百万遍秋の古本まつりほか

  先週、京都知恩寺で行われた秋の古本市初日に行ってまいりました。いつものように出町柳から百万遍の途中にある臨川書店の大安売り路上即売会に立ち寄り、下記を購入。

中込純次『文学に現れたパリ』(三笠書房、78年2月、100円)

Anna de Noailles『L’Offrande』(La Différence、91年2月、50円)

Max-Pol Fouchet『Anthologie thématique de la Poésie française』(Seghers、58年、50円)→Bizarre、Fantaisie、Magie、Mer、Nuit、Prière、Rêve、Souvenir、Vinなど54のテーマ別アンソロジー。126人の詩人が登場。バシュラールが裏表紙の宣伝文を書いていた。

 フランス語の本は3冊100円でしたが2冊しか買わなかったので1冊50円となる。 

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 秋の古本まつりは、今回は低調で、萩書房が均一本を出しておらず、キクオ、竹岡、赤尾も白い本が多かったです。探求書は1冊も買えず。キクオ書店の3冊550円で(消費税が上がって外税になってしまった)、

別役実ベケットと「いじめ」―トラマツルギーの現在』(岩波書店、87年7月、183円)

マルティン・ガードナー坪井忠二/小島弘訳『自然界における左と右』(紀伊國屋書店、71年2月、184円)

坂口昻吉『中世キリスト教文化紀行―ヨーロッパ文化の源流をもとめて』(南窓社、95年6月、183円)

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 竹岡書店の3冊550円(だったと思う、ひょっとして500円?)で、

松井好夫『ボードレール―生涯と病理』(煥乎堂、69年2月、183円)

鳥越輝昭『ヴェネツィア詩文繚乱―文学者を魅了した都市』(三和書籍、03年6月、184円)

松浦寿輝『クロニクル』(東京大学出版会、07年4月、183円)

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 indigo bookの2冊550円で、

Gilles Laurendon『Les buveurs d’infini』(belfond、03年6月、275円)

デヴィッド・ボーム佐野正博訳『断片と全体―ホリスティックな世界観への実験的探究』(工作舎、85年3月、275円)

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 小亀屋で、この日最高値の本。

佐岐えりぬ『おしめをした玉鬘―私のパリ回想』(有学書林、93年4月、825円)

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 古本市以外では、飲み会ついでに立ち寄った奈良の柘榴ノ國で、長年の探求書を購入。

宇佐見英治『秋の眼』(湯川書房、昭和49年12月、4950円)→装丁に凝ったきれいな本。限定190部の37番。

小島政二郎『木曜座談』(小峰書房、昭和17年7月、440円)→この本も装丁が気に入って。

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 Amazon古書で、

ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン中村昇/瀬嶋貞徳訳『色彩について』(新書館、02年6月、159円)

 

 オークションでは下記。

関川左木夫『詩集「聖三稜玻璃」解説』(大雅洞版付録、?、520円)

高柳誠『月の裏側に住む』(書肆山田、14年4月、100円)

岩佐壮四郎『抱月のベル・エポック―明治文学者と新世紀ヨーロッパ』(大修館書店、98年5月、891円)

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小林康夫ほか『「光」の解読』

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小林康夫ほか『「光」の解読』(岩波書店 2000年)


 引き続いて光についての本です。「宗教への問い」というシリーズの中の一冊。小林康夫「祈りのコロナ」、小池寿子「闇から光への上昇」、大貫隆「ロゴスの受肉とソフィアの過失」は分かりやすく、感心するところ、教えられるところも多かったですが、堀江聡「自己認識と光」はやや専門的過ぎ、あとは私にはピンと来ませんでした。

 小林康夫の「祈りのコロナ」は、冒頭にふさわしく、宗教、哲学、超越者、信、祈り、光などについて、根源的な意味や関係を探ろうとしています。文章が平明でかつ論理的で、ところどころに鋭い警句的な洞察があり、宗教や言語についての下記の論述が印象的でした。

Ⅰ宗教は表象しえないものを信ずるということが出発点であるが、宗教が社会の中で存続しようとすると、表象不可能なものになんらかの表象を与えてしまうことになる。例えば、世界内に現前しない超越者への信が、媒介者への信に置き換わり、媒介者が絶対化される。それを免れた宗教は皆無と言ってよい。

