが登場することができた。

ボードレールの用いる形容詞は、「美しい」「奇妙な」「独特の」「未知の」など漠然とした語を使って、どのように美しいのか、どんな風に奇妙なのかは読者の推量にまかせられているが、これは読者を創造行為に参加させることになり、読書を高度の精神活動に変えるもの。→小学校の作文で、「美しい」と書くと、何がどう美しいか書けと指導されたものですが、ボードレールクラスになると、こういう解釈になるようです。

④『パリの憂鬱』のなかには、脚韻はないものの正規の詩句と同様の律動のある句が散見される。これは散文のなかの韻文調という問題である。

 筑摩書房文学大系『ポオ・ボードレール篇』月報に日本のボードレール文献の目録が掲載されていること、矢野峰人の「日本におけるボードレール」という論考があること、三好達治に『悪の華』の部分訳、三好達治小林秀雄の共訳で『悪の華』の冒頭3篇が訳されていること、三富朽葉に『パリの憂鬱』の部分訳があること、まだまだ知らない資料がたくさんあることに気づきました。また大正10年に早稲田大学で「ボードレール誕生百年記念祭」が開催され、吉江喬松が「ボードレール象徴主義」と題して講演したとのことで、そう言えば、来年生誕200年になりますが、フランス本国では何か催しがあるのでしょうか。


 『ボードレール』は、「旅のいざない」詩と散文、「秋の歌」、「露台」、「沈思」を例に、フランス本国の評釈を紹介していますが、さすが本国の文学者だけあって、他の詩人との比較などを交え、語句の使い方や韻律に関する克明、詳細な分析があり、よく分からないなりに、詩の世界の奥深さを知ることができ、とくに「秋の歌」など詩の味わいが一層深まりました。

 専門的なことはともかく、いくつか印象に残ったのは、
ボードレールがデボルド・ヴァルモールの詩を愛好していて、「旅のいざない」の5+5+7の音綴は、ヴァルモールの「La petite pleureuse à sa mère」(『一家の天使』所収)と同じ形式であること。

②「旅のいざない」はゲーテの「ミニョンの歌」を直接の典拠としているが、行先である「かの国」はオランダを指していること。

ボードレールのこの海港の詩情は、ベルナルダン・ド・サン・ピエールの『オランダ雑記』の記述に感銘を受けて生まれたもの。

④「秋の歌」の真の主題は薪の音であり、「語の裡に響くものは、落ちる薪の響よりも更に広大な音であり、遍き喪の反響、恐るべきdies iraeの反響」(p69)であり、また「落ちる薪の音を云うのみならず、又無声長音の語尾を持つよく響く詩句を以て、過ぎ逝く時と動かすべからざる墓との宿命をも云っているのである」(p73)。

⑤「露台」の回想のテーマは、浪漫詩人の常套詩材で、ラマルティーヌの「湖」、ユゴーの「オランピヨの悲しみ」、ミュッセの「思い出」にも見られるが、ボードレールならではの茫洋とした音楽的趣きがあること。

⑥「秋の歌」はフォーレの作曲が有名だが、モーリス・ロリナも作曲しており、「沈思」にはリラダンの作曲したものがあるという。

CHARLES BAUDELAIRE『Les fleurs du mal』(シャルル・ボードレール『悪の華』)

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CHARLES BAUDELAIRE『Les fleurs du mal』(Jean-Claude Lattès 1987年)
                                             
 この歳になって、ようやく『悪の華』を原文で読みました。翻訳のあるものはフランス語ではなるべく読まないようにしていますが、詩は別格。再版後の各種拾遺詩篇も入れて全166篇、文庫サイズの本ですが437ページもあり、結構な時間がかかってしまいました。これだけの量の詩をいっときに読んだのは初めて。今回は、先ず原文を読み、いつもしているように、すぐ思い出せるために要約をしましたが、初めは半分ぐらいにまとめるつもりが、だんだん約7割8割と増えてきて、後半は結局全訳に近くなってしまいました。

