:李家正文の本2冊

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李家正文『正倉院随想』(鹿島研究所出版会 1965年)
李家正文『天平の客、ペルシア人の謎―李密翳と景教碑』(東方書店 1986年)

                                   
 この李家正文の本もたくさん所持していていますが、一冊も読んだことがありません。正倉院の宝物についていろいろ書いてあるようだし、葡萄唐草の話も出てくるので、まず『正倉院随想』から読んでみました。一読して、その博覧強記に驚き、同じ天平時代が出てくる『天平の客』を釣られて読んだ次第です。

 先に読んだ森豊が毎日新聞記者で、この方は朝日新聞の記者をされていたようです。がもともと学校で先生をしていたようで、どちらかというと研究者学者に近く、内容も専門的な印象がありました。『正倉院随想』では、話がどんどんと展開して思わぬ方向に逸れて行ったりしますが、これは知識が豊富だからできる芸当。また、さりげなく知識が披露されていて、クイズのネタになるような話がたくさんありました。


 『正倉院随想』は、タイトルに随想とあるように、柔らかく書かれていて、正倉院の建物そのものや納められている宝物の話にはじまり、中国の幻術(杉山二郎『遊民の系譜』を思い出す)や、花食い鳥のモチーフ、最後に著者の得意分野らしき筆や墨の話題に及んでいます。そこに共通点を見いだすなら、奈良時代の文物が多いことと、あとがきに「かねてから生活史に興味をひかれている。そこには古代と現代との融合があるからだ」(p250)と書かれているように、生活に密着したものが取りあげられていることです。

 ひとつ面白かったのは、「散」という言葉について書かれたところで、「散史といえば、民間の文筆家、散人といえば役に立たない人、散士といえば官に仕えない人、・・・また閑散といえば、ひまなことだ」(p113)、生駒散人のあり方もまったくそのとおりだと、膝を打った次第です。


 『天平の客、ペルシア人の謎』は、『正倉院随想』と違って専門的なので、ところどころ飛ばして読みました。とくに、後篇はほとんど景教碑の漢文の訓註。漢文は昔から苦手で、読み下し文もついていましたがよく分かりませんでした。挿絵や図、写真が豊富にあり、読みやすくしようという努力は感じられましたが、その図や写真も必然性がなく適当に選ばれたようなものが多く、入門書的なニュアンスもあるような気がします。

 この本ではテーマは絞られていて、前篇と後篇に分れていますが、前篇は、天平時代に遣唐船が帰国した時に一緒に来た一人のペルシア青年李密翳が、何のために来て、日本で何をしたかということで、さまざまな推理の果ての結論は、来たいと言うから何かの役に立つかもと連れて来た外人に過ぎず、おそらく早い時機に流行の疫病か何かで死去したものと思われる(p107)というあっさりしたものです。後篇は当時中国で全盛を極めていた景教について景教碑を読み解きながら解説したものです。

 これらの説がどの程度学説として正しいのかは、私には判断できません。ただ断片的な知識の面白さのみで読みつづけました。逆に言うと、読みつづけることができるほど、面白い話が多かったということです。


 物知らずの私が新しく得た(と言ってもすぐまた消えていく)知識を下記に。

薬酒としての葡萄酒が薬師の所属であって、薬師寺が、最初の製酒の権を握っていたのではないかと考えられる。・・・薬師寺の(薬師が携えている)瓶のなかに葡萄酒がはいっていたであろうことの推理は、まちがってはいまい。/p54

葡萄ということばも、原産地の漢音訳とみてよく、それはギリシア語でボルドスbordos、またバトリドンbatrydon、ペルシアでブダワbudawa、大宛すなわちウズベックのフェルガンの北爾肯州の土言にブダウbudawといい、それを漢代には、蒲陶、蒲桃、葡桃などとあて、唐代には葡萄の字を使うようになったらしい。/p67

美作・・・みさかとよんだのに、土俗誤って、みまさかといったのであろう・・・美酒(みさか)・・・が、いまの美作であるという地名伝承である。この吉備地方は、古来酒の名産地であった。/p67

数珠・・・はインドの算盤の一種であって、咒文をとなえるたびに、玉を指さきでで動かして誦数を勘定する計数器として用いられたものだ。/p98

裸になって跳ねまわる潑寒戯という胡人のヌード/p117

奈良の鹿・・・戦後、食糧難のころ、鹿は、わずかに79頭しかいなかった。/p136

天平時代の写経生だけでも、その名の知られている者は、数千人である。/p213

画指という肉体印・・・左手食指の長さをとって、それに関節のありかをうつしておいた。肉体の一部である指の寸法は、万人異なっているから、それを署名に代えて判としたことがわかる。/p233

以上、『正倉院随想』より

紀伊の勝浦や白浜などの地名は房総に同名が多い。これは黒潮の流れによって、紀の人びとが房総に移住して故郷の名を使ったものだが、安曇(あつみ)族が西国から東へ移ると、各地に安曇とか安土、渥美などの地名がついて歩く。/p22

他民族が中国へ入ったとき、・・・姓はほとんど本籍の国名の首字一字を採っている。/p33

学者のなかには、生と死、光明と暗黒、清浄と汚穢の対である神道も二元教に近いし、キリスト教も、神とサタンの対立する二元教であると説く人もいる。/p45

高野山にも景教碑の模造碑/p49

丑寅の十二支を鼠、牛、虎の動物にあてたのは、後漢の『論衡』から/p62

藤原の道長・・・『御堂関白日記』・・・日曜日の上に朱筆で密の字が書かれている。カレンダーの日曜日が赤い色なのは、これにはじまった/p82

インド僧、菩提僊那(セーナ)・・・の墓は、奈良市中町富雄の山中にある。高野山真言宗鼻高山霊山寺の墓地である。/p113→我が家の近所です。

尊・・・酒樽を両手で捧げ祭祀に供することから、高貴、品位の高い、父、君、神をいう。/p139

景教―・・・景は明なり、大なりでその徳を慕われて仰がられ、幸福をもたらす教ということをあらわした意訳であったと思う。・・・マリアは人であるイエスの母であって決して神母ではない。十字架のほかの形像は用いない。・・・神がかったことからの人間的昇化というか、人間への回帰であって、プロテスタントに似た宗教であった。/p159

写真―人の真の像を描いて写す。肖像画。いまカメラの写真ということばはこれから使われた。/p170

咫はわが国で「あた」で、手のひらの大指と小指の間隔をいった。八咫の鏡など。/p185

以上、『天平の客、ペルシア人の謎』