Ⅱ①言語は、語りえないものについても語るためにある。
②言語のうちには原初的ともいえる信が根づいている。
③言表の真正さは、誰が、どのような状況のもとで語ったのか、あるいは誰が聞くのかということと、無関係に決定しえない。
④世界の真理について、言われるべきことはすべて言われてしまっていると言っていいが、「私が言う」ということでなら、まだ何一つ言われてはいない。

 せっかく感心していたのに、最後の方で、ある住職が体験した驚くべき挿話、死ぬ前日に白衣の幽霊となって現われた女性の話にいたって、その話を自明のこととして語る姿勢にはやや疑問を感じてしまいました。


 小池寿子の「闇から光への上昇」は、ヒエロニムス・ボスの油彩画「祝福された者の天上界への上昇」に描かれた光の源を目指す「光のトンネル」の形象をめぐって、当時のネーデルランド神秘主義の著作や、当時や中世の天体図、また聖書のヤコブの梯子から派生したいろんな階梯思想の影響を指摘しながら、神との神秘的合一による至福の境地を説いた画像と解釈しています。

 恥ずかしながらネーデルランドが当時ブルゴーニュ公国の一部であったこと、ボスの悪魔的な図像の源泉にはゴシック聖堂を飾る怪奇な彫像や中世写本の欄外装飾などの影響があることなどを知ることができました。また、「この栄光の町は、貼られた黄金で遠くまで輝きを放ち、宝石の飾られた高貴な真珠で、町の光は、水晶のように限りなく透明にされ、赤い薔薇、白い百合、また瑞々しい、様々な花に照り映え、はるか彼方にまで及んでいます」(p104)という神秘主義者ハインリッヒ・ゾイゼの天国の描写が、『浄土三部教』に描かれた極楽の描写とよく似ていて面白い。


 大貫隆の論考では、後半のグノーシス主義についての説明に興味がそそられました。グノーシス主義は、キリスト教の起源とほぼ同じ頃に、ユダヤ教の周縁に発生し、その後キリスト教イスラム教とも接触しながら展開した宗教的思想運動の総称で、マニ教や今も現存するマンダ教の根源になっているということ、その思想で主要な役割を演じるのが光と闇を中心とする象徴言語で、「液体としての光」「光の雫」という光の新しいイメージを創出したこと、闇も暗黒の液体と結びつけられていること、光と闇は同時的共時的な存在で、光の優勢を表すための比喩として闇を「陰」あるいは「影」と表現し、光を遮る物体「天の垂れ幕」が覆った下の領域は「混沌」と表現されていること、など。


 そのほか印象に残ったフレーズとしては、

さりながら死ぬのはいつも他人なり(マルセル・デュシャン)/p24

祈る者は、自らの非力から出発して祈る。と同時に祈りそれ自体もまた、徹底して非力であるのでなければならない(小林康夫)/p34

間違いなく高慢によって降り、謙遜によって昇るもの(ベネディクトゥス)/p96

人間はかつて光であったのであり、現にそれを持っている・・・自分の中に眠っているその実体に気づくことが不可欠である(グノーシス文書)/p189

自ら光になろうとしない者は、永遠に神を見ることはない(『シレジウス瞑想詩集』)/p200

緑色の透明なガラスは不透明な紙と同じ色をもつことができるだろうか(ウィトゲンシュタイン『色彩について』)/p216

暗さについての本二冊

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乾正雄『夜は暗くてはいけないか―暗さの文化論』(朝日選書 2004年)
谷崎潤一郎『攝陽隨筆』(中央公論社 1935年)のなかの「陰翳禮讃」のみ


 光の哲学について読んだ後は、現実の空間における暗さについての本です。乾正雄の『夜は暗くてはいけないか』で、「陰翳礼讃」について章を設けて論じていたので、ついでに読んでみました。乾正雄は建築家で、理科系だけあって、論理がしっかりしていて考証が緻密です。一方、谷崎の文章はさすがに名文で、微妙な境地を、眼前に彷彿とさせるように、巧みに描いています。

 『夜は暗くてはいけないか』では、暗さについて、建築家ならではの視点で論じていますが、一方で、文芸、美術、文化全般にも造詣が深く、陰影に富んだ室内画を描いた画家ピーター・ドゥ・ホーホなど、いろいろと教えられることもありました。いろいろ貴重な記述がありましたが、いくつか印象的だったのを下記に。

