MONIQUE WATTEAU『LA COLÈRE VÉGÉTALE』(モニク・ワトー『植物の怒り』)

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MONIQUE WATTEAU『LA COLÈRE VÉGÉTALE―La révolte des Dieux Verts(緑の神の反乱)』(marabout 1973年)

 

 marabout叢書の一冊。マルセル・シュネデール『フランス幻想文学史』や「小説幻妖 ベルギー幻想派特集」の森茂太郎評論でも、取り上げられていた女流作家です。この作品とあといくつかを残しただけで筆を折り、画家に専念したということです。どんな絵か見てみたいものです。

 

 文章が平易だったこと、マレーや地中海の島という自然を背景にした出来事であること、主人公の眼で叙述しながら途中で妻の父の手記が紹介されたり妻の日記がしばらく続いたり変化があったことで、面白く読むことができました。樹々が動いたり、みるみる植物が繁茂する場面などは特撮を使わないといけませんが、映画にしてもよさそうなヴィジュアルがあります。

 

 およそのストーリーは次のようなものです。

主人公は、動物を捕獲して動物園に売る仕事をしている男で、マレーの森のなかの寺院で、西洋人の娘と出会う。彼女は布教に来たオランダ人の宣教師の娘で現地で生まれたが、5歳の時に母、父を相次いで亡くし、現地の乳母に育てられた。彼女は樹や植物と話すことができると言う。二人は一目見て恋に落ち、その場で永遠の愛を誓う。そのとき石像の頭が落ちてきて、主人公に当たりそうになる。他にも不思議な現象があり、主人公が寺院に向かう途中は植物が繁茂して道が塞がれていたのに、帰りは道が開けていた。

 

別の島で落ち合う約束をし、別れ際に、彼女から父親の手記を渡される。船のなかで読んでみると、父親は現地の自然に魅惑され布教も忘れてしまったようだ。約束の島に現われた彼女と小さな湖で結ばれる。ヨーロッパに向けて船出する前日、島の儀式に参加した彼女はみんなの前で花を髪に挿して踊る。その最中に遠くで大木が倒れる音がする。彼女は自分が大事にしていた樹が倒れた音だと言う。

 

パリで一緒に生活したものの、南国育ちの妻には合わず、二人で主人公の祖母が遺したレバント海の島にある家に向かう。主人公が先に家に入って家の補修をしている間、妻は外の小屋で待つが、しびれを切らして庭に入ったところ、植物が繁茂し襲いかかってくる妄想に囚われて倒れてしまう。介抱された妻は、家の中に樹々が入り込んで、根を生やし壁の隙間に入り込み、寝室では薔薇の樹が床を突き破って生えているのを見る。家は広く、一室だけ植物が入り込めていないガラスと石の部屋があった。

 

ある日、島のバーで飲んだ後、家に帰ると、一人の大男が家の前で待っていた。変わった建物だから中を見たいと言う。家に招じ入れて話すうちに、男の話術と親しみに魅せられ、招待客として迎えることにする。大男はガラスの部屋を選んだ。お休みの挨拶で、大男がマレー語を喋ったので二人はびっくりする。その後、妻は大男と親しみを増すうちに、大男が何か企んでいると見抜き、聞きだそうとするが、はぐらかされるだけだった。

 

徐々に家の中や家を取り巻く植物の成長が激しさを増してきて、寝室も薔薇の枝が繁茂し、窓は薔薇の花で覆われ、ベッドにいても薔薇の棘で足を傷つけるまでになった。庭では昆虫や小動物たちの死骸が次々に見つかった。そしてある日、子ども同然に可愛がっていたリス猿が行方不明になる。二人はパリへ戻ることを決意する。荷造りをしていると、商人が売りに来た貝の中にリス猿のものと思われる動物の眼玉が二つあった。

 

