:佐藤朔のエッセイ第二弾

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佐藤朔『超自然と詩―フランス文学と日本文学』(思潮社 1981年)
佐藤朔『反レクイエム』(小沢書店 1983年)


 この二冊はほぼ同じ時期に発行されたにもかかわらず、面白さでは断然『超自然と詩』の方が優っていました。これまで読んだ四冊の中でもいちばんよいのではないでしょうか。

 『超自然と詩』から読んだので、その時は佐藤朔を読み慣れてきたせいで段々と味わいが深くなってきたのかなと思っておりました。真相は、同じ時期だったので先に編集した方がよいものを選ぶチャンスが多かったということでしょうか。

 それと『反レクイエム』の巻頭に置かれている同名の詩が、西脇順三郎の影響を受けているのかなにか知りませんが、あまり面白くなかったことも原因の一つでしょう。


 『超自然と詩』では、ネルヴァルやボードレールコクトーについてのエッセイや、日仏の感性の違いを指摘した「natureとsurnature」に感心するとともに、俳句についてのエッセイがとても分かり易く味わい深く読めました。

 例えば次のような句の鑑賞。
「はるさめや暮なんとしてけふも有」(蕪村)・・・これは今日のことであり、また昨日のことであり、遠い思い出かもしれない。しかも「暮なんとして」いる現在は、動いている、流れている。蕪村の句にはこうした「時間」が多い/p154

「春雨や小磯の小貝ぬるゝほど」(蕪村)・・・この句になると輪郭がはっきりしており、イメージは蒸発などせず、求心的に確立している。・・・小貝の表面の輝きまで目に見えるようだ/p155

「バラ散るや己がくづれし音の中」(中村汀女)・・・には、深い意味があると感じた。「己がくづれし」で、何がどのようにくずれたのか、いろいろに解釈できよう。それが何であるかにせよ、これまで自分を支えていたものが、ひそかにくずれたと見ることができよう。そのものの音とは何か。ほんとうに音がするものなのか。心の中の音なのか。詩の歩みなのか。いずれにせよ、どこかに作者の嘆きがひそんでいる/p174

 芳賀徹のエッセイで出会う句の説明の分かり易さとどこか似ているような印象を受けました。

 また、著者が学生時代に受けた海外のポエジーの衝撃を、シェリ酒やワインを初めて味わったときの驚きになぞらえて語っているのは、とても実感がありました(p188)。我々も若い頃同じようだったことを思い出します。

 先日このブログでも取り上げた松村みね子のことが出てきたので嬉しくなりました。軽井沢で、堀辰雄と一緒に松村みね子の別荘を訪ねた時の回想です(p184)。夫人が和服で経机の前に坐って写経をしていたというのが意外でした。


『反レクイエム』では、「わが回想」など思い出を綴った文章が多く、そちらに面白いものがありました。
 仏文科の先輩に、矢野目源一という変わり者がいて、闘牛士のような裏地の赤いマントを羽織って、銀座付近に出没していたこと(p196)。
 大学の同僚の奥野信太郎が、帰りが同じになると、よくあちこちの飲み屋に案内してくれたこと、銀座、新宿、渋谷にあるカフェ、トリスバー、居酒屋、おでんやなどに精通していたと書かれています(p215)。
 昭和31年頃パリで一緒だった留学生について書かれた文章。鈴木道彦、高階秀爾松原秀一などの名前が出てきます(p223)。


 恒例により、印象に残った文章。

「黒い太陽」は、光線が遮られ、烈々たる光明は失うけれど、薄明から闇黒までの色調の変化があり、それに伴って憂愁から絶望にいたる感情を内包する。「黒い太陽」は太陽の存在の否定ではなく、黒は心象的に豊饒な意味をもって輝く・・・文学的には美の微妙な表現であり、そこに種々の想念を託すことができる/p11

アラゴンは小説で、1920年代のパリの町々に神話を発見しようとした。なんでもない通りや横丁にある店、場末の公園の人気のない丘や湖畔に、驚異と神秘を見いだし、その界隈に住むひとびとと通行人を詩的人物にしたり、幻影や幽霊と見なしている/p93

Feuille morteというフランス語で「死んだ葉」といういい方が、日本語では「落葉」とか「枯葉」になるが、そこにフランス人と日本人とでは同じものを指しながら、発想の違いがありはしないか。日本語でいうときは、葉がまだ完全に死んでいない。・・・「枯木」のこともフランス語ではやはりarbre morte(「死んだ木」)というけれど、これなどいかにも枯れ切っていて、生物学的表現になる。日本語でいう「枯木」は同じことでも、まだ死に切っていず、生の状態が残っていて、そこに美すら発見できそうである/p133

去来という文字にうたかたの人生の転変を思い、西行には文字どおり西方浄土を思い浮かべる。どちらも仏教思想に関連があり、これを去来する、西行すると動詞にすれば、仏教的な人生観が表出するように思われる/p149

以上『超自然と詩』

ダンディの美には、落日の輝きが附きもので、比較的若い時にも過ぎ行くものへの哀惜に似た愁いが存在している/p87

化粧するダンディが鏡の前で毎朝一時間すごすとしたら、残りの時間もすべて鏡の前で生活することになる。その鏡は内面化され、精神化されたものであって、それによって自己を崇高にする知性や感性を練磨することになる/p88

初期の西脇詩学ではグロテスクの美ということをしきりに強調していたが、ただ奇怪とか変形というような形態的なことではなく、そこに諷刺があり、イロニーが感じられなければならないと考えていた/p138

超自然・・・一種の汎神論的世界観で、現実や自然を超えて、霊的なものがみちみちた領域のことである。ボードレールでは、それは堕天使が出没する世界で、陰鬱で、しかも血の滴るような赤色と、濃厚な緑色に塗りこめられている森林風景を思わせる/p140

以上『反レクイエム』