北ヨーロッパは曇天が多く、光に対する感覚が日本人と違い、接客空間が暗くても気にしない。曇天で育ったヨーロッパ人の眼は色素が少なく光をたくさん取りこめるようになっているからである。

②眼には、中心部にある映像解像力に優れた錐体と呼ばれる部分と、暗い時にわずかな光を捉える杆体という部分があり、明るいときは錐体、暗くなると杆体が働き始める。暗い時にものがぼけて見えるのは錐体が働かず杆体のみだからである。

③暗さが人にものを考えさせるという点で、暗さと宗教には密接な関係があるが、日本の寺とヨーロッパの教会との明暗に対する考え方には違いがある。日本の寺は自然の中にあり立地的にすでに暗いという特徴もあるが、人は本堂の奥には入らず外陣から奥の暗い仏像を注視するだけなので、ヨーロッパの教会に比べて堂内は明るい造りになっている。ヨーロッパの教会では、教会内は暗くして、信徒たちは祭壇越しにステンドグラスから入射する光を仰ぐ形となっている。光が神の隠喩だからである。

人工衛星の画像を見ると、北米の都市がもっとも明るく、次にヨーロッパ、日本の都市の順である。北米、ヨーロッパでは都市をつなぐ道路が光っているだけで他は暗いのに、日本は国土全体が光を放っている。

⑤シャンデリアの形は中世から今日までほとんど変化がない。この間、蝋燭、オイルランプ、ガス灯、白熱電球と、照明技術の発展に沿って、中身が入れ替わっただけである。

⑥昔の人は、夜と昼とで二通りの顔をもっていた。一点の光源からの光で陰影がついた人の顔は、昼とは違う魅力がある。現代では部屋全体が明るいので、人はそんな顔はしなくなった。

⑦夜の闇は世界中で失われつつあるが、とくに日本がひどい。光の行きわたりすぎた環境が、人につねに動き回ることばかり強いて、考える能力を喪失させているのではないか。

⑧オフィスは近代の発明の産物だが、当初石油ランプなどの照明のもとでは、天窓や中庭による採光が必要だった。高層ビルになってからは、窓を総ガラスにしても窓際しか明るくないので、昼も夜も照明が必要になった。それも均一照明から、省エネの観点での部分照明、さらにはパソコン画面に光源が映らないアンビエント照明へと移っていった。現在は建物自体の構造を工夫したり、不均一照明が推奨される。


 「陰翳礼讃」では、薄暗がりの光線のなかで清浄と不浄のあわいが朦朧とぼかされていた日本の昔の厠(p11)、半透明あるいは濁った光が見られる奉書や唐紙の肌、玉、乾隆グラス、羊羹(p20~p32)、陰翳を基調とし闇というものと切っても切れない関係にある日本料理(p34)、弱い光りを受け留めるだけの暗い床の間のぼやけた掛け軸(p41)、部屋の奥で弱々しい金色の光を放つ金屏風(p46)、ラムプの光のもとで余情に富む人形浄瑠璃(p57)などを例示し、美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあり、陰翳の作用を離れて美はない断言し、加えて、もし科学技術が東洋に生まれていたら、現在の文明のあり方はまったく違ったものになっていただろうと、東洋の美意識を讃美しています。

 ごちゃごちゃ書くよりも、谷崎自身の文章を味わってもらうのがいいでしょう。少し分量が多くなりますがご勘弁を。

支那人は又玉という石を愛するが、あの、妙に薄濁りのした、幾百年もの古い空気が一つに凝結したような、奥の奥の方までどろんとした鈍い光りを含む石のかたまりに魅力を感ずるのはわれわれ東洋人だけではないであろうか/p21

乾隆グラスと云うものは、ガラスと云うよりも玉か瑪瑙に近い・・・浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人口の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである/p23

羊羹の色・・・あの色などは矢張り瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みるごときほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない/p32

奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光が届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い々遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぼうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う/p46