リス猿を探そうと二人で外に出て入り江まで辿る途中で、大地を揺るがしながら樹々が追いかけてきた。ほうほうの体で逃げ、二人で海の中に飛び込んだ。気がつくと、港近くの岩の上で倒れていた。数日後の夜、妻は自分で作った服を着て見せ音楽に合わせ二人で踊る。翌朝妻は死んでいた。主人公が呆然とするなか大男は怒りに任せて森に火を点けながら去って行く。樹々は黒焦げになった。妻を埋葬しようと穴を掘るが、焦土のなかに緑の芽がはや生えていた。主人公は陸地では妻を植物に奪われると、妻と一緒に海の中に沈むことを決意する。

 

 長くなってしまいましたが、大きな軸は主人公と妻との愛の物語で、彼女を恋している緑の神々が嫉妬して主人公と妻の愛を妨害し、挙句の果てに妻を殺してしまうという流れです。途中宇宙開闢の神の化身と思われる大男が登場して最後に緑の神々と対決するという構図があり、結局人間同士の愛が勝つという結末が導かれています。

 

 醍醐味としては、植物が意思を持ち人間を襲うという恐怖で、昔テレビ映画(「世にも不思議な物語」か?)で、セイタカアワダチソウみたいな草がものすごい勢いで繁茂する恐怖映画を見たことがありますが、それに近いものがありました。また東南アジアの舞台設定や動物たちが出てくるところなど、モーリス・マグル『虎奇縁』を思わせるところがありました。

        

 最後の場面で、海に沈んでいくところは、荒唐無稽としか言いようがありません。足に重い石を括りつけて海面に身を投じてから、3ページにもわたって、海の中の様子が延々と描写され独白が続くのは不自然ですし、そもそもその場面を誰が書いているかということが成り立ちません。幻想物語にも本当らしさというのは必要だと思います。

ベルリンの古本屋ほか

 前回古本報告からずいぶん間が開いてしまいました。この間ドイツへ旅行しましたが、昨年パリでの作戦に味を占めて、ベルリンで家内らをアルカーデンという大型ショッピングセンターに残して、地下鉄を乗り継いで古本屋に一軒行ってきました。事前にネットで調べていた「Kleistpark」駅近くの「Bücherhalle」というお店です。写真も載せておきます。ネットに各国語の本もあると書いていたとおり、フランス語の本が一棚分ぐらいありました。しかしなかなか探求書は見つからず、ファントマ・シリーズを2冊購入。

MARCEL ALLAIN『LE MORT VIVANT』(COLLECTION REX、?、5€)

PIERRE SOUVESTRE et MARCEL ALLAIN『FANTÔMAS―LE FIACRE DE NUIT』(COLLECTION REX、?、5€)

ドイツ語はからきし分からないので、フランス書の棚以外は見向きもしませんでしたが、今から思うとドイツロマン派画家の画集でも買うのだったと悔やまれます。 

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 古本市では、大阪で飲み会の日に当たっていたので、久しぶりに、ツイン21の古本市に寄ってみました。

石原吉郎『北鎌倉』(花神社、78年3月、1000円)→歌集。古書キリコの出品。

ポール・ヴァレリー生田耕作訳『書物雑感』(奢灞都館、90年8月、500円)→斜陽館

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 店舗買いでは、大阪の蔦屋書店へ鹿島茂原武史の対談を聞きに行く途中、天神橋筋商店街の天牛書店に立ち寄り、下記2冊。

PIERRE LOUŸS『LES CHANSONS DE BILITIS』(ARTHÈME FAYARD、34年1月、1500円)→JEAN LÉBÉDEFFという人の木版画が各ページについている。

北原尚彦『古本買いまくり漫遊記』(本の雑誌社、09年4月、980円)→久しぶりにW買い、しかも7年前に読んでいた。

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 オークションでは、

前田鐵之助詩集『蘆荻集』(詩洋社、昭和2年9月、300円)

赤瀬雅子/志保田務『永井荷風の読書遍歴―書誌学的研究』(荒竹出版、平成2年2月、220円)→以前立ち読みで荷風がレニエの作品をたくさん読んでいるのに驚いたが、もう一度詳しく見てみようと。

瀬谷幸男/狩野晃一訳『中世イタリア民間説話集―IL NOVELLINO』(論創社、16年9月、1240円)

『日本の木口木版画―明治から今日まで』(板橋区立美術館、93年12月、620円)→気谷誠が寄稿している

島本融歌集『アルカディアの墓碑』(丸善出版サービスセンター、平成15年9月、324円)→美学者の観念的短歌?

