齋藤磯雄『ボオドレエル研究』

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齋藤磯雄『ボオドレエル研究』(三笠書房 1950年)


 自らも『悪の華』を日夏耿之介風のゴシック浪漫詩体で訳している齋藤磯雄のボードレール論を読んでみました。本人のボードレールへの全面的な心酔がいたる所に感じられ、人柄が濃厚に感じられる読み物となっています。悪く言えば、客観的な批評とは程遠い。『悪の華』の詩集全体の構成への言及はありましたが、個々の詩については論じてなく、作品や手紙を通して見られる人生観、社会観、宗教観を問題にしています。矢野文夫や辰野隆と同様、齋藤磯雄もゴンザアグ・ド・レイノオルをたくさん引用していて、当時はこの人がボードレール論の中心人物だったことが分かります。

 リラダンの訳者だけあって、ボードレールの貴族的、反人道的態度への共感が甚だしい。ダンディについて60ページも費やし、ボードレールのダンディ振りの描写に熱心で、生田耕作のダンディ讃を彷彿とさせるところがあります。文章は戦前の美文調が残っていますが、それが心地よく感じられる面もあります。キリスト教信者かと思うくらい聖書の引用が多く詳しいので、ネットで見てみると、幼少の頃より聖書に親しんでいたようです。
 
 印象的な部分を恒例により、曲解と独断でいくつか紹介しますと、
ボードレールの魂を解く鍵は、ダンディスムとカトリシスムであるが、日本人にとってはともに理解の困難なもの。ダンディスムは自我崇拝、驕慢で、かたやカトリシスムは自我放棄、謙譲、この奇異な取り合わせはどうして可能だったのか。それは、精神的な富ではなく物質的な富を追い求め、超越したものや稀有なものへの憧憬を捨て平等を偏重するという、当時の社会の性格に対する抵抗という点で一致している。

②レイノオルは19世紀のボードレールと15世紀の苦悶のキリスト教とを比較していたが、この本では、ボードレールのダンディスムと17世紀の宮廷で栄えたオネットムとを比較している。職業を持たず、専門家にならず、普遍的教養を具え、礼節の尊守、都会的洗練などに多くの共通点があるとしているが、相違点は、オネットムが宮廷や上品なサロンを舞台とし、謙譲に富み社交的なのに対し、ダンディはブルジョワジーの俗悪で偽善的な雰囲気に取巻かれていたため狷介・不羈の趣きを有する点。

ボードレールのダンディスムは、孤立の感情、因襲や社会の規範に対する反抗を、情熱や絶叫で表す浪漫的色彩を帯びていたが、次第に妄想的な自我崇拝を純化して、冷静、沈黙の超然たる態度を取る高踏派的様相に近づいて行った。

ボードレールのカトリシスムにおいて、一般には、ジョゼフ・ド・メーストルからの影響が論じられることが多いが、この本ではパスカルとの類縁性が強調されている。ボードレールパスカルに共通するのは、人間がかつて所有していた優れた本性から堕落し、原罪を負っていることを直視するその「異様に緊迫した雰囲気・・・重い憂愁を破って迸る真剣な苦悩の叫び」(p129)にある。

⑤『悪の華』の章の構成を物語的に解釈している(p182~p184)。冒頭の「憂鬱と理想」に描かれたものは、「不完全の中に流謫された天性の、激しい哀歓の相であり、不可抗な憂鬱への沈淪に抗して、即刻、理想を捉えんとする狂おしき焦燥」であるとし、次の「巴里風景」では「世紀末の熱病に罹った、老廃せる文明の首都に狂い咲く、罪障の妖しき花が、あらゆる有毒な香気を放」ち、「酒」も「憂愁の底に喘ぐ者に、サタンの与える、須臾にして消ゆる人工楽園の眩耀に過ぎ」ず、「斯くて絶望の果ては錯乱となり、遂にサタンに与して神を罵るに至る」のが「反逆」の章の主題―今や「死」のみが、欺くことのない希望であり、全曲のフィナーレとして、次の叫びが放たれる。「おお死よ、老船長よ、時こそ来たれり、錨を上げよ」。そしてこの解放を求める絶叫は、巻頭の詩「祝禱」の、「『我は知る、天国のいと幸多き位階の中に、御身、詩人のために席を設け給うを』という希望の讃歌と、緊密に結びつき」、詩集全体が連環しているとしている。