:櫻庭信之『英国パブ・サイン物語』

                                   
櫻庭信之『英国パブ・サイン物語―酒場のフォークロア』(研究社出版 1993年)
                                   
 ヨーロッパの街並みは落ち着いた感じで好きですが、それはアジアでは町中に氾濫している毒々しい看板がないことが大きな要素の一つだと思います。ヨーロッパの看板は、鉄細工や木製のもの、またプラスティックなどいろいろありますが、ワンポイントで職業を表わしていたり、みんな小ぶりで洒落たデザインなのが気に入っています。イギリスにはまだ行ったことはありませんが、パブ・サインに、何か他の国とは違う特徴があるのではと思ってこの本を買いました。

 「イギリスのパブ・サインは・・・イギリスの歴史や文学、そしてその伝統的風俗習慣と深いかかわりを持っている」(p185)とあるように、この本は、パブの看板をめぐりながら、イギリスの歴史文化について面白いうんちくを傾けていて、またあちこちに文学的素養がちりばめられていて楽しい読み物となっています。

 まず、パブの名前や看板の絵柄に、独特のユーモアがあること、詳しい説明は省略しますが、名前ではたとえば、Cradle and Coffin「揺りかごと棺おけ」亭(p20)、First-in and Last-out「最初に入って最後に出る」亭(p21)、Last drop「最後の一滴」亭(p23)、Do Drop Inn「来々軒」(p44)、Nobody Inn「無人宿」「だれもイナイイナイバー」(このパブの看板は男の顔だけで、bodyは描かれていない)、Nowhere「どこにもない」亭(p46)など。

 さらには、木製の頭をした2人の男の絵を掲げたLoggerheads 「木偶坊(でくのぼう)」という名のパブでは、絵の下に「三人馬鹿(We Three Loggerheads)」という文句があり、3人というのに看板には2人しかいないじゃないかと客が言うと、3人目はあなたですと、亭主に一杯食わされる (p46)という具合。

 著者は、そうした看板の説明を嬉々として行っていますが、ご本人もユーモアに富んだ人とみえて、訳語に一味工夫があったり、文章のところどころにダジャレがちりばめられていたりします。たとえば「Man with a Load of Mischief《災君という重荷を負える男》」(p33)、「エイルをアビルほど飲んだアヒルの話」(p72)、「その娘は・・・全部が臀部根底から良識の持主でした(the woman had the bottom of good sensible)」(p124)、「これぞまさしく闘鶏残コック物語」(p146)など。

 絵柄で面白かったのをいくつか掲載しておきますが、ホガースが描いたとされる先ほどの「災君という重荷を負える男」、女性の口に馬のくつわがはめられている「じゃじゃ馬」亭、白いコック帽をかぶりにやっと笑っている猫の「チェシア猫」亭、イギリスにもあった「二人のかごかき」亭、活字という悪魔に悩まされる「印刷見習工」亭、パブの亭主が絞首刑になったという不気味な「キャナードの墓」亭など。
災君
かご
印刷

 「じゃじゃ馬」亭と似た感じなのは、「首なし女」亭で、これも口やかましい女房に悩まされた亭主族が腹いせに、静かで、無口でよい女ということで「首なし女」の看板を考え出したといいます。別に「静女」亭、というのもあり、自分の首を抱えた女性の絵が描かれています。こうした名称を考えると、パブというのがやはり男性社会の産物だということが分かります。
静女亭

 イギリス社会も昔は相当野蛮なようで、パブのなかで、ネズミを囲いのなかに入れ犬をけしかけてそれに興じる「ネズミいじめ」や、どんなことをするか詳細不明の「熊いじめ」があったようで、とても紳士の国とは言えません。また犬の糞を集める商売があり、犬の糞でモロッコ革をなめしてそれで本を装幀!していたらしいことも分かりました。

 「この樽の終(つひ)のしづくの落ちむ時この部屋いかにさびしかるべき(牧水)」(p23)、「親もなく子もなき声やかんこ鳥(蕪村)」(p42)、「美人言わねど隠れなし」(p57)など、日本の短歌・俳句・俚諺などもところどころ引用し日英の共通性を浮びあがらせるところなど、なかなか味のある膨らみのある作品となっています。