:哲学の本2冊。入不二基義『足の裏に影はあるか?ないか?』、土屋賢二『猫とロボットとモーツァルト』

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入不二基義『足の裏に影はあるか?ないか?―哲学随想』(朝日出版社 2009年)
土屋賢二『猫とロボットとモーツァルト―哲学論集』(勁草書房 1998年)


久しぶりに哲学の本を読んでみました。難しいところもたくさんありましたが、両方とも不必要に堅苦しくはありませんでした。


はじめに、入不二基義の本を読みましたが、これは「足の裏に影はあるか?」という刺激的なタイトルに惹かれて買ったものです。「哲学随想」という副題がとてもよいと思います。哲学というと常識離れなことをヒステリックに詮索するイメージがあり、あまり好きではありませんが、随想となると、ほんわかしたイメージがあり、謎解きゲームのような味わいがあるのではと期待してしまいます。

内容は3部に分かれていて、とくに1部に収められたものが一番良かったと思います。「地平線と国境線」のなかの「近づけば退いていく地平線に対しては、どこまでも地平線のこちら側しかないのだと言ってもよい。」(p22)などは、粒来哲蔵の散文詩のフレーズかとも思わせられました。

集中もっとも面白かったのは、「『さとり』と『おおぼけ』は紙一重」で、三十一人の菩薩とマンジュシリーが維摩と議論し、最後にマンジュシリーと維摩とが対決する場面の紹介があります(p47)。マンジュシリーの発言に対して維摩は沈黙します。「維摩の一黙、雷のごとし」と言われる『維摩経』のクライマックス。埴谷雄高が『死霊』の最後に持ってこようとした釈迦と大雄の対決はこんな感じだったのではないでしょうか。

2部では「数と時の思考」の中で展開されている「一」についての論考が神秘主義的な色合いを帯びて魅力的です。「『一』がもっとも拡張的に働くと、『ある』という点だけで一括りにされる『全体』、すなわち『ありとあらゆるすべて』を表す。・・・一方、『一』がもっとも収縮的に働くと、それ以上分割できない究極の『アトム』のようなものを表す。」(p98) 

最後のプロレスを論じたあたりは若書きの原稿だけあってオタク的な印象があり、若干窮屈な感じがしました。


 土屋賢二の本は何冊か読んで、軽妙な屁理屈と、それを展開するときの澄まし込んだ語り口のファンですが、今回はこれまでと違って本業のお仕事のようです。「哲学論集」という副題のとおり学術的なにおいもします。しかし、著者がこれまで書いてきたユーモアエッセイのテイストが多分に残っており、極端な仮定の面白さがここでも健在なので(下記に一例を引用)、本人はまじめに書いているつもりなのかも知れませんが、おかしくなってくるときがありました。

まったくの素人がケージの影響を受けた曲の発表会と称して『六分十六秒』と『四時間十一分二十六秒』(大作である!)を発表したとしても誰も聞きに行かないだろう(p41)

たとえば猫は歌わない、音楽を聴いても感嘆のふるまいを見せない、ピアノで音を出すとき、工夫したり、繰り返したり、やり直したり、練習したり、考え込んだり、満足したり気に入らない様子を見せたり、夢中になったり、聴いた音楽をピアノで再現しようとしたり、といったことがない。これらを総合して、猫は作曲しているのではなく、デタラメに音を出しているのだ、とわたしたちは言うのである(p50)

 内容は、芸術論、存在論、時間論、認識論など哲学の根本問題を扱っています。芸術論は、著者自らもジャズピアノを弾く体験を踏まえて書かれており説得力があります。

「変形によって芸術のすべてが説明できる、とはいえなくても、芸術的創造が先行するものの変形を重要な要素として含むことは疑いがない」(p45)とあるように、芸術を「変形」というキーワードで捉えているようです。「変形」させるためには「繰り返し」というものが必要です。この「繰り返し」と「変形」の二つの要素のせめぎ合いが芸術を作っているのではないでしょうか。

 この本でも「だれもいない森の中で木が倒れたら音が出るか」とか「どうして赤色だと分かるのか」といった刺激的な設問が出てきます。これの答えは複雑なので本を読んでみてください。

 入不二氏と同じく東京大学哲学科のご出身のようですが、さすがに年長だけあって、哲学史全体を俯瞰し微に入り細をうがった懇切丁寧な説明には目を見張らせるものがあり、それでいて書き方に落ち着きがあり、単なるユーモアエッセイストでないということがわかりました。

書き方に落ち着きがあるというのは、一つは、自分が間違っているかもしれないという疑いを持ちながら考えていて、謙虚さが感じられること。もう一つは、常識とか日常生活の視点を大切にしていること。哲学の問いに対して、その問いが成立するかどうかも含めて吟味しているところです。

哲学というのは、一点に集中して考え抜くというところに特徴があり、その執拗さが魅力でもあり、また付き合い難いところでもあります。土屋賢二の書き方は、その点を少しクリアしているように感じられました。執拗な感じであっても許せるのは美しさに対してだけではないでしょうか。