ジャック・レダ水谷清訳『静けさの帰還』(舷燈社、07年2月、1069円)

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 アマゾン古書で、

高階秀爾バロックの光と闇』(講談社学術文庫、17年11月、735円)

原章二『人は草である』

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原章二『人は草である―「類似」と「ずれ」をめぐる考察』(彩流社 2013年)

 

 ローデンバックの『死都ブリュージュ』についての章があったので購入した本。著者はジャンケレヴィッチに学んだ哲学者です。全編、オリジナルとコピー、類似と差異に関連した文章が集められていました。過去の思想、小説、映画などを引用しながら、自説を展開していますが、『死都ブリュージュ』以外は読んだり見たりしたことがないものばかりで、分かりにくい部分も多々ありました。

 

 冒頭、デカルト、ルソー、フランクリンを引用比較しながら論じている部分は明快でした。オリジナルな思考を尊重し、コピーであってもオリジナル的な理解があればよしとしたデカルト、社会に毒されず誠実に考えることがオリジナルでありコピーは排斥されなければならないとしたルソー、その二人に対し、オリジナルなんかどうでもよい、ただ良いものであればどんどん真似してほしいと、コピーを擁護したフランクリンを対峙させています。

 

 デカルトは、まっすぐに真に向かって、曖昧で混乱したものを嫌い分割と直線に固執したと、著者は言いますが、都市のあり方に対しても、直線的ですっきりしたものを好んだようです。ルソーはまた他人の物真似に溢れた社会を嫌悪し、未開人の立場で独自なものを追求したと言います。これに対しフランクリンは、真なるものにこだわらず、見栄えさえよければ、優れたコピーの方が下手なオリジナルよりましと考えていたようです。この対立を大きく捉えると、頭でっかちと現実主義者、あるいは学者対商人の構図が隠れているような気がします。少し単純すぎますが。

 

 ほかにも、この本に触発されていくつか考えました。

①疑わしきもの・曖昧なものを排除し、真において二重性やずれを克服しようというデカルト的な考えは、社会の秩序と関係しているのではと思う。著者が、「真や善が一つであるのに対して、美は一つではない」(p157)と書いているように、真や善は社会の秩序に必要なので多様であると困るが、美はそうではないということだろう。近代は真・善をそれぞれ一本化することにより、強固な秩序を形成することができ、大きく発展したのではないだろうか。

②この本を分かりにくくしている理由のひとつは、「類似」とか「似ている」ということを抽象的に語っているせいではないか。「似ている」というのには、顔が似ている(輪郭・部品)、音楽が似ている(メロディ・和音・リズム)、服が似ている(色・形)など、多様なケースがある。「似ている」という言葉の背後には、「〇〇が似ている」の「〇〇」が隠れているわけだ。また、〇〇以外の部分は異なる「部分似」という形態もあれば、全体が似ている「そっくり」、完璧に同じ「同一」など、いろんな様相がある。

③考える人がよく陥りがちなことだが、著者は「類似」という言葉にこだわり過ぎ、逆に囚われているのではないか。「類似」一元主義に陥っているといってもよいかと思う。これは著者が目指しているリゾーム的発想とは真逆の思考のような気がする。

④私なりに、オリジナルとコピーについて考えてみた。もしオリジナルにこだわるのであれば、創造的な発露があればそれがオリジナルだと思う。無から何かを創造するというようなオリジナルはこの世の中ではあり得ないこと、すべて過去の何らかの体験や言説の影響を受けているし、そもそも言葉を覚えるということ自体がコピーだから。創造的な発露のないコピーとしては、自己の関与なく、そのまま右から左へ複製を作るようなもの、例えば近代の工業生産があるだろう。ただ生産時には単なるコピーであっても、受容する側には創造的な発露としてのオリジナルが生まれることは十分あり得る。