 どうしても意味が通らないところを中心に、安藤元雄訳(集英社文庫、これは再販+禁断詩篇を後ろに)、鈴木信太郎訳(岩波文庫、再版+禁断詩篇を初版時どおりに挿入)、齋藤磯雄訳(筑摩叢書、1868年増補分以外は全詩篇)、佐藤朔訳(斎藤書店、全詩篇)と比べて修正しましたが、これもいつものとおりで、文章の構造が把握できてなかったり、単語や慣用表現の意味を取り違えたりと、一つの詩に1,2カ所は間違えているところがありました。が逆に私の方が正鵠に詩心を伝えていると思えたところも若干ですがあったのは(たぶん勘違いだと思うが)嬉しい。

 精読するには翻訳するのがいちばんとよく言われますが、まさにそのとおり。一読して分かったようなつもりでいても、いざ日本語に置きかえようとすると、全然言葉にできないということが多々ありました。詩をまともに読むのは初めてなので、普通の文章とは違う分かりにくさがありました。主語と述語、形容句などの転倒がざらにあるのはまだしも、改行が頻繁にあり、その行が上の文章につくのか、下の文章につくのか、分かりにくいこと。行末の「.」があれば文章の区切りと分かりますが、「,」が数多くあるうえに、何もない行もあり、また「;」というのが頻繁にあったりして、このニュアンスがよく分からないまま。当然、詩の脚韻や律動については、まったく鑑賞する余裕もなく、これでは本当に読んだと言えるかどうか、心もとない。

 ひとつ分かったのは、詩をあまり一字一句忠実に訳そうとすると、日本語の詩としてはだらだらと冗長な詩になってしまうということです。もともとボードレールの表現には畳語的なところがあるようですし、詩の場合は意味からよりも韻を考慮して使っている言葉があると考えられるので、意味の流れを強くするためには、少し間引いて訳した方が引き締まった詩となるように思います。

 今回読んでみて、『悪の華』の詩の魅力をひとことで言えば、霊と肉との二律背反に引き裂かれつつ呻吟する魂の叫びが胸を打つというところでしょうか。おどろおどろしさや、絶望の叫び、悲嘆が詩行から湧き出ていて、その念の強さにたじろいでしまいます。中学生の頃初めて堀口大學訳『悪の華』に接して、巻頭の詩「Au lecteur(読者に)」の皮肉っぽい調子のある呼びかけに、意味もよく分からないままに惹かれたことを覚えていますが、これはやはり調子の強さに心を動かされたからでしょう。今回、原詩を読んでみて、その被虐的な絶望の深さを改めて知りました。ボードレールの詩は形式の上では、フランス本国の研究者たちが指摘しているように古典的かもしれませんが、中身は浪漫派的な苦悶に満ちています。

 『悪の華』の詩群を、印象からいくつかの要素を抽出して考えて見ました。一つの詩に重複している場合もありますが、大きく分けると、暗澹たる境遇への嘆き、グロテスク、彼方への憧れ、鉱物的なものへの讃美、共感覚といったところでしょうか。

 暗澹たる境遇への嘆きとしては、「Le guignon(不運)」、「De profundis clamavi(深淵よりの叫び)」、「La cloche fêlée(ひび割れた鐘)」、「Spleen(鬱屈-4番目)」、「Le goût du néant(虚無の味わい)」「Le gouffre(深淵)」ほかたくさんの詩篇が目に留まりました。「L’irréparable(取り返しがつかないもの)」の「旅籠の窓に輝く希望は永遠に閉ざされてしまった!月も星もない夜に満ちに迷った旅人が宿を見つけようとしているのに、悪魔が窓の明かりをすべて消してしまったのだ!」という一節には、ネルヴァル「オーレリア」の響きと似た差し迫った悲嘆が感じられました。