屋内の「眼に見える闇」は、何かチラチラとかげろうものがあるような気がして、幻覚を起こし易いので、或る場合には屋外の闇よりも凄味がある。魑魅とか妖怪変化とかの跳躍するのは蓋しこう云う闇であろうが、その中に深い帳を垂れ、屏風や襖を幾重にも囲って住んでいた女というものも、やはりその魑魅の眷属ではなかったか・・・事に依ると、逆に彼女達の体から、その歯を染めた口の中や黒髪の先から、土蜘蛛の吐く蜘蛛のいとの如く吐き出されていたのかも知れない/p73

光に関する哲学書二冊

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山崎正一『幻想と悟り―主体性の哲学の破壊と再建』(朝日出版社 1977年)
H・ブルーメンベルク生松敬三/熊田陽一郎訳『光の形而上学―真理のメタファーとしての光』(朝日出版社 1977年)


 どちらも「エピステーメー叢書」なので本の装丁は同じ(たぶん杉浦康平)、内容も少し似通っています。ともに哲学の分野の本ですが、近代の哲学が抽象的な概念にこだわり過ぎた反省を踏まえ、『幻想と悟り』では、鏡、水、光(ほかに空海道元についての章もある)、『光の形而上学』では、光という根源的原理的な力を持った物質・現象をもとに考究しています。また両者ともギリシア哲学から説き起こす通史的な性格も帯びています。

 同じような発想では、バシュラールのイメージの詩学が思い浮かびますが、バシュラールが文学作品を中心に議論を展開していたのに対して、こちらは哲学思想を素材にしていて、そのせいか両者とも難しくて半分も理解できませんでした。とくに、『幻想と悟り』のほうは、西洋の思想のみならず、仏教思想からの引用が多く、道元の章などはほとんど理解不能でした。


 山崎正一は今春、『神話学の知と現代』という本を読んだ時に、近代の科学的な知を乗り越える神話的な知への期待を語っていたことで印象に残っていました(2019年3月11日記事参照)。この本でも、真理の世界がまずあって次に行動の世界があると考えるのは転倒の錯誤であるとし、価値の問題が主観的心理の感情の問題であるとして学問から追放された結果、意識の狭い世界に入り込んで誕生したのが近代科学であると批判していました。

 「鏡のエピステーメー」の章では、鏡に関するいろんな発想、比喩が出てきたので、おぼろげながら理解できた範囲で列挙してみます。まず鏡の幻影性を中心としては、①水に映る影の不確実さ、②感覚的事物は真実の存在が鏡に映じた映像のごときもの、③人間の心は歪んだ鏡であり事物を歪める、④夢は鏡中の像のごとし、⑤現実の世界も虚妄の世界であり映像に等しい、などが挙げられます。次に、鏡の明晰さについて、①普段は見えないものが鏡では見えるという曇りなき知性をあらわすもの、②心の明澄さを明鏡に喩える、のほか、③一切の事物事象が相互に区別され、対立しながら、しかも相互に含み合い、映し合っている、「一珠のうちに百千珠を映現し、しかも百千珠、ともに一珠の中に現ず」といった比喩がありました。

 「水のエピステーメー」では、水を生命、運動の原理と見て神的なものとしたタレースのように、水を万物の原理とする見方がある一方、地上の人間に不正の償いをさせる恐るべき水でもあるとして古代の洪水神話を挙げています。「人は二度と同じ河に入ること能わず」とヘラクレイトスは、水の流れに喩えて万物流転を説きましたが、東洋でも孔子が「子、川のほとりに在(いま)して曰く、逝くものは斯くの如きか。昼夜をおかず」と同様の感慨を漏らしていることに言及しています。また仏教に「水想観」「宝池観」というものがあるとして、恵心僧都水観をしたとき身体が水となり部屋が水で満たされたという逸話を紹介しています。

 「光のエピステーメー」では、地が暗黒に覆われていたときに、「神、光あれと言いたまいければ、光ありき」という『創世記』の言葉を引用し、当初から「光と闇」が「平和と禍」の意味で二元論的な構図を持っていたのが、プロチノスの時代に一者から流れ出る光として、またアウグスティヌスの時には父、子、聖霊がともに一つの光だとして一元論的になり、ヘーゲルの時代にまた光と闇の弁証法となったこと、東洋では、仏教の華厳経の「大毘盧遮那仏」や密教の「大日如来」がいずれも同じ光明遍照・無量光の御仏として一元的な太陽的な存在であることが指摘されていました。

