小林康夫ほか『「光」の解読』

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小林康夫ほか『「光」の解読』(岩波書店 2000年)


 引き続いて光についての本です。「宗教への問い」というシリーズの中の一冊。小林康夫「祈りのコロナ」、小池寿子「闇から光への上昇」、大貫隆「ロゴスの受肉とソフィアの過失」は分かりやすく、感心するところ、教えられるところも多かったですが、堀江聡「自己認識と光」はやや専門的過ぎ、あとは私にはピンと来ませんでした。

 小林康夫の「祈りのコロナ」は、冒頭にふさわしく、宗教、哲学、超越者、信、祈り、光などについて、根源的な意味や関係を探ろうとしています。文章が平明でかつ論理的で、ところどころに鋭い警句的な洞察があり、宗教や言語についての下記の論述が印象的でした。

Ⅰ宗教は表象しえないものを信ずるということが出発点であるが、宗教が社会の中で存続しようとすると、表象不可能なものになんらかの表象を与えてしまうことになる。例えば、世界内に現前しない超越者への信が、媒介者への信に置き換わり、媒介者が絶対化される。それを免れた宗教は皆無と言ってよい。

Ⅱ①言語は、語りえないものについても語るためにある。
②言語のうちには原初的ともいえる信が根づいている。
③言表の真正さは、誰が、どのような状況のもとで語ったのか、あるいは誰が聞くのかということと、無関係に決定しえない。
④世界の真理について、言われるべきことはすべて言われてしまっていると言っていいが、「私が言う」ということでなら、まだ何一つ言われてはいない。

 せっかく感心していたのに、最後の方で、ある住職が体験した驚くべき挿話、死ぬ前日に白衣の幽霊となって現われた女性の話にいたって、その話を自明のこととして語る姿勢にはやや疑問を感じてしまいました。


 小池寿子の「闇から光への上昇」は、ヒエロニムス・ボスの油彩画「祝福された者の天上界への上昇」に描かれた光の源を目指す「光のトンネル」の形象をめぐって、当時のネーデルランド神秘主義の著作や、当時や中世の天体図、また聖書のヤコブの梯子から派生したいろんな階梯思想の影響を指摘しながら、神との神秘的合一による至福の境地を説いた画像と解釈しています。

 恥ずかしながらネーデルランドが当時ブルゴーニュ公国の一部であったこと、ボスの悪魔的な図像の源泉にはゴシック聖堂を飾る怪奇な彫像や中世写本の欄外装飾などの影響があることなどを知ることができました。また、「この栄光の町は、貼られた黄金で遠くまで輝きを放ち、宝石の飾られた高貴な真珠で、町の光は、水晶のように限りなく透明にされ、赤い薔薇、白い百合、また瑞々しい、様々な花に照り映え、はるか彼方にまで及んでいます」(p104)という神秘主義者ハインリッヒ・ゾイゼの天国の描写が、『浄土三部教』に描かれた極楽の描写とよく似ていて面白い。


 大貫隆の論考では、後半のグノーシス主義についての説明に興味がそそられました。グノーシス主義は、キリスト教の起源とほぼ同じ頃に、ユダヤ教の周縁に発生し、その後キリスト教イスラム教とも接触しながら展開した宗教的思想運動の総称で、マニ教や今も現存するマンダ教の根源になっているということ、その思想で主要な役割を演じるのが光と闇を中心とする象徴言語で、「液体としての光」「光の雫」という光の新しいイメージを創出したこと、闇も暗黒の液体と結びつけられていること、光と闇は同時的共時的な存在で、光の優勢を表すための比喩として闇を「陰」あるいは「影」と表現し、光を遮る物体「天の垂れ幕」が覆った下の領域は「混沌」と表現されていること、など。


 そのほか印象に残ったフレーズとしては、

さりながら死ぬのはいつも他人なり(マルセル・デュシャン)/p24

祈る者は、自らの非力から出発して祈る。と同時に祈りそれ自体もまた、徹底して非力であるのでなければならない(小林康夫)/p34

間違いなく高慢によって降り、謙遜によって昇るもの(ベネディクトゥス)/p96

人間はかつて光であったのであり、現にそれを持っている・・・自分の中に眠っているその実体に気づくことが不可欠である(グノーシス文書)/p189

自ら光になろうとしない者は、永遠に神を見ることはない(『シレジウス瞑想詩集』)/p200

緑色の透明なガラスは不透明な紙と同じ色をもつことができるだろうか(ウィトゲンシュタイン『色彩について』)/p216