OCTAVE UZANNE『JEAN LORRAIN』(オクターヴ・ユザンヌ『ジャン・ロラン』)

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 OCTAVE UZANNE『JEAN LORRAIN―L’ARTISTE-L’AMI SOUVENIRS INTIMES LETTRES INÉDITES(ジャン・ロラン―芸術家でありまた友人 その思い出と手紙)』(Édouard 1913年、Facsimile Publisher 2016年)

 

 1913年の初版のリプリント版。字がぼやけて読みにくい。フランス語の評論の文章は難しいので、日頃避けるようにしていますが、やはり読み慣れない難しい単語が頻出して、65ページの小冊子なのに遅々として進みませんでした。いい加減に読み飛ばしたところも多くあります。あまりほかの評論を読んでいないのに偉そうなことは言えませんが、文章は、やや美文調で畳みかける調子があるように思います。

 

 オクターヴ・ユザンヌは日本でも書物に関する翻訳があるし、ジョルジュ・ノルマンディのロラン評伝にも登場していたので、名前は知っていましたが、読んだことはありませんでした。ロランの大親友であり、ロランを案内してアムステルダムへ旅したことがきっかけで生まれたのがロランの「Monsieur de Bougrelon(ブーグルロン氏)」ということです。

 

 ロランの死後フェカンに作られた記念碑の除幕式の場面から説き起こし、ロランが上流社会の偽善を告発し対立していたこと、ジャーナリズムからは死後急速に疎んじられ一部の愛好家・友人にしか顧みられなくなったこと、新人の作品を評価し世に送り出したこと、言語感覚に秀でた生まれつきの文学者であり、美を愛し、美術など芸術的な感性にも優れていたこと、そして晩年旅の魅惑を発見したあとの陽光溢れるニースでの幸せなひとときを描いています。最後はまたパリに引き戻されそこで生涯を終えることになりますが。

 

 ユザンヌは、ロランを間近で見た親友の一人として、世間での評価と異なるロランの正直さや善意を繰り返し何度も褒めたたえているのが印象的でした。ロランの文筆家としての才能を高く評価し、作品と頽廃的生活とを峻別しようとしていることがうかがえます。

 

 いくつか印象的だったことを書いておきます。

①ロランが世に送り出した新人の筆頭にレニエの名前がありましたが、地中海やヴェニスへの愛着、18世紀のイタリア趣味、詩文の美しさなどを考えれば、レニエはロランの後継者の筆頭にあるように思います。

②ロランはほんとうは内面の声に忠実な一種の道徳家であった。作家としての実直さから悪徳を描いたということ。それはまた悪徳こそが善行よりも殉教にふさわしいと感じたからだという指摘。

③パーティにピンクのタイツ姿で現れたり、過激な発言で挑発したりしたのは、ロランが次の世紀が宣伝の時代になることを本能的に見抜いていたからだという指摘。

④ロランは自分を卑下して高笑いをしたり、辛辣な小話のあと猥雑な笑いを浮かべたが、親友には、「笑わずには人生を見ることができないんだ。でも笑っているときは深く苦しんでいるんだ。それが私の泣き方だ」と言っていたこと。

 

 もし時間と体力があれば、ロランの生まれたノルマンディ地方を訪れ、生まれ故郷フェカンにあるという記念碑を見てみたいし、最後の5年間を暮らしたというニースのカッシーニ広場の瀟洒な館を見てみたいし、「詩人の名をニースの人や訪れた人たちの記憶にとどめ、独創的な作品と人間性を忘れないようにしたい」という巻末の文章どおり、ユザンヌらの請願でできたジャン・ロラン通りにも足を運んでみたいと夢見ています。