 グロテスクのなかには、
「Dance macabre(死の舞踏)」、「Les métamorphoses du vampire(吸血鬼の変身)」など文字どおりグロテスクなもの、
「Une charogne(屍肉)」、「Une martyre(殉教の女)」、「Un voyage à Cythère(シテール島への旅)」など残酷趣味、
「Le vampire(吸血鬼)」、「Le poison(毒)」、「L’héautontimorouménos(われとわが身を罰する人)」、「L’irrémédiable(取り返しのつかないもの)」、「La destruction(破壊)」ほか多くの詩篇に見られる被虐趣味
「À une madone(マドンナに)」、「À celle qui est trop gaie(陽気すぎる婦人に)」にある嗜虐趣味、
「Les petites vieilles(小さな老婆たち)」、「Les aveugles(盲人たち)」など老人や廃残の人たちを描いたもの、
があります。このなかで、とくに残酷趣味やユーゴーが「新たな戦慄を創造した」と讃えた老人や廃残の人たちのグロテスクさは、当時としてはおそらく中心テーマとしては取り上げられることがなかったもので、かなりの衝撃を与えたと推測されます。また被虐趣味は、前述の暗澹たる境遇への嘆きと相俟って、ボードレールの真骨頂ともいえる境地を醸し出していると思います。

 彼方への憧れが窺える詩篇としては、「La vie antérieure(前世)」、「Parfum exotique(異郷の香り)」、「L’invitation au voyage(旅への誘い)」、「Paysage(風景)」などがあります。これは、酒や麻薬、あるいは女色への耽溺を謳った詩と同様、現実からの逃避、あるいは幼児退嬰的な性向の表れとも言えます。「Moesta et errabunda(悲しく邪な)」では、「束の間の喜びに満ちた汚れなき天国。それはインドや中国よりも遠いのか?」という表現がありました。ジパングあるいは蓬莱山の伝説がボードレールの耳にも達していたのでしょうか。

 鉱物的なものが感じられるものとしては、「輪郭を曖昧にするのは唾棄する」と宣言し、石→彫像→鏡→眼とイメージが移って行く「La beauté(美神)」、「眼は鉱物でできているかのよう・・・すべて金と鋼、光とダイアモンドの世の中で、荘厳な冷たさは星のように輝いている」というフレーズのある「Avec ses vêtements ondoyants et nacrés(波打つ真珠色に輝く服を着て)」、「Rêve parisien(パリの夢)」などがあります。とくに、「パリの夢」は、鉱物的でSF的な夢幻境を描いた絶品。

 共感覚を扱った詩は、よく取り上げられるので、詳しくは述べませんが、「Correspondances(万物照応)」「Tout entière(全部)」、「Harmonie du soir(夕暮の諧調)」に顕著。ほかにも、以前読んだ評論でも指摘されていた、「蛆、汚物⇔鉱物、金銀、宝石」、「老売春婦⇔女神・美神」、「暗渠⇔星空」、「墓⇔寝室」、「地獄⇔天国」、「サタン⇔神」など対立的なイメージが頻出すること、「海」、「空」、「太陽」、「船」、「蛇」、「髪」、「血」、「監獄・獄舎」、「断頭台・火刑台」、「深淵」、「千のミミズ」など何度も出てくる単語があることなど、書いていると切りがないので、この辺りで止めておきます。
 
 最後に、詩篇の中で、もっとも強烈な印象を残した詩は、次の16作品。
Correspondances(万物照応)、La vie antérieure(前世)、Hymne à la beauté(美神への頌歌)、Une charogne(屍肉)、Le vampire(吸血鬼)、Les ténèbres(暗闇)、Le flacon(香水壜)、Le poison(毒)、Chant d’automne(秋の歌)、Une gravure fantastique(幻想版画)、Le mort joyeux(陽気な死者)、L’héautontimorouménos(われとわが身を罰する人)、Les sept vieillards(七人の爺)、Rêve parisien(パリの夢)、Un voyage à Cythère(シテール島への旅)、Les métamorphoses du vampire(吸血鬼の変身)