 

 『死都ブリュージュ』について書かれた章は、この小説のテーマと著者の関心が一致して、見事な評論になっています。最愛の妻を亡くし、ブリュージュの町へ悲しみを癒しにきた主人公が、そこで亡き妻と瓜二つの女性を見かけ、恋に落ちる話であり、遠くから慕っているうちはよかったのに、接近するにつれてわずかな差異が妻を冒涜する印象となり、やがて破局へと至るというストーリーで、まさしく類似と差異が起こす悲劇と言えます。ただ著者が言うもう一つの類似、亡き妻を哀惜し憂鬱に閉じこもる主人公と灰色で死んだような運河の町ブリュージュの間の関係は、類似と言うよりは共鳴とか融合と言うべきものでしょう。

 

 最後に、蛇足ですが、訳文を引用する際に、訳者の名前を書いておきながら、一部変えたところもあると付記しているのは、著作権(肖像権)の侵害ではないでしょうか。まさにこれは著者が問題としているオリジナルの問題なんですが、足元が暗かったようです。それとも敢えて意識してそうしたのか。 

辻昌子『「ジャーナリスト作家」ジャン・ロラン論』

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辻昌子『「ジャーナリスト作家」ジャン・ロラン論―世紀末的審美観の限界と「噂話の詩学」』(大阪公立大学共同出版会 2013年)

 

 何年か前にジョルジュ・ノルマンディ、先日はオクターヴ・ユザンヌと、本国のジャン・ロランに関する本を読んだ流れで、手元にあった日本人が書いたジャン・ロラン論も読んでみました。ロラン作品や先行研究、さらには関連する書物をよく読みこなし、緻密な論理で組み立てられていて感心しましたが、読み終わって世代の差を感じずにはおれませんでした。

 

 われわれの学生時代は、それまでの純文学的な作品や重いテーマを持った作品、小林秀雄のような正統的な文学評論がまだ主流ななか、異端と言われた文学や幻想怪奇小説、評論では澁澤龍彦種村季弘などが少しずつ刊行され、それをわれわれは新刊が出るごとにむさぼるように読んでいました。当時翻訳の出ていなかったM・Prazの『THE ROMANTIC AGONY』 (英語版)を教典のように崇めて読書会を開こうとしたりしました。

 

 著者の場合は、すでに幻想小説、異端評論の全盛時代に生まれ育ったせいか、逆に頽廃とか浪漫に浸るのを忌避する毅然とした姿勢があり、社会的な目線を持ち、構造主義的な手法を用いて作品を分析しているという印象を受けました。ロランの初期作品に重要な位置を占める詩にはまったく触れていないということもそのひとつです。ロランの詩的美的な評価が日本に紹介される前に、こうした評論が出版されたことは、日本の読者にとっていいことかどうか分かりません。

 

 先行研究や関連書をよく読んでいるのに驚きましたが、研究を専門にしている場合、自分の意見を素直に書くと先行研究と重なってしまうことになりかねないので、たえず先行研究に目を通さないといけない大変さがあることに気づかされました。私のように能天気に感想を書いているわけにはいかないわけです。

 

 これまでロラン作品を漫然と読んできましたが、いろんな研究を教えていただいたおかげで、ロランの物語の語りの構造や閉じられた館の意味など、作品理解をより深めることができました。小説の虚構性と謎の象徴性を重視した作家ということがよく分かりました。

 

 以下、先行研究も含め、本書の印象的な部分を少しアレンジして書いておきます。

①ロランの小説は、新聞の連載によるものが多く、必然的に細切れの短い作品にならざるをえないので、出版するにあたって、バラバラに発表された断片的な作品をひとつのかたちに繋ぎあわせているという特徴がある。

 ②ロランの一方の代表作『象牙と陶酔のお姫様』の特徴は、デ・ゼッサントに代表される私的空間に閉じこもる人物の楽園喪失物語という世紀末文学のパターンが、伝統的なおとぎ話の枠組みの中で語られているということである。

