:『現代詩手帖 現代詩年鑑2011』(思潮社)


 年末にこの年鑑を読むのがこのところ毎年の行事と化しつつあります。その年の代表作が載っているのと、たくさんの人が一年を振り返りいろんな角度から論評しているので、一年間の詩作品の動向がよく分かります。
(昨年一昨年の分はこちらhttp://d.hatena.ne.jp/ikoma-san-jin/20100114

 漫然と読んだ印象ですが、どうやら現代詩の世界でこのところ共通の話題となっているのは、
①現代詩が狭い世界で細々と生きていることへの危機感、世の中から隔絶しているのではないか、60年代の広がりが懐かしい、社会性をどう扱うべきかなど。
②他の短詩型ジャンルである短歌や俳句(川柳)に勢いがあって、現代詩の領域を侵食しつつある状況を嘆く、あるいは参考にする。
③ネットが詩をどう変えていくか、キーボードで書くということでの変化(たとえば字数が多くなる)、読む場合にページを繰るのでなくスクロールするということでの変化、媒体として読者との関係がどうなるか。
④技法的な関心。散文詩と行分け詩との違い、長詩と短詩、作品への言語学的な視点や形而上学的な視点の導入、文字以外の( )などの多用。
⑤何のために詩を書くか。どうして詩でなければならなかったのか。詩を書く主体、私性の問題。
といったところのようです。

 読んでいて感じたのは、現代詩は抒情性を失ったのではないかという素朴な疑問です。詩のおおもとが嘆息、詠嘆であることを忘れているのではないでしょうか。私的な詠嘆が普遍的な人間の詠嘆となり、神の詠嘆となって、奥深いところで繋がっていく、といったイメージがあります。気分をかもし出しその気分に包まれるというのが詩の魅力だと思います。詠嘆であり気分であるからには、ある程度の短さが必要です。


 評論の中で印象深かったものを列挙しておきます。
城戸朱里「詩はどのように存在しているのか」
近藤洋太「死を見つめる眼差し」
田中綾「日本語の底荷として」
四元康祐「天を目指して、言葉の糸を降りてゆく」
水無田気流「『主体の無人地帯』を空撮する」
久谷雉「握手の時間」

 詩作品では、
○杉本徹「アコーディオン・ソング」、長島三芳「時雨の人」、金時鐘「錆びる風景」、辺見庸「善魔論」、松浦寿輝「awake/except」、四元康祐「言語ジャックより」、清水あすか「舌であがれ。」、杉本真維子「わたしの鬣」、藤富保男「拒」、相沢正一郎「庭」、新井豊美「みずうみまで」、高柳誠「光うち震える岸へ」、貞久秀紀「明示と暗示」、広瀬大志「草虫」、城戸朱里「百年前のまぼろし」、杉山平一「水の波紋」、吉田文憲「ここに降りそそぐものを待っていた」、粕谷栄市「九月」

天沢退二郎「鰐神経」、後藤義久「葱丼」、神尾和寿「高原へ行きましょう」、小池昌代「ヘッドライト」、水無田気流「忘レ月」、財部鳥子由布島の道行き」、倉橋健一「おばばの美しい話」、熊谷ユリヤ「声の記憶を辿りながら」、入沢康夫「大叔父の家の思ひ出」、中江俊夫「街道筋」、友部正人「ちょっととなりに」、池井昌樹「町の本屋」、木坂涼「どこへ」、四方田犬彦「舟」

 この三年の年鑑掲載作品の佳作で重複していたのは、3年連続が松浦寿輝と粕谷栄市の作品、2年重複していたのは、入沢康夫日和聡子、中村文昭、杉本徹、杉本真維子、平林敏彦斉藤恵子、吉田文憲、池井昌樹、金時鐘藤富保男広瀬大志新井豊美、倉橋健一、辺見庸、でした。