 そのほかの章で、印象に残ったのは、プラトンなど哲学者が求めたのは独創性ではなく永遠の真理であり、人々が彼らに期待したのも真理だったという(p132)近代の独創性信仰を批判したような文章や、真理というものが閉鎖的な完結性をもつものでなく開かれた不完全な系であるという指摘(p132)、産業革命フランス革命やロマンティークの哲学が学問から敬虔さを奪い人間から調和の理想を奪ったという記述(p200)など。


 『光の形而上学』は、「はしがき」で生松敬三が述べているように、「ギリシア古典古代からヘレニズム期をへてローマ時代へと光のメタファーがいかなる変貌をとげて光のメタフィジークを生み、伝統を異にするキリスト教の中にいかに受容され、そして中世から近代へと流れこんでいったか」をたどった本ですが、このメタファーがメタフィジークに移っていくというところがよく分かりませんでした。途中、コラム的に「プラトンの洞窟」の比喩と「聞くことと見ること」の比喩についての文章が挟まれていました。神秘主義という言葉はあまり出てきませんが、ほとんど神秘主義思想の読解ともいえる内容となっています。また光をめぐるメタファーはそれ自身が美しい詩文のようで心惹かれるものがありました。

 まず、光の特徴や光に関する比喩をいくつか並べますと、暗闇の中で道しるべとなる光、逆に眼をくらませる光、真理は存在そのものにおける光、みずから光り輝きすべてのものに光を授ける善、洞窟の中の光と影、救い・不死性としての光、内的な道徳的明証性としての光、栄光という光、創造者としての神は光、神的意志の放射としての光、啓蒙としての光、などなど。

 ほかに、光をめぐる魅力的なメタファーに満ちた文章をいくつか引用しておきます。

光と闇とは、相互に排除しあいつつ、しかも世界の構造を仕上げるところの絶対的・形而上学的な対抗力を表わすことができる・・・光があらわれたときには暗黒はもはや存在しえない/p24

光と闇とは、火と土と同じく、元素的な始源の原理である/p25

光は、それが可視的ならしめたものにおいてのみ見られる。光が諸事物の可視性とともにはじめて「あらわれ」、したがって光が呼び出したものとは種類を異にするということが、まさしく光の「自然性」をなすわけである/p28

光のもとにあり、光のなかにある暗黒というものが存在する・・・古代悲劇は容赦のない明るい光でこの暗い底層を照らし出す/p30

絶対的な光と絶対的な闇は合致する。ディオニシウス・アレオパギタはこれを徹底して、あらゆる神秘主義に範型となる「神の闇」という定式をつくり出す/p32

人間はみずから光であることはできない・・・人間は光ではなく、たんに光によって点火される燈火たるにすぎない(アウグスティヌス)/p64

暗闇の中で眼を開けていることはなんの役にも立たないが、「光の中にあり」ながら眼を閉じたままでいることもまた役に立たぬ(アウグスティヌス)/p74→前者は善き異教徒、後者は悪しきキリスト者のことだそうです。

四天王寺秋の大古本祭りと天神さんの古本まつりほか

 少し間を置きましたが二つの古本市の報告。最近古本市に行っても、大きな本は買うのをためらわれることが多くなりました。これはわれわれ年寄り古本仲間の共通の傾向です。四天王寺の古本市は、用事があって三日目の日曜日に馳せ参じました。三日目ともなると初日とは違い悠長なもので、10時の開場前にほとんどの店がもう開いていました。とくにこれといったものはなく、薄くて小さな本ばかりを購入。

ピーター・V・マリネリ藤井治彦訳『牧歌』(研究社、昭和48年10月、100円)→100円均一コーナー

浅沼圭司『映ろひと戯れ―定家を読む』(小沢書店、78年5月、200円)→池崎書店の安売り棚

CHARLES BAUDELAIRE『LES FLEURS DU MAL』(Jean-Claude Lattès、87年10月、300円)→文庫本ぐらいの大きさで、手元に置いて読むにはぴったり。これも池崎

川本三郎『大正幻影』(新潮社、90年11月、200円)→ピエト文庫

池内紀カフカのかなたへ』(講談社学術文庫、98年1月、166円)

金岡秀友『日本の神秘思想』(講談社学術文庫、93年8月、167円)

