:廃墟についての本二冊

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「WAVE12 特集:廃墟庭園」(WAVE 1987年)
谷川渥監修『廃墟大全』(トレヴィル 1997年)


 廃墟にはなぜか心惹かれるものがあります。子どもの頃、近所に大きな廃屋があって、中に入りこんで遊んでいたものでした。そこを基地にして少年探偵団を組織したりして。長じてロマン派の廃墟の風景に心躍らせたものです。そんなわけで本棚に大事に置いておいた本。

 片方は雑誌、片方は単行本の形をしていますが、両方とも同じ性格のもので、時事性とテーマ性を併せもった特集型雑誌と言えるでしょう。この頃は大友克洋AKIRA」など廃墟が注目されはじめた時代で、時事性のあるテーマだったわけです。

 両方とも豪華な執筆陣ですが、『廃墟大全』は「廃墟庭園」の後に出版されたものなので、執筆者が重ならないように工夫した形跡が見えます(飯沢耕太郎だけが両冊に顔を出している)。「廃墟庭園」のほうが、どちらかと言うとそのテーマに関する大御所を揃えていて、『廃墟大全』は傍系ではあるが気鋭の論者といった感じでしょうか。

「廃墟庭園」:若桑みどり田中優子飯沢耕太郎武邑光裕、石井聡亙、古賀智顕、菊池誠、川崎寿彦、島田雅彦松岡正剛戸田ツトム高山宏志賀隆生、彦坂裕、堀切直人松枝到今野裕一
『廃墟大全』:谷川渥、巽孝之永瀬唯小谷真理滝本誠飯沢耕太郎四方田犬彦、小池寿子、岡田哲史森利夫、今泉文子、岡林洋、種村季弘中野美代子飯島洋一椹木野衣日野啓三

 双方とも、論者には、文学畑の人、美学からの人、建築関係、漫画、映画、写真など幅広い分野の人が参加していて、文学のなかでも、アメリカ文学、ドイツ文学、中国文学、日本文学と広域にわたっています。

 この二冊に現われている廃墟についての論点をいくつか挙げると、ひとつは廃墟を美しいと感じるのはなぜかという感性を軸に考えるもので、廃墟には時間の力、時間の悠久が感じられるということ、それはその場所の過去の栄光と同時に栄光の虚しさが感じられるためだということ、また繁栄を謳歌している現在のわれわれの未来の状態がうかがわれることもあるなど、時間との関係性を指摘したもの。また廃墟の美が衝撃的で畸形的な高度な美であるという解釈も出ています。

 逆に廃墟美と似て非なるものとして、未来予想図や古典主義的な綻びのない景観図の美しさは廃墟の美しさとは次元が異なるものであること、現実の震災や津波による廃墟を前にしては美しさは感じられないことなどが述べられています。「廃墟庭園」の時点では阪神大震災も起こっておらず、論者は戦後の焼け跡を例に取っていて、『廃墟大全』でようやく阪神震災への言及がありました。これに似た考えとして、上海や香港の魔窟は外部の人間からは廃墟美と映るが住んでいる当人にとっては美でもなんでもないという発言(島田雅彦)がありました。

 もうひとつの論点は、70年代ごろから日本や世界でも、写真や漫画、映画などで廃墟的な風景が出現しているという現実から問題意識を提起するもので、私のあまり知らない映画や写真の分野で作家や作品などいろいろなことを教えられました。そうしたムーヴメントが起った理由として、現実の都市があまりに無機的になり過ぎていることへの反動と説くもの(飯沢耕太郎)や、現在の巨大都市の舞台裏にある核戦争の影や都市自体の消費的性格を挙げるもの(島田雅彦)などがありました。

 また、廃墟に対する見方の歴史的変遷をたどるものがいくつかあり(若桑みどり、川崎寿彦、彦坂裕、森利夫ら)、廃墟美がギリシア以前の黄金時代へのノスタルジーと表裏一体になっていること、廃墟崇拝は十五世紀のラテン文明に淵源を持ちラファエロが最初のきっかけを作ったこと、十六世紀初頭のイタリアにはすでに人工のにせ廃墟が存在していたらしいこと、ローマの実際の廃墟から大理石や彫像や装飾品が盗まれて、それらが古物のコレクションとして売買の対象になったことや、十七世紀に廃墟画家たちが続出したこと、十八世紀から十九世紀初頭にかけての、とりわけ英国のピクチャレスク趣味の廃墟崇拝、そしてロマン主義的廃墟信仰、二十世紀後半には、パンク系ミュージック・ビデオや映画、写真、漫画の世界で一斉に廃墟がテーマとなったことなどが詳述されています。

