:関西の詩人が書いたエッセイ・評論三冊

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杉山平一『詩への接近―詩と詩人への芸術論的考察』(幻想社 1980年)
清水正一『犬は詩人を裏切らない』(手鞠文庫 1982年)
桑島玄二『花ごよみと詩人』(編集工房ノア 1986年)


 この三冊に共通しているのは、関西の詩人が書いた本で、いずれも1980年代に出版されていることです。高橋輝次林哲夫の本で、関西の詩の運動に関心が出てきたので読んでみました。

 しかし、この三冊は三者三様にテイストが驚くほど違っています。『詩への接近』は詩に対しての美学的理論的な考察が中心、『犬は詩人を裏切らない』には具体的な体験に基づいた庶民的な粗い目線が感じられます。『花ごよみと詩人』は清水正一とはおよそ反対で、洗練を極め、繊細でスマートところがあります。

 『花ごよみと詩人』だけ他の二冊と違っていて、1月から12月まで、月ごとに詩を紹介する構成になっています。桑島玄二は大学の先生だけあって、詩をたくさん読んでいるのはさすがで、それをさらりと引用する感じがとてもかっこいい。また引用している詩の趣味は私と波長が合っています。が杉山平一や清水正一のようなインパクトには欠ける。

 『花ごよみと詩人』では関西の話題はそんなに出てきませんが、『詩への接近』『犬は詩人を裏切らない』の二著では、戦後間もなくの関西の詩の状況がリアルにうかがえ、竹中郁小野十三郎安西冬衛伊東静雄など共通の詩人についての話題が豊富です。

 いまこんなふうに関西の詩の全体について語れる人が居るでしょうか。それ以前の問題として、いまの関西でこんなに詩が活況を呈しているでしょうか。戦後間もなくまでは、同人誌やそれを通じた詩人同士の繋がりが確固としてあったことが感じられます。


 この三冊のなかでは、『詩への接近』に最も感銘を受けました。「詩と私」の素直な書き方にまず驚き、その後の「永遠と一瞬」など幾篇かの美学的考察に感心しました。学生時代大西克禮に師事しただけあって、美学のしっかりした基礎的な素養が滲み出ています。

 一瞬の美しさを語る前に、小さいものの美しさに注意を促し、次に小さな時間としての短さを語る話の筋立てや(「永遠と一瞬」)、芸術が一方では新しさに価値を置きながら、繰返しで魅力を増幅させる一見矛盾した性格を浮き彫りにするところなど(「反復」)、思わず唸ってしまいました。

 この本では、いろいろ知らないことを教えられました。伊東静雄が憎まれ口の名人であること、客観描写の権化と思っていた志賀直哉に幻想的な文章があること、尾形亀之助「おまけ 滑稽無声映画『形のない国』の梗概」の面白さなど。

 また杉山平一が選考をつとめていた神戸新聞子ども新聞に中学生だった鈴木漠が投稿していたことも知りましたが、ちょうど最近買った鈴木漠の新しい詩集『遊戯論』(2011年刊)の帯文を杉山平一が書いていて、杉山氏がご高齢でご健在なのを知りました。

 この本を出版した幻想社は、このとき出来たばかりの大阪の出版社ですが、索引などもしっかりしていて、その後どうなったのか少し気になりました。


 『犬は詩人を裏切らない』を読んでいて困ったことは、著者がよいと感じる詩と私が良いと思う詩がずれている気がしたことです。それは伊良子清白の詩に対する著者の評価で判明しました。河井酔茗が清白の詩を絶賛するのに対して、著者は「一つ一つが酔茗の感想とは困るほど逆なのである(p241)」と書いていますが、私は酔茗の言うとおりだと感じました。

 ヘルマン・カザックやベッケル、木下夕爾などマイナーで渋い詩人のことに触れている割には、感性が異なるように感じられました。

また文章には、酔っ払いの語りのような少し乱暴で奇妙な味があり、それは得がたいものとは思いますが、それが詩を語るにふさわしいかどうかは疑問です。


恒例により、印象に残った文章を引用します。

具体的なイメージの対比、断落、が、実は音楽のひびきと同じものを誘うのだ・・・詩の比喩、対比の面白さが、実は、リフレーンや、韻と同じ音楽になるのだ/p48

みんな儚ない原形を夢みていた(丸山薫「砲塁」)/p56

ああかの、彼の視覚に閃めき、鉄柵の間から、墜ちんとして夙やく飛び去ったところのあの訪問者、あの花の如き一瞬は何であったか(三好達治)/p69

萩原朔太郎・・・吐息や孤独までなんとなまなましいことであろう。その実感は、触感という確なものを使うからである。/p105

独白・・・このような独白も、みじかい傍白も、舞台には誰もいないという条件設定の下に成り立つ。而も、誰かにひそかに立ち聞きしてもらうために、それは朗々と発せられる。そして、この場合、立ち聞きするのは、見物客である/p136

あれほど、物語りの筋の意外な転変を求め、どうなるか、どうなったか、に期待のすべてを集中して劇場に赴き、連載小説の続きを待つ大衆が、結末がすでに知られ、場面すら知られている劇や講釈や落語のために、何故、金銭を支払うのであろうか/p154

均斉もまた、右と左、上と下の一つの繰返し、反復なのではないか/p157

詩がもとより歌に本来していることはいうまでもないが、二十世紀は、詩を大ざっぱにいって、音楽のようなものと、絵のようなものに分けてしまった/p231

以上『詩への接近』

西垣(脩)はのっけから「詩人が詩をつくるのではない、詩が詩人をつくるのである」と一発かまし/p145

おれのひつぎは おれが くぎうつ(河野春三)/p252

ランプは休みなくみずから燃える(E・ディキンソン)/p256

以上『犬は詩人を裏切らない』

詩には曖昧性の美学があり、それはさらに夜を求める/p22

以上『花ごよみと詩人』