柴田宵曲小出昌洋編『新編 俳諧博物誌』(岩波文庫、99年1月、167円)→以上三冊、小野書店3冊500円

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 天神さんの古本市は、初日に行くことができました。フランス書を大量に出しているはずの寸心堂が今回はドイツ語の本ばかりだったのと、いつも何か掘り出し物がある矢野書店が不作で、期待外れと言ったところです。光国家書店がびっくりするほど安値でいろんな本を出していましたが、ほとんど持っている本で悔しい思いをしました。

イヴォン・アラバール山田直訳『詩の心理学』(書肆ユリイカ、56年10月、500円)→矢野書房

藤武夫『ヨーロッパの劇場』(相模書房、昭和34年2月、100円)→100円均一コーナー

蔵持不三也『ワインの民族誌』(筑摩書房、88年9月、500円)→キトラ文庫

鶴岡善久『詩的磁場を求めて』(JCA出版、78年9月、150円)→W買い。

渡辺守章/山口昌男/蓮實重彦『フランス』(岩波書店、83年5月、150円)→以上2冊光国家書店

フリートマル・アーペル『天への憧れ―ロマン主義、クレー、リルケベンヤミンにおける天使』(法政大学出版局、05年4月、300円)

W・S・マーウィン北沢格訳『吟遊詩人たちの南フランス―サンザシの花が愛を語るとき』(早川書房、04年4月、300円)→以上2冊梁山泊 

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 天神さんの帰りに天神橋筋の天牛書店に立ち寄ったところ、先日読んだ『ミニマ・フィロソフィア』で引用されていた『家族の深淵』と『耄碌寸前』があり、まずまずの収穫。

堀江敏幸『その姿の消し方』(新潮社、17年3月、380円)

森於菟『耄碌寸前』(みすず書房、11年11月、950円)

中井久夫『家族の深淵』(みすず書房、95年12月、880円)

高山宏『テクスト世紀末』(ポーラ文化研究所、92年11月、900円)

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 別の日、会社OB総会が上本町であったので、一色文庫に立ち寄り、下記。

正岡容荷風前後』(好江書房、昭和23年11月、500円)

中野美代子塔里木(タリム)秘教考』(飛鳥新社、12年1月、1000円)

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  ネットでは、「日本の古本屋」で、名古屋の山星書店から下記の珍しい本。

よさのひろし『リラの花』(東雲堂、大正3年、3560円)→フランスの訳詩集。奧付きなし。与謝野寛の詩は大言壮語風で嫌いだが、訳詩はそうでもないと思い。ダンヌンチヨ、レニエ、ヹルアアラン、メテルランク、ノアイユ女史、マアグルなど、知らない詩人もたくさんいる。

 

 アマゾン古書で、

嶋岡晨『隅田川とセーヌ河―フランス詩の受容』(日本図書センター、01年4月、1407円)

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 ヤフーオークションでは、

河盛好蔵訳編『紅毛徒然草』(朝日新聞社、昭和28年12月、290円)→レニエ「どんく」が入っていたので。

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随想風哲学書二冊

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庭田茂吉『ミニマ・フィロソフィア』(萌書房 2002年)
山内得立『ホモ・ヴィアトール―旅する人』(能仁書房 1958年)
                                   
 哲学書らしきもののなかから、あまり哲学用語が出てこない随想風の本を選んでみました。『ミニマ・フィロソフィア』は、タイトルにフィロソフィアとは書かれているものの、「あとがき」に「ミニマ・フィロソフィアとは日常的な知恵のこと」とあるのを見て、また『ホモ・ヴィアトール』は、著者名が強面の哲学者でしたが、造本がとてもお洒落だったのと、芭蕉について書かれているページがあったので、買ったものです。

 予想にたがわず、『ミニマ・フィロソフィア』は哲学者然としたところがなく、全編に正直さが感じられ、私の性分に符合するものでした。とくに「死の匂い」が秀逸。枯れ木や落ち葉のここちよさから書き出し、現代人の日常の中から生のディテールが失われていることに筆を進め、菌臭の鎮静効果を説いたあと、耄碌状態で死ぬことを薦めています。中井久夫からの引用になりますが、次のような文章にしびれました。

「菌臭は死‐分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け容れる準備のようなものがあるからのように思う。自分の帰ってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである」(p42)

神道が、すでに、森の奥の空き地に石を一つ置いたものを拝むところから始まっている。樹脂と腐葉土の匂いの世界を聖としたのである」(p43)