 翻訳本を各種所持していますので、いちど、いろんな訳者の訳しぶりを比較してみたいと思っています。

何かの気配を感じさせる音楽 その①

 以前、ヴュータンのヴァイオリン協奏曲第4番について書いたときにも触れたことがありましたが(2011年10月29日記事参照)、ロマン派以降の曲で、何かが起りそうな気配を感じさせ、不安を掻き立てるような揺らぐ響きを聞くことがよくあり、それが最近また気になってきたので、どういう曲にそういった部分があるか、しばらく追いかけて見ようと思います。

 最初にはっきり意識したのは、ずいぶん以前に、『ロシア音楽の祭典』というCDを聴いたとき、最初の曲のバラキレフ「タマール」の冒頭の異様な雰囲気が気になり、そのまま聴いていると、ほかの何曲かにも似た曲想があって、それがとても魅力的に感じられたことがありました。その後、他のCDを聴いている時にも、同じ印象を受ける部分があり、その後いろんな曲を聴くたびに、同じテイストがないか探したりしました。しばらくして、象徴主義について、あれこれ本を読んでいるうちに、象徴主義の手法である「暗示」や「不可解さ」と共通するものがあるのではないかと思い当たりました。

 今回は、まず『ロシア音楽の祭典』のなかで、そういう印象受けた5曲について、どんなものかを説明し、さらにその作曲家のほかのCD作品にも言及したいと思います。今回、音楽の引用をユーチューブにアップすることで、聴けるようにしてみました。90秒以内なので引用として認められるとの判断です。
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『ロシア音楽の祭典』(キングレコード、KICC8130)
エルネスト・アンセルメ指揮/スイス・ロマンド管弦楽団

 バラキレフの「タマール」は20分ほどの曲。冒頭部の異様な雰囲気というのは、いきなり暗雲が垂れこめたようなティンパニーのトレモロで始まり、すぐに弦が上下にうねるように不安を掻き立てるフレーズを繰り返し、それに乗って重金管(こんな言い方はないと思いますが、適当な表現が見つからないので)が重苦しい長音を鳴らします。わずか30秒ぐらいですが(https://youtu.be/HPbTVcZAkgc)、また30秒ぐらいしてから15秒ほど続き、しばらく途切れ途切れに出ては消え、開始から4分20秒ぐらいから違った曲調になります。うねるようなフレーズが出てきても、もう不安感はなく明るく快活な雰囲気です。最後の方で少し雲行きの怪しくなりそうな感じが見え隠れしますが、何事もなく終わります。

 次は、リャードフの「ババ・ヤガー」。3分ほどの曲。冒頭部(~1分20秒ぐらいまで)が「禿山の一夜」を思わせるおどろおどろしい雰囲気で、何かがやってくる感じ(https://youtu.be/BllJ27ZJ5lU)。蝙蝠が飛び回っているように思えるところもあります。2分ぐらいから荒れ狂いの度を強めますが、急速にしぼんで、さらりと終わります。

 同じくリャードフの「キキモラ」(と書けば香山滋の『キキモラ』を思い出す人がいるかも)でも、冒頭に低弦が長い音を続け、木管群が揺れるような音を乗せ、その上にオーボエが悲しそうなメロディを奏でます(https://youtu.be/0oHqjorhdv8)。この冒頭部わずか30秒ほどが気配を感じさせる部分で、その後は、ピッコロやフルート、弦のピチカートなどで気まぐれに跳びはねるようなフレーズが出てきて、予想がつかない動きをし、次第に音楽が高鳴って盛り上がりますが、最後は「ババ・ヤガー」と同様、さらりとした終わり方をします。

 このCDのなかでいちばん濃厚にこの技法が表れているのが、次のリムスキー・コルサコフ組曲『サルタン皇帝の物語』の第2幕前奏曲「樽に乗って漂流する皇妃と皇子」だと思います。冒頭ファンファーレの後、弦が揺らぐような曲想を奏でますが(https://youtu.be/33bUkDY4L0o)、この「揺らぎ」が曲全体を支配していて、時にチェレスタのような甲高い音が断続的に入り、時に強く、また弱くなったりしながら、最後まで延々と続き、静かに終わります。朝靄の大洋を船がゆっくりと進んで行くようなイメージ。未知のものを前に冒険するような恐怖、不安を感じさせます。