 ③19世紀の親密な個人的空間に対する関心の高まりは、近代的な大都市文化の成熟と並行して現れた。公共の場に対する個人の隠れ家としての室内をいかに書くかという問題は、芸術愛好家にとって自身の内面性を表現することでもあった。

 ④世紀末文学のなかで私的な室内に閉じこもる傾向と、謎を解決する探偵小説というジャンルが同時代に流行し始めたこととは密接なつながりがある。

 ⑤室内空間と謎との関係で言えば、閉鎖空間を外から見た場合、そこには他者の謎というものが存在し、それをあれこれ推測するところに物語が生まれる。ロランはそれをゴシップ記者としての手法で、謎を解くというより、謎を噂話として語り続けることで、巧みに話を誘導している。

 ⑥ロランはその謎を深めるために、いろいろな仕掛けを張り巡らし、何らかの障害物を設けて、謎をより魅惑的なものにしたり、ひとつの真相を次々と塗り替えて新しい真相を提示していったりする。それは謎が結局は空虚であり、それを明かすことはタブーなので、登場人物たちは噂話で謎の周辺を巡り続けることになる。

 ⑦再び探偵小説との関連で言えば、ドイルのホームズシリーズが、終盤になるにつれ謎の追求を止め、グロテスクな傾向の勝った解決のないものが急増していくというのも、同じ枠組みで考えられる。

 

 この謎を解決しようとせず、保留し続けるという態度は、まさにこの時代の象徴主義的な手法ではないでしょうか。

OCTAVE UZANNE『JEAN LORRAIN』(オクターヴ・ユザンヌ『ジャン・ロラン』)

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 OCTAVE UZANNE『JEAN LORRAIN―L’ARTISTE-L’AMI SOUVENIRS INTIMES LETTRES INÉDITES(ジャン・ロラン―芸術家でありまた友人 その思い出と手紙)』(Édouard 1913年、Facsimile Publisher 2016年)

 

 1913年の初版のリプリント版。字がぼやけて読みにくい。フランス語の評論の文章は難しいので、日頃避けるようにしていますが、やはり読み慣れない難しい単語が頻出して、65ページの小冊子なのに遅々として進みませんでした。いい加減に読み飛ばしたところも多くあります。あまりほかの評論を読んでいないのに偉そうなことは言えませんが、文章は、やや美文調で畳みかける調子があるように思います。

 

 オクターヴ・ユザンヌは日本でも書物に関する翻訳があるし、ジョルジュ・ノルマンディのロラン評伝にも登場していたので、名前は知っていましたが、読んだことはありませんでした。ロランの大親友であり、ロランを案内してアムステルダムへ旅したことがきっかけで生まれたのがロランの「Monsieur de Bougrelon(ブーグルロン氏)」ということです。

 

 ロランの死後フェカンに作られた記念碑の除幕式の場面から説き起こし、ロランが上流社会の偽善を告発し対立していたこと、ジャーナリズムからは死後急速に疎んじられ一部の愛好家・友人にしか顧みられなくなったこと、新人の作品を評価し世に送り出したこと、言語感覚に秀でた生まれつきの文学者であり、美を愛し、美術など芸術的な感性にも優れていたこと、そして晩年旅の魅惑を発見したあとの陽光溢れるニースでの幸せなひとときを描いています。最後はまたパリに引き戻されそこで生涯を終えることになりますが。

 

 ユザンヌは、ロランを間近で見た親友の一人として、世間での評価と異なるロランの正直さや善意を繰り返し何度も褒めたたえているのが印象的でした。ロランの文筆家としての才能を高く評価し、作品と頽廃的生活とを峻別しようとしていることがうかがえます。

 

 いくつか印象的だったことを書いておきます。

①ロランが世に送り出した新人の筆頭にレニエの名前がありましたが、地中海やヴェニスへの愛着、18世紀のイタリア趣味、詩文の美しさなどを考えれば、レニエはロランの後継者の筆頭にあるように思います。

②ロランはほんとうは内面の声に忠実な一種の道徳家であった。作家としての実直さから悪徳を描いたということ。それはまた悪徳こそが善行よりも殉教にふさわしいと感じたからだという指摘。

