:古本奇人小説二冊

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G.フローベールほか生田耕作編訳『愛書狂』(白水社 1980年)
P.ルイスほか生田耕作編訳『書痴談義』(白水社 1983年)

                                   
 両書とも、フランス装を意識しているようで、内容にふさわしい洒落た造本。『愛書狂』のほうは野中ユリ装幀になっています。『愛書狂』は文庫本にもなっているようですが、この形で読むのが最高。

 古本狂が主人公の小説を集めたもの。蒐集の魔に憑かれた人は、異様で奇想天外な言動のなかにどこか子どもっぽいところがあったりして、小説の主人公としてはふさわしい存在に違いありません。この本に取り上げられているのは、イギリス、アメリカ各1名以外は、すべてフランスの作家の作品です。

 『愛書狂』には、
G・フローベール「愛書狂」
A・デュマ「稀覯本余話」
Ch・ノディエ「ビブリオマニア
Ch・アスリノー「愛書家地獄」
A・ラング「愛書家煉獄」
A・ラング「フランスの愛書家たち」(これはエッセイ)
 『書痴談義』には、
ピエール・ルイス「書庫の幻」
オクターヴ・ユザンヌ「シジスモンの遺産」
ジョルジュ・デュアメル「書痴談義」
ローレンス・G・ブロックマン「アルドゥス版殺人事件」、が収められています。


 両書あわせたなかでもっともビブリオマニアの狂気に満ちているのは「シジスモンの遺産」でしょう。死してなお愛蔵書を敵に渡すまいと克明な遺言を残した愛書家に対し、その蔵書を何とか手に入れようとするビブリオマニアたちの常軌を逸した壮絶な戦いが演じられます。がこれは本当の愛書家の姿なんでしょうか。カリカチュアになっているようです。

 次に面白かったのは、Ch・アスリノー「愛書家地獄」。「吸血腹話術師」(p137)とも言うべき悪魔に操られるままに、大切な本を二束三文で売り、くだらない本を借金までして高値で買う地獄に陥り、苦悶のなかで自らを滅ぼしてゆく主人公の姿は、まさに悪夢です。A・ラング「愛書家煉獄」はその後日譚として語られていますが、アスリノーの物語をもう一度繰り返すような物語。これは剽窃とは言わないのでしょうか。

 それから、G・フローベール「愛書狂」は、以前英語版(RODALE PRESS 1954年)で読んだことがありますが、印象としては表現主義映画的。感情過多、大げさな身振り、極端な性格造型が魅力的です。

 ジョルジュ・デュアメル「書痴談義」では、会うたびに様子が変わり、発言が変幻する愛書家の姿を描いています。愛書家の知識の積み上げ方に注意をうながしているようですが、そんな子どものような愛書家への愛が感じられます。

 A・デュマ「稀覯本余話」は、デュマの回想録から採ったということで、デュマが体験を少し脚色したもののようです。ここで登場する愛書家はノディエで、書物への造詣と愛着の深い学識豊かな先輩への崇拝が感じられます。デュマは「ビロードの首飾りの女」でもノディエのサロンのことを書いていました。

 そのノディエの「ビブリオマニア」は、この前読んだ篠田知和基訳『ノディエ選集5 夢の国にて』に「書籍蒐集狂」というタイトルで収められていましたが、愛書家の奇人ぶりがあますところなく書かれています。

 ピエール・ルイス「書庫の幻」は、古本奇人は登場せず少し趣向の変わった一篇。お留守番を命じられた少女が、書庫で出会った聖女の幻に「知りたいことは」と訊ねられ、「自分の未来」と言ったばかりに後悔することになる話。「知る」ことの恐ろしさを喩えた作品だと思います。

 A・ラング「フランスの愛書家たち」はフランスの歴史上の愛書家たちを紹介したエッセイで、なかなか面白い。フランソワⅠ世や、リシュリューモリエール、ナポレオンが愛書家だったということを知りました。「自分の蔵書はすべて〈アンカット〉本だ」と自慢している愛書家に対して、「つまり一冊も読んだことがない明らかな証拠」と嘲った記者のエピソードが紹介されていました(p172)。

 ブロックマンの「アルドゥス版殺人事件」は、一冊の高価な稀覯書をめぐる殺人事件を扱っていますが、たまたま宝石の代りに高額書籍を盗むにすぎない泥棒の話ですし、また殺人の動機も書物を手に入れるためではなく、盗むところを見られた口封じのためという凡庸さ。「あとがき」を読めば訳者もあまり乗り気でなかった様子ですが、編集者から強引に説得させられたのでしょうか。


 これらの本に触発されて、日頃見聞する愛書狂の種々相について考えてみました。これらの本に登場する愛書狂は、希少で書物史上価値の高いものを求める人たちで、その薀蓄は学者肌、その書物は宝石のように高額。私のまわりにはそんな人物はおりません。むしろその逆で、百円ないしそれに近い価格で、いかに掘り出し物を見つけるかという買い方をもっぱらとしていて、私もどちらかと言えばその部類です。これは大学時代の貧乏生活の習性がこびりついた性と言えるでしょう。仲間の一人が言っていましたが、金さえ持っておればどんな本も買えるというのでは面白くないわけで、制約されたルールのなかで、いかに努力と才覚を発揮して珍しくかつ自分好みの本を手に入れるか、すなわち古本を探すのも一種のゲームだというのです。

 希少な書物というのが絶対的な価値を持っているものとすれば、自分の好みとコストの釣り合いを考えるという点で、相対的な価値を求めているとも言えるでしょう。また、いわゆる古本蒐集家は初版とか帯とか本の状態に神経質にこだわる人が多いですが、われわれの仲間はさしてそのようなことは意に介さず、どろどろの本でもおかまいなく、字が読めればという人もいます。いやむしろわざわざ汚い本を求めているのではと思われる節もあるくらいです。
 
 それからますます本題から遠ざかりますが、本好きにも、本を持つことに執着する人とは別に、本を読むことだけに執着する人がいます。そうした人たちの極端なケースでは、読んだ本はすぐさま処分して本を持たない主義の人や、また図書館で借りてしか読まないという人もいます。本は手元に置いておきたいという人は、私もその部類ですが、ふと思い立って本を手に取ることができることや、何かの調べものですぐ本が参照できるというところに喜びを感じます。しかし折角持っていても貸倉庫に入れたり、箱に詰めて押し入れに入れたりするのは、持ってないのと同じ。やはり本の背は常に見えるようにしておかないと意味がないというのが私の主張です。


 両書とも、恩地源三郎という人との共編と言ってもいいと「あとがき」にありますが、この恩地源三郎という人の素性がネットを見てもどうもよく分かりません。