 最後の曲、やはりリムスキー・コルサコフの「サトコの伝説によるエピソード」もこの傾向が強い曲で、冒頭3音からなる短い音形がゆっくりと繰返されます。昔のテレビシリーズ「世にも不思議な物語」の音楽に似ているような気もするが、それが6回目の繰り返しぐらいから倍のスピードで細かくなり、低音部で弦がうねるように長い音を奏でたり、管楽器が加わったり、そのうち遠くから雷が鳴るかのように、ティンパニーが轟いたりします(https://youtu.be/6cBUeRLGPs0)。開始後2分ごろに突然ティンパニーが連打されると、しばらく嵐に揉まれるような荒々しい調子になりますが、それもすぐ穏やかになり、3分ごろから明るい雰囲気の別の主題に取って代わられます。終わり頃また3音のフレーズが復活するが、支配的にならず終ります。

 これらの作曲家の別のCDをいくつか聴いてみました。バラキレフについては持ってなかったので、まずリャードフから。
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『Anatol LIADOV Orchestral Works』(MARCO POLO 8.220348)
Stephen Gunzenhauser/ Slovak Philharmonic Orchestra

 全10曲のうち、「ババ・ヤーガ」、「キキモラ」以外では、次の3曲に私の探し求めている技法がありました。
 4曲目の「魔法にかけられた湖」は、不安に搔き乱されるようなところはないものの、最後までゆったりとしたテンポを保ったまま夢幻的な世界を描きだしています。冒頭、ハープの打弦をベースに、弦が持続音を小さく奏で続け、30秒ほどするとハープがグリッサンドを繰り返し、弦の音が次第に大きくなって、音が上下しながらうねるようになり、そこに木管系の高い音が鳥の囀りのように入ってきます(https://youtu.be/B8TAjbWhsEU)。霧がかかった湖の風景を思わせます。徐々に音量が大きくなるほかは、とくに目立ったメロディもないのが特徴ですが、これはマーラー交響曲9番あたりの感じに近いものがあります。作曲が完成した年代もほぼ同じのようです。

 6曲目の「Nénie」は、冒頭は、木管がゆったりと音を持続させるなか、背後で弦が上下する音を奏で、夢みるような感じです(https://youtu.be/u_ZZ2B0uPlE)。全体にゆっくりとしたテンポで、「魔法にかけられた湖」とよく似て茫洋とした雰囲気。少し違うのは、弦が中心となって若干メロディらしきものを奏でるところでしょうか。

 10曲目の「黙示録からの断片」は、全体的に標題どおりのまがまがしい雰囲気があります。冒頭部は、金管に、弦のトレモロやハープのグリッサンド、それにティンパニーの強打などが入り混じりますが、全体としては朧げな雰囲気で始まり(https://youtu.be/CHsnZcV_Gsk)、終結部も、7分40秒あたりから暗雲が覆うような感じになり、ティンパニ―の乱打が余韻を残して終わります。曲が長すぎるせいか、まとまりのない印象があるのが残念。
 このCDでは、ほかに「インテルメッツォ」が繰り返しのフレーズで組み立てられており、何かが進んで行くような感じがありますが、初期の作品らしく、おどろおどろしさや不安感はありません。

 長くなりますので、今回はここまでとして、続きは次回に。

齋藤磯雄『ボオドレエル研究』

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齋藤磯雄『ボオドレエル研究』(三笠書房 1950年)


 自らも『悪の華』を日夏耿之介風のゴシック浪漫詩体で訳している齋藤磯雄のボードレール論を読んでみました。本人のボードレールへの全面的な心酔がいたる所に感じられ、人柄が濃厚に感じられる読み物となっています。悪く言えば、客観的な批評とは程遠い。『悪の華』の詩集全体の構成への言及はありましたが、個々の詩については論じてなく、作品や手紙を通して見られる人生観、社会観、宗教観を問題にしています。矢野文夫や辰野隆と同様、齋藤磯雄もゴンザアグ・ド・レイノオルをたくさん引用していて、当時はこの人がボードレール論の中心人物だったことが分かります。