③パーティにピンクのタイツ姿で現れたり、過激な発言で挑発したりしたのは、ロランが次の世紀が宣伝の時代になることを本能的に見抜いていたからだという指摘。

④ロランは自分を卑下して高笑いをしたり、辛辣な小話のあと猥雑な笑いを浮かべたが、親友には、「笑わずには人生を見ることができないんだ。でも笑っているときは深く苦しんでいるんだ。それが私の泣き方だ」と言っていたこと。

 

 もし時間と体力があれば、ロランの生まれたノルマンディ地方を訪れ、生まれ故郷フェカンにあるという記念碑を見てみたいし、最後の5年間を暮らしたというニースのカッシーニ広場の瀟洒な館を見てみたいし、「詩人の名をニースの人や訪れた人たちの記憶にとどめ、独創的な作品と人間性を忘れないようにしたい」という巻末の文章どおり、ユザンヌらの請願でできたジャン・ロラン通りにも足を運んでみたいと夢見ています。

A・デュマ『王妃マルゴ』

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A・デュマ榊原晃三訳『王妃マルゴ 上・下』(河出文庫 1994年)

                                   

 奈良日仏協会のシネ・クラブで、シェロー監督『王妃マルゴ』を鑑賞するというので、ドイツ旅行の行き帰りの機中で原作を読んでみました。これまでデュマ作品は、フランス語で『Mille et un fantômes(1001幽霊譚)』、『Histoire d’un Mort racontée par lui-même(死者自らが語る話)』、『Les frères corses(コルシカの兄弟)』、『La main droite du sire de Giac et autres nouvelles(ジアック侯の右手ほか短編集』、翻訳では『赤い館の騎士』、『鉄仮面』などを読みましたが、本作もいかにもデュマらしい作品でした。

 

 物語の設定は次のようなものです。カトリックプロテスタントの間で抗争が続いていた16世紀のフランス王宮が舞台で、カトリックの国王シャルル9世の母親のカトリーヌ・ド・メディシスは、国王の妹マルゴとプロテスタントのナヴァール国王アンリとを政略結婚させる。ところが結婚式の日に、カトリック側がプロテスタントの招待客たちを皆殺しにするという事件が起こった(聖バルテレミーの虐殺)。占いではアンリが国を継ぐと出たので、カトリーヌはアンリでなくシャルルの弟のアンジュー公に王位を継がせようとし様々な陰謀を画策、シャルルの兄弟それぞれもいろんな思惑を持ちながら行動する。そこにプロテスタントカトリックの闘士たちが入り混じり、マルゴはじめ宮廷の女性たちとの恋愛を描きながら物語は展開する。

 

 デュマらしいというのは、ひとつは読者へのサービス精神から、面白くするために話を盛るということで、冒頭カトリックの闘士とプロテスタントの闘士が相部屋になってその後友情で結ばれるようになったり、カトリック宮廷の王妃の部屋のなかにプロテスタントの闘士が自由に出入りできたりと、荒唐無稽な話がたくさん出てきます。もうひとつは残酷趣味で、ほかの小説ではギロチンが活躍しますが、本作でも最後に首が切り落とされるなど血みどろの場面が数多くありました。さらに言えば、デュマの語りの面白さで、物事をストレートに言わない気の利いたしゃれたセリフ回しやユーモアに満ちた口調が本作でも魅力を発揮していました。

 

 映画を見終わっての感想は、原作と映画はほとんど別物ということです。シネ・クラブ解説者のピエール・シルヴェストリさんが指摘していたとおり、映画では、フェルメールなど16,17世紀のオランダ絵画と見まがうばかりの色彩感、ジェリコーの「メデューズ号の筏」のような裸体表現など視覚的な美しさに溢れ、またヨーロッパ民族音楽風の異国情緒溢れる音楽が印象的でした。シェローは映画と演劇の垣根を取り払おうとしたと言いますが、どう見ても演劇とは異なった映画ならではの作品だと思いました。大勢の群衆のいるシーンをカメラをパンさせて撮ったり、俳優の顔をクローズアップさせ克明な表情を描写するなど、映画の特性が存分に発揮されていました。