 冒頭の「二つの朝」からして、死がすぐ近くにあり、親しいものとして生と地続きの人々を描いていて、ドキッとさせられましたし、次の「日常の中の哲学」も、「疑いを自分に向けること」(p18)とか、「歴史がまず各個人のものでなければならない」(p22)とか、全共闘時代によく聞いたようなフレーズに意を同じくしました。「人は今ここにいる」では、ノスタルジアという言葉がもとは医学用語であり、初めは故郷からの離別による精神不安の意味で空間的だったのが、カントによって時間的なものと捉えられたということを知り、「経験というハラハラ、ドキドキ」では著者の6歳の娘さんへの思いに感動させられました。

 この本は、萌書房という奈良の出版社から出されています。地元なので応援したいし、続編もあるようなので読んでみたいと思っています。


 『ホモ・ヴィアトール』の造本は、細川叢書によく似ていて、幅広の版型で、手に取ると軽く、表装の紙質が柔らかくて印字がめり込むような感じなのがいい。能仁叢書とあるので他にもあるのかと思い、ネットで調べてみましたが見つかりませんでした。

 この本は、著者の京都大学での公開講演の内容を、ずっと後になって聴講者のメモを頼りに復元したもので、言葉遣いが易しい感じになっています。内容は、知るということには、通常の認識とは違うbekannt(熟知せられた)というあり方があり、それは直接自らがそのものと合一することにより知るということだ、という前置きのあと、昔から人間を、「知る人(homo sapiens)」と「作る人(homo faber)」とに分ける考え方があるが、この外に「旅する人(homo viator)」を加えたいと主張しています。ホモ・ヴィアトールとは、旅を旅する人で、芸術的、宗教的な性格を持つもので、何かを求めて得る結果に喜びを見出すのでなく、求めること自体に喜びを見出す精神であると言い、芭蕉を例に挙げ芭蕉の言葉を引用しながらその精神を説明しています。

 「知る人」、「作る人」、「旅する人」とよく似た分類として、オリンポス競技での「名誉を求める競技者」、「競技を当てこんで儲けようとする商人」、「競技を楽しまんとする観客」があり、三番目の人たちをアリストテレスが「テオリアの人」と呼んで、「名利を離れて純粋に見ることを人生最上の生活とみなした」(p13)ことが紹介されていましたが、この「テオリアの人」が「旅する人」と呼応するように感じました。

 もう一か所、古代から現代にかけてを、人々の情念から辿って次のように書いているところが印象に残りました。「古代に於いて文化を出発せしめ且つ支配したものは『驚き』の念であり、中世の指導的情念は『讃嘆』であったが、デカルトに始まる近代精神は『懐疑』に発し、カントの『批判』を通して現代に於いてそれは遂に『絶望』にまで追いつめられた」(p80)。現在はそれすらも通り越して、私もその中にどっぷりと浸かっている「能天気」の時代と言えるでしょうか。

MONIQUE WATTEAU『LA COLÈRE VÉGÉTALE』(モニク・ワトー『植物の怒り』)

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MONIQUE WATTEAU『LA COLÈRE VÉGÉTALE―La révolte des Dieux Verts(緑の神の反乱)』(marabout 1973年)

 

 marabout叢書の一冊。マルセル・シュネデール『フランス幻想文学史』や「小説幻妖 ベルギー幻想派特集」の森茂太郎評論でも、取り上げられていた女流作家です。この作品とあといくつかを残しただけで筆を折り、画家に専念したということです。どんな絵か見てみたいものです。

 

 文章が平易だったこと、マレーや地中海の島という自然を背景にした出来事であること、主人公の眼で叙述しながら途中で妻の父の手記が紹介されたり妻の日記がしばらく続いたり変化があったことで、面白く読むことができました。樹々が動いたり、みるみる植物が繁茂する場面などは特撮を使わないといけませんが、映画にしてもよさそうなヴィジュアルがあります。

 

