:H. Rider Haggard、Jean Petithuguenin訳『L’ESCLAVE REINE』(Nouvelles Éditions Oswald 1984年)(H・R・ハガード『奴隷の女王』)


 またまた生田耕作旧蔵の一冊。巻末にこの叢書の目録がついていて、他にもハガード作品の仏訳も十数冊リストアップされています。生田氏の書いたものか不明ですが、そのいくつかに鉛筆で印がついています。買いもとめようとした本でしょうか。


 原題は「The Moon of Israël」、ハガード後期(1918年)の作品。イスラエル人の出エジプトをテーマにした歴史小説1924年に映画化もされているようです。「幻想文学」に長年連載されていた渋谷章の「ハガード、ハガード!」によれば、キプリングがこの小説に感激してハガードに熱烈な手紙を書いています。


 文章がとても分かり易く、かといって平板でもなく魅力的です。物語にどんどん引き込まれてゆく乗りがあります。英語の翻訳だから易しいのでしょうか。


 エジプトの物語ですが、王子が街中にお忍びで出て行くところなど、雰囲気がアラビアンナイトのようなところもあります。また描かれた時代が重なるので、拙い経験の中では、映画の「十戒」も思い出しました。(「十戒」はこの小説の映画作品から何らかの影響を受けていると思われます。)

 ただ、『洞窟の女王』などハガードの翻訳作品の多くで、現代人が古文書や地図を媒介に過去や別世界に遡行するストーリーに衝撃を受けた私としては、はじめから一時代の話なので、平板なお伽噺の印象がどうしてもしてしまうのは否めません。

 面白いのは、いくつかある魔術合戦の場面です。イスラエル人である女主人公のメラピが自分の身をエジプトのアモン神に捧げ、イスラエルの神が守ってくれるか実験をするシーン、アモン神の彫像が眼をギロッとさせて手に持った鞭を振り上げようとしたかに見え、生贄のメラピが怯え頭巾がはらりとほどけスカラベの留め具が地面に転がり落ちる、そのときイスラエルの神の光が天井の裂け目から射し、光の矢を受けてアモン像は土ぼこりとなって崩れ落ちるというところ。また旧約聖書にもある、杖が蛇になったり、水が血に変わる魔術師たちの技比べ。

 語り手は悪臭漂う血の河を船で帰ることになった経験を語ります。エジプトの王子である主人公のセティは、イスラエル預言者が水を血に変えるのに対抗して、エジプトの魔術師も水を血に変えた愚行、すなわちなぜ血を水に戻す魔術を披露しなかったのかと、魔術師の馬鹿さ加減を呪います。魔術師はもともと正義が行なえない存在だと釈明する語り手の言葉は頷けます。

 その後も、蛙を空から降らしたり、バッタを降らしたり、急に空を真っ暗にしたり、第一子は人間も動物もみんな殺してしまったり、エジプト国土はめちゃくちゃになり、結局ファラオの子もセティとメラピの間にできた子も死んでしまいます。

 イスラエルの民がエジプトを逃れ、海が割れたところをうまく通り抜け、追いかけるエジプト軍は渡ろうとしたところで海が閉ざされてファラオ以下全員が溺れてしまう、というのも「十戒」で見たシーンのとおりです。

 最後のページ、死んでしまったメラピが我が子を抱いて光輝く霊として現われ、愛する夫を死の世界へと招き入れる場面では、読了の感激とまざって、思わず涙が出てしまいました。


 「ハガード、エジプトと輪廻転生」と題された序文で、シャルル・モローという人は、この作品に、ハガードの古代エジプトへの愛着がいかに反映しているか、聖書やエジプト神話を生かしながら味付けをしているかを述べ、次に、出エジプトの時代をなぜ選んだかを語っています。それはひとつにはナポレオンのエジプト探訪が大いに与っていること、二つ目にはハガード自身のエジプト経験をあげています。そしてエジプトには行ってなかったゴーティエの同じ主題を扱っている「ミイラ物語」との比較をしながら、ハガードが「転生」の概念をうまく生かして、情熱的で叙事的な物語を展開していることを賞賛しています。