ALEXANDRE DUMAS『Sur Gérard de Nerval』(アレクサンドル・デュマ『ネルヴァルについて』)


ALEXANDRE DUMAS『Sur Gérard de Nerval―Nouveaux Mémoires(ジェラール・ド・ネルヴァルについて―新たな思い出)』(Complexe 1990年)


 デュマが書いたネルヴァルの思い出となれば、読まずにはおれません。この本が世に出ることとなったいきさつをクロード・ショップという人が序文で書いていました。「デュマは、晩年、ネルヴァルを中心とした昔の思い出を新聞に連載し、それをネルヴァル作品集に併載するつもりでいたが、結局連載は中止となり、原稿はそのまま筺底に収められていた。娘のマリーが所持していたデュマの遺した原稿を、デュマのファンだったオーストリア大使が、私設記念館を設置しようとしてかボヘミアの自宅へ引き取ったが、誰にも知られずそのまま眠っていた。その後、時代とともに国の体制がめまぐるしく変わっていったが、1949年、館整理中の研究者によってこの原稿が発見され、1976年に研究の成果が発表され、1990年にようやく出版されることになった」(p26)。

 「新たな思い出」という副題になっていますが、これも序文によれば、「ネルヴァル愛好者はこの伝記を読んでがっかりしたのではないだろうか。『粋な放浪生活』、『ローレライ』、『夢と人生』、『火の娘』、それにデュマ自身の『旅人のお喋り』など、すでに書かれたものからの寄せ集めという感じがする」(p27)とあるように、ネルヴァルを熟知している人にとってはそんなに新しい情報はないようです。しかし学生時代に、『夢と人生』、『火の娘』など、当時出ていた訳書しか読んでなかった私にとっては知らないこともたくさんあり、貴重な読書となりました。

 全体の印象としては、デュマがネルヴァルを出汁にして、自分の身の回りのエピソードを饒舌に書き散らしたという感じがあります。ネルヴァルの話から脱線して、マイヤベーアとの決裂、自分が兵役拒否して監獄行きとなったいきさつ、自分の母親の死と葬儀の話、父の死の際父の霊が現われた体験、詩人アントニーデシャンの称揚、オルレアン公爵の馬車での事故死と葬儀、モンフォール公ジェローム・ナポレオンとエルベ島へ行った話、あるスウェーデン人が分身を見た挿話、自分がベルギーで借りていた家から追い出された顛末など、長短さまざま多岐にわたります。

 もちろんネルヴァルに関するエピソードもふんだんにありました。なかで圧巻だったのは、ネルヴァルが入院していたブランシュ精神病院へデュマが見舞いに行ったとき、ネルヴァルが語った自分の過去の転生についての話。「多くの人がいる部屋へ連れて行った。それはみんな過去の私だった。私を見ると一人ずつ私のところへやって来て、会うごとに、200年ぐらいの間の過去の思い出がよみがえるのだった・・・不思議なことに、顔がどんどん変わっていくのだ。それにつれて周りの人の顔も変わっていくようだった」(p184)いう不思議なシーンが印象的。たしかに私も、ゴヤの悪夢のようなまどろみのなかで、人の顔が現われてどんどん変形していく夢を時々見ることがあります。とくに大酒を飲んだ翌日の夜。これは狂気の徴候でしょうか。

 もうひとつは、ネルヴァルが裸で夜の街を彷徨って警察に留置され、デュマが引き取りに行った帰りの馬車のなかで、ネルヴァルが語った前夜の体験。これは『オーレリア』で読んだことがありましたが、何度読んでも凄い。「また星が私を呼んだので、服を着たままだとダメだと思ったんだ。分身が高いところに居て私を見下ろしてると思って、死んで彼と戦おうと。それでセーヌ川に飛び込もうとした。ところが、急に空の星が消えたんだ。私は叫んだ。『ついに世界の終わりが来た!』と。ただ一つ黒い太陽が空にかかっていた。血の色をしていた。『永遠の夜が始まるんだ。夜が明けて日が昇らないとなると大騒ぎになるぞ』。サン・トノレ通りに戻り、ぐずぐずしてる人々を見て呟いた。『可哀そうに。これから何が起こるか知らないのだ』…」(抄訳p268)。

 もう一つ貴重だったのは、ネルヴァルが、ヴィエイユ・ランテルヌ(古街灯)通りで首を吊ったとの知らせを受けて、デュマが大急ぎで現場に駆け付け屍体安置所まで行ったときの報告で、場所の詳細と、そのときのネルヴァルの姿が描写されていることです。場所については、「カイエ」のネルヴァル特集(1979年2月)で、入沢康夫が克明に報告しているのを読んだ記憶があり、調べてみると、本書での報告とほぼ同じ文章が紹介されていました。さすがに入沢訳はよくこなれています。

 ほかにネルヴァルに関する主だったエピソードを順に書いてみますと、デュマが自宅で催した仮装舞踏会でネルヴァルと初対面したときの様子、デュマが監獄のなかでネルヴァルとオペラコミック「ピキロ」を共作した話、デュマが仲立ちしたネルヴァルと女優ジェニー・コロンの初対面の模様、デュマがネルヴァルとの共作劇「レオ・ブカール」で一緒に取材に行ったときのドイツ旅行記、ネルヴァルがメリーと組んで「歩行器」と「ハーレムの版画師」の台本を創作した話、デュマのベルギーの家やパリ・ラフィット通りの家にネルヴァルが訪れたときの振舞い。

 刑務所でネルヴァルとオペラコミックを創作した際、知人のコネで特別室に入れてもらい、作曲者のモンプーがピアノを持ち込み、トニー・ジョアノ、グランヴィル、ユーゴーら仲間たちが続々とやってきて、壁に好き放題落書きをしたという、当時のボヘミアン生活を彷彿とさせる一幕もありました。デュマは回顧しながら、「当時われわれは若かった。1830年代は炎の友情の時代だった。その時すでに蒼ざめつつあったが、今のように消えてはなかった」(p88)と嘆いています。

 ネルヴァルがシャーベットやアイスクリームを供するのに、日本の陶製の茶碗に入れたというくだり(p98)にはさほど驚きませんでしたが、デュマが母親の蘇生のためなら電気治療でも艾(moxas)も厭わないと書いていた(p104)のには驚きました。艾がフランスで流行していたのでしょうか。

 取材でドイツ旅行へ行った際、デュマが通訳を介して行っている会話を、「ネルヴァルはずっと聞いていたが、一言も喋らなかった。難しいドイツ語の文章を見事に訳すが、話せなかったようだ。聞きとりもやっとという感じに見えた」(p143)というのを読んで、親しみが湧きました。