 リラダンの訳者だけあって、ボードレールの貴族的、反人道的態度への共感が甚だしい。ダンディについて60ページも費やし、ボードレールのダンディ振りの描写に熱心で、生田耕作のダンディ讃を彷彿とさせるところがあります。文章は戦前の美文調が残っていますが、それが心地よく感じられる面もあります。キリスト教信者かと思うくらい聖書の引用が多く詳しいので、ネットで見てみると、幼少の頃より聖書に親しんでいたようです。
 
 印象的な部分を恒例により、曲解と独断でいくつか紹介しますと、
ボードレールの魂を解く鍵は、ダンディスムとカトリシスムであるが、日本人にとってはともに理解の困難なもの。ダンディスムは自我崇拝、驕慢で、かたやカトリシスムは自我放棄、謙譲、この奇異な取り合わせはどうして可能だったのか。それは、精神的な富ではなく物質的な富を追い求め、超越したものや稀有なものへの憧憬を捨て平等を偏重するという、当時の社会の性格に対する抵抗という点で一致している。

②レイノオルは19世紀のボードレールと15世紀の苦悶のキリスト教とを比較していたが、この本では、ボードレールのダンディスムと17世紀の宮廷で栄えたオネットムとを比較している。職業を持たず、専門家にならず、普遍的教養を具え、礼節の尊守、都会的洗練などに多くの共通点があるとしているが、相違点は、オネットムが宮廷や上品なサロンを舞台とし、謙譲に富み社交的なのに対し、ダンディはブルジョワジーの俗悪で偽善的な雰囲気に取巻かれていたため狷介・不羈の趣きを有する点。

ボードレールのダンディスムは、孤立の感情、因襲や社会の規範に対する反抗を、情熱や絶叫で表す浪漫的色彩を帯びていたが、次第に妄想的な自我崇拝を純化して、冷静、沈黙の超然たる態度を取る高踏派的様相に近づいて行った。

ボードレールのカトリシスムにおいて、一般には、ジョゼフ・ド・メーストルからの影響が論じられることが多いが、この本ではパスカルとの類縁性が強調されている。ボードレールパスカルに共通するのは、人間がかつて所有していた優れた本性から堕落し、原罪を負っていることを直視するその「異様に緊迫した雰囲気・・・重い憂愁を破って迸る真剣な苦悩の叫び」(p129)にある。

⑤『悪の華』の章の構成を物語的に解釈している(p182~p184)。冒頭の「憂鬱と理想」に描かれたものは、「不完全の中に流謫された天性の、激しい哀歓の相であり、不可抗な憂鬱への沈淪に抗して、即刻、理想を捉えんとする狂おしき焦燥」であるとし、次の「巴里風景」では「世紀末の熱病に罹った、老廃せる文明の首都に狂い咲く、罪障の妖しき花が、あらゆる有毒な香気を放」ち、「酒」も「憂愁の底に喘ぐ者に、サタンの与える、須臾にして消ゆる人工楽園の眩耀に過ぎ」ず、「斯くて絶望の果ては錯乱となり、遂にサタンに与して神を罵るに至る」のが「反逆」の章の主題―今や「死」のみが、欺くことのない希望であり、全曲のフィナーレとして、次の叫びが放たれる。「おお死よ、老船長よ、時こそ来たれり、錨を上げよ」。そしてこの解放を求める絶叫は、巻頭の詩「祝禱」の、「『我は知る、天国のいと幸多き位階の中に、御身、詩人のために席を設け給うを』という希望の讃歌と、緊密に結びつき」、詩集全体が連環しているとしている。

辰野隆『ボオドレエル研究序説』

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辰野隆『ボオドレエル研究序説』(酣燈社 1951年)


 20年前に一度読んだ本。まったく覚えていないので、新鮮な気持ちで読めました。前回読んだ矢野文夫/長谷川玖一『ボオドレエル研究』と比べて、文章が引き締まって理路整然としている印象があります。原詩を引用しながら、訳を載せてないところが不親切ですが、ところどころで披露している訳はなかなか良い。

