学生時代に読んでいたと思いますが、古本屋店頭100円で購入したのをきっかけに読んでみました。今から見ると、文章のやや激したトーンが時代を感じさせます。著者の性格もあるには違いないけれど、断言的で挑戦的な口調、ねばならないあるいは反語の多用。気負い、世間の風潮に対する皮肉な姿勢。
同世代でおそらく学友だった篠田浩一郎の『フランス・ロマン主義と人間像』を少し前に読みましたが、その分析的で落ち着いた文章かつ文学史的総覧的なスタイルとはまったく正反対です。篠田も優れていると思いますが出口の方がパワーがあって魅力を感じます。
ランボーやロートレアモンのような文学の外へ出てしまった生き方との対比から始まり、『悪の華』よりも後期の散文詩や『赤裸の心』『火箭』に重きを置いた目配り、すなわち審美的よりは思想的な側面からのアプローチをしており、マラルメ、ヴァレリーへの系譜でなくシュールレアリストへの系譜としての位置づけなど、出口の視点ははっきりしています。
また伝記的には、48年51年の騒乱への参加、ポーからの影響、パルナシアンや芸術有用論者との関係を辿りながら、神の死を宣告したニーチェとの近親性(ボードレールは悪魔のみ残ったと世界を見る)の指摘、サド、メーストルとの比較、晩年の夢の言語化の試みを論じるなど・・・切り口が大変面白い。
バタイユやシオランを援用して自説を強化する場面がところどころに出てくるのが、出口裕弘ならではと感じさせられます。
印象に残ったフレーズを若干ご紹介します。
私たちはまだボードレールの射程内にいる。彼の弾丸を浴びることはむだではないのだ。
ランボーの文学を愛するのなら文学を棄てたランボーを非難するのが筋道ではないか。
書簡集のボードレールが身ぐるみ剥がれた無防備の姿をさらしているとしても、さらしている方が高貴で、意地の悪い眼でじろじろ見る方が低劣なのだということは承知しておかねばならぬ。
1862年1月23日、私はある奇怪な警告を受けた。私は痴呆の翼の風が私の頭上を過ぎてゆくのを感じたのである(ボードレール晩年の手記より)
正と負とを同時に志向するというボードレール的命題の深刻さは、かかって同時にという副詞にある。
人間の構造的な同時分裂は、本当は神とサタンとの両極のあいだに起こっているのではない、人間的なものの一切を制圧したサタンの双面のあいだに起こっているにすぎないという発見が、ボードレールの中で抑えるすべもなくあげた驚愕の叫びである。
悪魔とぐるになっている神とは悪魔の双面のひとつ以外の何ものであるだろう。
悪魔の最大の智慧は、悪魔などは絶対に存在しないと私たちに信じさせる点にある。
円周の中に幽閉されている人間のもろもろの意志は、その円周の動きに引きずられつつ、各瞬間ごとに意志相互の動きを変転させる。そしてこれが自由というものを形成するのである。
顔はむしろ美しく、東洋的な色彩を帯びた日焼けした顔なのだ。体色にはおびただしい薔薇色と緑がある。しゃがみこんでいるのだが、奇妙なねじれた格好をしている。その上、胴のまわり手足のまわりに、なにやら黒ずんだものが幾重にも巻きついているのだ。(ボードレールが53年3月アスリノー宛ての手紙の中で語っている夢の記述)
ポオの言葉は早目にしかもより巧みに発せられた私自身の言葉だ。(ボードレールの言葉)