 およそのストーリーは次のようなものです。

主人公は、動物を捕獲して動物園に売る仕事をしている男で、マレーの森のなかの寺院で、西洋人の娘と出会う。彼女は布教に来たオランダ人の宣教師の娘で現地で生まれたが、5歳の時に母、父を相次いで亡くし、現地の乳母に育てられた。彼女は樹や植物と話すことができると言う。二人は一目見て恋に落ち、その場で永遠の愛を誓う。そのとき石像の頭が落ちてきて、主人公に当たりそうになる。他にも不思議な現象があり、主人公が寺院に向かう途中は植物が繁茂して道が塞がれていたのに、帰りは道が開けていた。

 

別の島で落ち合う約束をし、別れ際に、彼女から父親の手記を渡される。船のなかで読んでみると、父親は現地の自然に魅惑され布教も忘れてしまったようだ。約束の島に現われた彼女と小さな湖で結ばれる。ヨーロッパに向けて船出する前日、島の儀式に参加した彼女はみんなの前で花を髪に挿して踊る。その最中に遠くで大木が倒れる音がする。彼女は自分が大事にしていた樹が倒れた音だと言う。

 

パリで一緒に生活したものの、南国育ちの妻には合わず、二人で主人公の祖母が遺したレバント海の島にある家に向かう。主人公が先に家に入って家の補修をしている間、妻は外の小屋で待つが、しびれを切らして庭に入ったところ、植物が繁茂し襲いかかってくる妄想に囚われて倒れてしまう。介抱された妻は、家の中に樹々が入り込んで、根を生やし壁の隙間に入り込み、寝室では薔薇の樹が床を突き破って生えているのを見る。家は広く、一室だけ植物が入り込めていないガラスと石の部屋があった。

 

ある日、島のバーで飲んだ後、家に帰ると、一人の大男が家の前で待っていた。変わった建物だから中を見たいと言う。家に招じ入れて話すうちに、男の話術と親しみに魅せられ、招待客として迎えることにする。大男はガラスの部屋を選んだ。お休みの挨拶で、大男がマレー語を喋ったので二人はびっくりする。その後、妻は大男と親しみを増すうちに、大男が何か企んでいると見抜き、聞きだそうとするが、はぐらかされるだけだった。

 

徐々に家の中や家を取り巻く植物の成長が激しさを増してきて、寝室も薔薇の枝が繁茂し、窓は薔薇の花で覆われ、ベッドにいても薔薇の棘で足を傷つけるまでになった。庭では昆虫や小動物たちの死骸が次々に見つかった。そしてある日、子ども同然に可愛がっていたリス猿が行方不明になる。二人はパリへ戻ることを決意する。荷造りをしていると、商人が売りに来た貝の中にリス猿のものと思われる動物の眼玉が二つあった。

 

リス猿を探そうと二人で外に出て入り江まで辿る途中で、大地を揺るがしながら樹々が追いかけてきた。ほうほうの体で逃げ、二人で海の中に飛び込んだ。気がつくと、港近くの岩の上で倒れていた。数日後の夜、妻は自分で作った服を着て見せ音楽に合わせ二人で踊る。翌朝妻は死んでいた。主人公が呆然とするなか大男は怒りに任せて森に火を点けながら去って行く。樹々は黒焦げになった。妻を埋葬しようと穴を掘るが、焦土のなかに緑の芽がはや生えていた。主人公は陸地では妻を植物に奪われると、妻と一緒に海の中に沈むことを決意する。

 

 長くなってしまいましたが、大きな軸は主人公と妻との愛の物語で、彼女を恋している緑の神々が嫉妬して主人公と妻の愛を妨害し、挙句の果てに妻を殺してしまうという流れです。途中宇宙開闢の神の化身と思われる大男が登場して最後に緑の神々と対決するという構図があり、結局人間同士の愛が勝つという結末が導かれています。

 

 醍醐味としては、植物が意思を持ち人間を襲うという恐怖で、昔テレビ映画(「世にも不思議な物語」か?)で、セイタカアワダチソウみたいな草がものすごい勢いで繁茂する恐怖映画を見たことがありますが、それに近いものがありました。また東南アジアの舞台設定や動物たちが出てくるところなど、モーリス・マグル『虎奇縁』を思わせるところがありました。

        

 最後の場面で、海に沈んでいくところは、荒唐無稽としか言いようがありません。足に重い石を括りつけて海面に身を投じてから、3ページにもわたって、海の中の様子が延々と描写され独白が続くのは不自然ですし、そもそもその場面を誰が書いているかということが成り立ちません。幻想物語にも本当らしさというのは必要だと思います。