構成としては、略伝に始まり、社会に対する態度としてのダンディスム、次に、女性に対する特異な恋愛の形、自然観、死の思想、キリスト教の信仰と展開しています。読み初めの頃は、知っているような記述ばかりで、独自性を欠いていると思いましたが、読み進めているうちに、自然観、死の思想あたりから俄然面白くなってきました。略伝は、ユジェーヌ&ジャック・クレペ、その他の部分では、ゴンザアグ・ド・レエノオルに多く負っているのが目につきました。

 いくつかの面白い論点がありました。
ボードレールの信仰や自然観をロマン派の詩人ヴィニーと対比しているのが特徴。ヴィニーもボードレールもともに旧制度(アンシャン・レジーム)の貴族趣味を持つダンディで、ヴィニーは冷酷な神に対する反逆の心を持ち、当時隆盛してきた実証主義に傾いたが、ボードレールは神に反逆し悪魔主義に傾きながらも最後は神に祈願するようになったこと。またヴィニーは一般のロマン派詩人が自然を恵みと捉えたのに対し、自然を悪意あるものと捉え、ボードレールもその流れを受け継いだが、ボードレールはさらに進めて、美的環境を抽出して想像上の自然、音と色と響きが交感する自然を作りだした。

②15世紀と19世紀を比較した論点も面白い。15世紀は死と墓の世紀で、19世紀のロマン主義にも墳墓趣味や死や髑髏に対する好奇心があると指摘。ボードレールの内面世界は15世紀の宗教的美術や苦悶の基督教を思わせ、ただキリスト教徒になるには実際の修業と謙譲の心が欠けていたとし、ヴィヨンとボードレールがそれぞれの時代の典型的な詩人としている。

ボードレールは特殊な恋愛恐怖病者であり、現実から離れて、恋愛を想像の世界に極限しようとしたが、それはかえって人工的夢幻の世界に徐々に陥って行くこととなった。同性愛の女性を描いたり、恋愛に対する戦慄や呪詛からアシッシュや鴉片による人工天国讃美にまで至った。

ボードレールの自然の表現は、観察から思索、喚起、暗示へと進んで行き、自然の生命を憎むところから、「我は石の夢の如く美し」という無機的な風景に辿り着く。彼の自然は想像上の自然で実は幻影である。「巴里の夢」は彼の幻景の最高度を示すものである。

⑤死の美学へ傾斜していったことを克明に記述。アンニュイは年を経るにつれて深刻味を増して死の色を帯びてくる。アルコール中毒で肺病となりやがて死ぬべき運命の連れ添いデュヴァルの姿を白鳥に仮託した詩篇「白鳥」、「何処を睨んでいるのか判らぬ気味の悪い瞳」を描いた「盲人」、「顔も寸分異ならぬ老爺の数が刻々に増して、遂には七人の老爺となり列をなし歩いて行く」幻影を見る「七老爺」、「彼のみに見ゆる髑髏に対して独言」を言う「死の舞踏」、そしてついには「シテールへの旅」において「シテエルの島の象徴の梟首台に自分の姿が懸かっている」のを見るに至る。

 いくつか疑問を抱かせる記述もありました。例えば、

アリストクラシイが尚お余喘を保っていたルイ・フィリップ時代が、反抗的に彼のダンディスムを煽った事は疑いない(p47)

とあるが、ボードレールのダンディスムはアリストクラシーから出発しているのではなかったか。

ボオドレエルは・・・超自然の光明を求め、科学的真理に不満を抱いた恐らく最初の近代的詩人であった(p58)

と位置づけていますが、ネルヴァルを初めとして、他にもいたのでは?

19世紀の浪漫主義、殊にボオドレエルの浪漫主義(p171)

とありました。たしかにボードレールの一部はロマン主義的ですが、ロマン主義に反発して生まれた部分も多いので、その点を踏まえた記述もあればなおよかった。