:鈴木信太郎『フランス詩法上・下』(白水社 1950,78年)

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 先日、クセジュの『フランス詩法』を読んで、そもそも律動や韻律、諧調など基本的な言葉が良く分からなかったこともあり読んでみたが、数倍は分かり易くてためになりました。フランス詩の入門を読むなら、クセジュはやめて、少々大部で時間もかかるし値は張るが、こちらを読んだ方がはるかに実があるでしょう。
 
 本国での詩法に関するたくさんの本を通覧し、その要点を体系的に分かり易くまとめてくれています。そして理解を助けてくれる豊富な実例の引用があるのがありがたい。少し引用が丁寧すぎるぐらいで、引用の部分を読むのは時間がかかるので、近代の好きな詩人以外は飛ばし読みをしました。
 
 何よりも好感が持てたのは、美学として詩法を追求しようという姿勢がはっきりしていて、迷いがないことです。フランスの諸家の理論を援用してはいますが、何か問題を考えるに当たっては自分なりの感性にあらためて問うところが良い。例えば、二行詩や三行詩のあり方については否定的な論調が多い中で、著者は自分の感性を軸にその魅力を伝えようとし、本国の大家に対して「マルチノンの説は誤ではないかと考へられる」(下p15)とまで言い放つ。
 
 またこの本が扱う限界を次のように認識しているところもよい。「(詩的感動を)特殊な言語の手段によって誘発せしめる技巧、(その中でとくに)言語の作為する感覚の中にある美の感情を対象として論じるに過ぎない。・・・不断に忘れてはならぬことは、一篇の詩を斯くの如く分解して観察する時は、詩そのものは忽ち遁走して、観察される対象は常に詩の形骸に過ぎないという点である。」(上p38)
 
 この詩法の本を読んで理解できたことは、詩の美しさを作るものは、一つは、音の連続の中に秩序を作り出す「律動」の働きで、それは音綴の連続に律動強張音とか句切りとかいろんな方法で中断を作ることで達成されるが、「脚韻」というものも結局は、同一の音の規則正しい反復によって音綴の連続を詩句に分割するということで、律動を助けるものだということ。
 
 また詩の美しさを作るもう一つの働きは、母音と子音の精妙な混合によって多様性を生み出す「諧調」で、「脚韻」はまた諧調でもあるということ、です。
 
 著者は、一般的に美は、統一に向かう力と、多様性を求める力の二つの軸で形成されると言います。詩の場合は、この統一に向かう律動と多様性を生む諧調の両者によって、統一ある多様性を作り出しているというわけです。

 律動を律動単位に配分する方法は、各国の言語の特性によって異なっていて、ギリシヤ、ラテンの言語は音綴の長短、イギリス、ドイツ等は音綴の強弱、フランス、イタリア、日本等は音綴の数によって配分されるということ(上p57)。

 律動を説明するために引用されている、列車の窓から見る電信柱の比喩(ピエルソンという学者の説、上p54)はとても分かり易かったですが、紹介すると長くなるので省略します。

 日本の短詩の場合、例えば短歌の音綴は57577ですが、これと同じ音綴数を持つフランス詩の例が引用されているのを見つけました。全体は7(57577)75で()の部分が57577になります。しかしどう読んで見ても日本の律動とは違って感じられるので、律動も単なる音綴の数の問題だけではなさそうです。/下p139

 諧調の説明のところで、「母音は音sonで子音は響bruitで発音様式を全く異にする」という解説(上p191)で思いつきましたが、子音は楽器の音色の変化に喩えられないでしょうか、とすると母音は音の高低差ということになるのでしょうか。詩もまたオーケストラを奏でているということになります。

 「日本語の詩歌は、諧調をほとんど無視して」(上p203)という記述がありますが、日本の場合、万葉集には明らかに、他の和歌とは違った独特の諧調が感じられるのは、一考に値すると思います。

 間違いの例として高名な詩人の作品例が紹介されることが多いですが、たくさんあるということは間違っていないということではないでしょうか(例えば上p254)。


 下手な要約は慎むこととして、恒例により印象深かったフレーズを引用しておきます。

蜜蜂はその蜜蝋の蜂窩の六角の仕切を芸術的に構成して、然る後、それに蜜を満たす。蜂窩が即ち詩句、蜜が即ち詩である。(ユーゴー)/上p9

落日とか、月光とか、森林とか、海洋とかは、人間を感動させる。・・・本質的な詩的感情には、常に愛情とか悲哀とか、激怒とか恐怖とか、或は希望などが混淆してゐるのである。そして個人の特殊な興味や感情は、詩の特質である宇宙の感覚と必ず結合してゐるのである。(ヴァレリー)/上p15

詩人が「花」une fleur!と発音して・・・あらゆる花束には不在の花、気持ちのよい観念そのものである不在の花が、音楽的にune fleurという音と化して立ち昇るのである。(マラルメ)/上p21

形式と内容との間に、音と意味との間に、詩篇と詩の状態との間に、一つの振動が描かれる。・・・印象と表現との間のこの調和的交換が、詩的機構の、換言すれば、言葉による詩的状態の産出の、本質的の原理のやうに思はれる(ヴァレリイ)/上p30

了解し得ない作品すら読者を虜にしてしまふ(ヴァレリーマラルメの詩に対して言った言葉)といふ事実こそ、音綴の数とか脚韻とか其他あらゆる韻律の規則の存在の根本的な理由ではなからうか。/上p63

近代詩句に於いて、句切りの浮動してゐる詩句が夥多の場合には・・・卒爾にはなかなか律動の美が捉え難いやうに思はれるが、幾度となく熟読する時、その深い底光りする美しさは、古典詩の平易な律動に勝って強く精神を虜にしてしまふのである/上p151

詩句の音は、聴覚と同時に発声器官をも満足せしめなければならない。例へば、ただ単に詩句を朗誦するのを聴く場合においても、多くは聴いた言葉を内心に秘かに発音してみる。/上p163

(近代的自由詩が次々と規則を撤廃し、音綴数も無視していることについて)然らばこれらは、何によってわれわれに詩と感じさせ、何によって詩句といふ観念を惹き起すのであらうか。結論から言へば、それは律動によつてである。しかもこの律動の集合、分離は、自由詩作家の所謂内在的律動に依るものであらう。/下p425