 

 原作と映画と異なる点は下記のようなところです。

①原作では、冒頭、宿屋でプロテスタントのモル伯爵とカトリックのココナス伯爵が同宿し賭けに興じる場面から、終盤の二人で処刑される場面まで、二人の友情が小説の大きな軸になっているが、映画ではそれがあまり感じられなかった。小説では、二人は剣の達人で英雄的な描かれ方をしているのが特徴で、また二人の関係がユーモアに満ちた筆致で描かれていたのに、映画ではそうした場面がなく残念だった。

②原作では、プロテスタントの司令官ド・ムーイ・ド・サンファルなど映画には出てこない登場人物もいて、カトリックプロテスタントの駆け引きがもっと複雑。映画では、カトリックプロテスタントの抗争を描くよりは、どちらかというとフランス王家の家族内部の相克を描くのに焦点を当てていた。またシャルル9世が馬鹿殿のような描かれ方をしているのに違和感があった。

③映画では、マルゴが夜仮面をつけて男を漁ったり、ソーヴ男爵夫人が口紅に塗られた毒で毒殺されたりする場面があったが、小説にはなく(と思う)、逆に小説にあったモル伯爵とココナス伯爵が大怪我から二人一緒に回復していく様子や、二人が捕まってからの脱走の画策やマルゴとの最後の接見は映画では描かれていなかった。これがあって初めて最後の処刑の場面が引き立ってくるのだが。

 

 映画と小説の違いは、小説の方が登場人物の多さ、せりふの多さ、ストーリーの複雑さなど、いろんな要素を盛り込めるのに対し、映画では作品の時間的な制約があり、かつビジュアルにする手間がかかるということでしょうか。

マイヤー=フェルスター『アルト=ハイデルベルク』

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マイヤー=フェルスター丸山匠訳『アルト=ハイデルベルク』(岩波文庫 1980年)

 

 実は1週間ほどドイツへ旅行に行っておりました。ハイデルベルクも行程に入れたので、出発前にこの本を読んでみました。学生のころ文庫本でよく見かけましたが、あれは角川文庫だったでしょうか。きれいなカバーがかかっていたような記憶もあります。てっきり小説だと思い込んでおりましたが、今回初めて読んでみて、これが劇作品だということを知りました。日本でも大正時代に松井須磨子主演で初演されて以降、ひと頃定番となっていた演目ということも知りました。

 

 絵にかいたような感傷的な青春物語で、解説で引用されている東山魁夷の言葉「『アルト=ハイデルベルク』が見せかけだけの青春劇であるとしても、私はそれを観て涙を流さずにはいられないだろう」のとおり、分かっていても巻末では涙を禁じえませんでした。

 

 読んでいて、お伽噺的な感じがするのは、まるで別世界の二人の恋であり、異類婚の要素があるからでしょうか。あるいは成就しなかったシンデレラ物語とも言えましょう。また、ネッカー河と古城という背景や、学生団たちが繰り広げる無礼講がゴブリンたちの跋扈を感じさせるからでしょうか。皇室と平民との恋では、男性が平民で女性が王女という逆パターンですが、「ローマの休日」というのがありました。

 

 ここで、讃美されているのは、結婚とは別の恋の形で、青春のひとときの思い出です。先日読んだジャン・ロランの『ムーア風別荘』で、リヴィティノフ夫人が言った「私はこのひとときのことは一生忘れないわ。青春の思い出よ」という言葉を思い出しました。

        

 解説で、幕構成や人物配置に見られるコントラストを際立たせる手法を指摘していましたが、まさにそのとおりで、暗く窮屈な宮廷の儀礼的生活と、明るい風光のなかでの自由奔放な酒乱の生活が対比されています。後者を憧れるのは私だけではないと思います。

 

 ついでに、本作品にも壊れた城として出てくるハイデルベルクの古城と、城から見たネッカー河とハイデルベルクの町の写真をアップしておきます。

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