:平岡敏夫『夕暮れの文学』

平岡敏夫『夕暮れの文学』(おうふう 2008年)


 「夕暮れ」を切り口に日本の近代文学について論じた珍しい本です。この本の前に『〈夕暮れ〉の文学史』を書いていて、その本の補足あるいは事後譚として書かれているようですが、残念ながらその本は読んでおりません。

 なぜ夕暮れかという点について、著者が「私自身もまたもう夕暮れなので(p41)」と正直に白状されていますが、私も年を取ってから以前にもまして夕暮れや静寂という言葉に心を惹かれるようになりました。

 着眼は面白いですが、少し物足りないところは、文学史的な時間軸が前提にあり作家を単位として考えているところです。こういう場合は作家を離れて、作品や文章単位で考えたほうが自由に書けると思いますが。

 例えば、夕暮れが登場する際のいろんなパターンを考えたり、その作品の中でわざわざ夕暮れをとりあげた効果・役割について考えたり、夕暮れの具体的な表現のあり方―例えば、夕暮れそのものの色や光、風景との関係、風・静けさなど付随的な表現との関係―や、夜の詩人との関係を考えるなど、いろいろと広がると思います。

 作家単位で考えているので、あの作家について言及がないというないものねだりの状況が生まれるのは必然で、おそらく著者はあちこちからいろんな苦情を聞いていることでしょう。私から言えば、ロダンバックの影響のもとに薄暮を歌った川路柳虹が抜けていますし、三木露風、木下杢太郎がありません。室生犀星も小説、詩ともに夕暮れ的なものが基調となっていますし。


 著者が夕暮れについて、いくつか特徴を指摘していますので、ご紹介します。「<夕暮れ>はデイタイムとナイトタイムのほんとの短いボーダーライン・・・duskとかnightfallとか、そういう言葉で表さなきゃならない(p43)」「‘boundary’これが<夕暮れ>なんです。「夕暮れの浜辺」っていうのは、‘boundary’בboundary’・・・そこに違った効果が出てくるかもわかりません(p72)」「非寛容・・・そういう二元論では、<夕暮れ>は出てこないんですね。昼でもない夜でもない、その<夕暮れ>なんです(p82)」

 編集上の難点は、いろんな雑誌への寄稿や講演原稿を集めているため、各論文の重複があまりにも多いことです。柳田国男が夕暮れにひそむ「伝統的不安」を指摘したというのは10回ほど読ませられました。


 夕暮れの表現で印象に残ったものをご紹介します。

秋の夕暮れ空の景色は、色もなく声もなし。いづくにいかなる故あるべしとも覚えねど、すゞろに涙こぼるゝごとし(鴨長明『無名抄』)/p16

背にしたる夕日を何にたとふべき地にうつくしきかげを見しわが
夕されば壁のくづれのさびしきにしたしみましてきくよ死の鐘
かく生きてあるてふ事の悲しかり秋の入日のしづかなるかな(暮鳥の短歌)/p133

わが庭の入日よ、/冬近き樹木の葉、/冬近きまぶたに/はらはらと揺らぎつ、/ちりゆくは過ぎし日、/梢なる心の/しのびかに悲しむ(暮鳥『三人の処女』所収「愛」)/p137

いりひの疲れ・・・/しだれやなぎの/昼のためいき、/そよろと陰影(かげ)。/うつくしや、/滅び行くもの、/にんげんの/かなしき智慧よ、/しづかなる光に/溺れて眠り、/やなぎの/枝に水をひく。(暮鳥『三人の処女』所収「河岸」)/p140