 地理的な比較をする論考では、日本の廃墟美は『源氏物語』あたりから始まるが、西洋のように堅牢な廃墟として姿を残すことなく自然の中に滅びて流れ去っていく性格に特徴があり、中国の場合も、ほとんど自然と同化してしまった遺址としての廃墟しか存在しないことが報告されています。

 私がいちばんおもしろいと思ったのは、廃墟美をエントロピーから論じている文章で、種村季弘日野啓三若桑みどりの三氏が言及していましたが、エントロピーの理論から、廃墟を見て昔の完璧な世界への郷愁を感じることを裏付け、廃墟に混沌へ引きずり込もうとする宇宙的なカオスの力を読み取り、香港の貧民窟にエントロピーの混沌の世界を見たりします。逆にネゲントロピーにまで思いを馳せ、廃墟を見てそこに潜む生命力を感得したりもしています。


 本筋から外れますが、語り口にもいろいろあるのがおもしろい。とくに「廃墟庭園」では、若桑みどりの座談調(実際に座談だが)、高山宏や彦坂裕の断言口調があるかと思えば、堀切直人の心情告白的文体、松岡正剛の現代詩を模したような断片的なフレーズなど。

 こういう特集型雑誌でいつも気になるのは、一つのテーマについて各執筆者がてんでバラバラに好き勝手なことを書くところがあるので、全体を総覧して問題点を整理するような基軸となる文章がどこかにあるかということ。「廃墟庭園」では巻頭の若桑みどりの座談が廃墟に関する論点を網羅していてそれに相当すると思われましたが、『廃墟大全』では谷川渥の総論はあったものの、個々の筆者への個別の論評に偏っていて、もう少し論点を整理融合させるような文章になればよかったのではないでしょうか。


 それぞれ印象に残った文章を引用しておきます。

日本には廃墟の思想がない・・・木や草でできたものがみんな見事に虚に帰っていってくれて、われわれが遺跡を発掘したとか言っても穴しか見つからない(若桑みどり)/p29

廃墟のほうがずっと衝撃的だし、変わっているし、面白いっていう高度な美なの。崩壊の現象だって世界的に捉えているけれど、逆に普通に建っているものはつまらない、壊した方が面白いという美意識的一面もある(若桑みどり)/p46

〝廃墟″には異なった速度で進行する時間が重なりあって含みこまれている。生長し、繁茂する植物、錆びつき、ひびわれ、朽ち果てていく鉄やコンクリート、さらに腐敗していく有機体などが、同じ場所を占有して生きている(飯沢耕太郎)/p70

人工的な廃墟はそうした多時間性をもつ空間に、突如、捏造された時間性を担わされて登場するということになります(彦坂裕)/p163

バベルの塔自体が不完全さを表象する巨大な廃墟でした。それは統一言語の解体ないし分化をシンボライズしています(彦坂裕)/p170

以上「廃墟庭園」より

記憶の宮殿は主の死とともに失われるひとつの個人的最終空間(小谷真理)/p51

幕末には廃墟を訪れることが、ある種の国学者や勤王の志士たちの間で流行した・・・起源であるべき場所が今はただならぬ荒廃に陥っているという危機意識において、彼らはいちように共通していた。荒廃とは単に物理的に破壊された建築物の集合ではない。それは往古の栄華をめぐるノスタルジックな心性が働いてこそ、はじめて真に廃墟と呼ばれるにふさわしいものとなるのである。もっと端的にいえば、廃墟の半分は廃墟をめぐる物語であり、現実に目の当たりにすることになる瓦礫は、その物語を発動させるための触媒に似た役割をはたしているにすぎない(四方田犬彦)/p104

廃墟が往々にして人々を魅了するのは、その外観に反して内に潜むこの本源的な生命力ではあるまいか(小池寿子)/p115

形成力も荒廃力も同じひとつの根原的なベクトルのふたつの面であることに、われわれは廃墟の陰々たる迫力を全身に感じとりながら気付くはずである(日野啓三)/p273

西洋的なものと日本的な「うつろひ」、「滅び」の感性、いかにも抒情的な無常感とでもいうべきものとの秘かな結びつきがあった。「廃墟」は、それがロマン派的な感性を通して表象化されるとき、日本の「伝統的」美意識と結びつきやすいのである(谷川渥)/p278

以上『廃墟大全』より

 もっと引用したい文章がたくさんありましたが、長くなりますのでこれくらいにしておきます。