LÉON-PAUL FARGUE『haute solitude』(レオン=ポール・ファルグ『気高い孤独』)


LÉON-PAUL FARGUE『haute solitude』(GALLIMARD 1982年)


 珍しくパリで新刊で買った本。原著は、1941年刊。何かの本で高い評価がされていたので、読んでみましたが、読み始めた途端、この本を選ぶのではなかったと後悔しました。散文詩なのでとてつもなく難しい。いつもなら、毎日10~15ページは読み進むのに、今回は8ページがやっとというところでした。

 原因をいろいろ考えてみました。まず、辞書にも出てこない単語や、見たこともないような長たらしい単語が頻出すること。古代紀、恐竜、生物の種、いろんな動物や植物の名前、特殊な病名や体の各位の名称が出てきます。また冒頭に、ラブレーの造語だらけの文章の引用があり不吉な予感がありましたが、この散文詩でも同じように新造語がちりばめられています。上記の難渋単語とともに、異様な響きを導入することにより詩の魅力を引き立てようという一種の技だと思います。

 もうひとつの原因は、シュルレアリスム的な想像力の横溢した文章なので、文章が意味の連鎖で続いて行かず、唐突に別の予想外の事象が出てくるので、訳が分からなくなってしまうこと。いつもなら単語の意味はまわりの文脈で補強されますが、それがないので、本当にその意味でいいのか、その単語に別の意味がないかと絶えず辞書を引かなくてはなりません。それでもまだ見当違いなことになっているかもという不安はぬぐい切れませんでした。

 「haute solitude」は「孤高」と訳したいところですが、孤高というと、何となく東洋的な手垢のついたニュアンスがついてまわるので、「気高い孤独」としてみました。そのタイトルから静謐さを期待していましたが、騒がしい印象しか残りませんでした。まさしくフランス的饒舌の世界であり、東洋的な空白とは違って、空間をびっしりと埋め尽くさないと気が済まないという精神が現われています。例えば、ひとつの表現をするのに、類似の単語を羅列して畳みかける語法。類似してはいても少しニュアンスが異なるので、意味が少しずつずれていき立体的な描写となります。これも詩の技法の一種でしょう。


 19篇の独立した散文詩からなる作品で、物語のように全体をまとめるのは無理ですし、正しく読解できているか心もとないですが、おおよその枠組みといったものがあるようです。どうやら、主人公の私は、死んだ瞬間に神々から再び蘇らせてもらい、いったん空高く舞い上がった魂がまた地上へ降り立ちベッドに寝ている自分の屍体と合流します(冒頭の一篇「Je rêvais私は夢見ていた」)、そしてさまざまなテーマの詩篇が続いたあと、最後の一篇「Encore...もう一度」では、またベッドの上で、生への意気込みを抱く場面で終わります。全体として、生と死が一つのテーマとなっているように思います。眠りと目覚めということも。

 冒頭の一篇に続く「Visitation préhistorique太古への訪問」は、宇宙の創生、太古の地球、大地の形成、火山の噴火、古代獣の跋扈を想像した夢のなかのような世界。そして次の一篇「Réveil目覚め」で、舞台は一転してパリの日常の街へ移り、主人公は服を着て部屋から出て行きます。その後は、昔お世話になった店の変わった主人が出てくる「Géographie secrète秘密の地誌」や、母親が出てくる「Nuits blanches眠れぬ夜」、従兄弟の登場する「Parisパリ」などで過去の思い出に耽ったり、「Horoscope星座」で運命を、「Plaidoyer pour le désordre無秩序の擁護」では無秩序を論じ、「Spectres nomades流浪する幽霊」で引越しについて考察したり、「Danse mabraqueマブラク踊り」では世界の終末が20世紀初頭の戦争の風景とオーバーラップして語られたりしています。


 なかで私にとっての佳篇は、「Marcher歩く」、「La mort du fantôme幽霊の死」、「L’attente待機」の三篇。
「Marcher」は、夜明けに友人の家から帰ろうと酔っぱらってふらふらと歩き始めるが、ときどき見覚えのある一画を通りながら、誰かに声をかけられたような気がしてそれが泉の音だったり、建物の窓から懐かしい顔が覗いているような気がしたり、樹に凭れて手を差し伸べている人がいたがあれは誰だったか、といった調子。二つの道のどちらを選ぶかで迷い、袋小路をさ迷い、廊下に入れば自分の身体にぶつかってばかり、大勢の自分のそっくりさんに取り囲まれ、出口を探そうと自分自身で溢れた町をさ迷う。迷路から迷路を渡り、ときに立ち止まり、「さあ動かなくては」とまた間違えた扉を開けてしまう…という彷徨譚。

「La mort du fantôme」は、集中唯一短篇小説の味わいがあって面白い。主人公と同じ建物に住んでいる屋根裏部屋のD氏が幽霊を見たということから、近所一帯が幽霊のうわさ話で持ち切りとなり、話にどんどん尾鰭が付いてくる。D氏は見たとしか言わないので、みんなあの手この手で詳細を聞き出そうとしているうちに、近所でガス爆発が起きて、幽霊の仕業だということになった。そのうち、自殺者が出て麻疹が流行。ある日、私が朝早く、建物を出るD氏を見つけたので、隠れて指笛を吹くと、D氏は血相を変えて逃げ出し、その夜、D氏はもう帰ってこなかった。町ではD氏が幽霊と一緒に逃げたということになった。警察沙汰にもなったが真相は分からないまま。

「L’attente」では、主人公の私はどこか知らない駅の待合で、大勢の客と一緒に列車を待っている。駅員が駅名を連呼し列車がやって来る気配に人々はざわざわと支度を始めた。「でも私は自分の行先を知らない。北へ行けばいいのか、南か…私は何千にも分裂し…重い荷物を抱えたままさ迷っている自分がいた…まだ夜は明けていなかった。この駅へ私は何をしに来たのか」。「Marcher」と同様、どうしようもない暗冥感に包まれる。


 詩の技法としては、ほかに擬人法が目につきました。「運命」とか「死」、「生命」が、人のように登場し、主人公が呼びかけたり対話したりしますが、「今朝」までが擬人法となっているのは、珍しいと思います。また、「harakiri」という言葉が出てきたので(p124)、念のため仏和辞書を引いてみると載っていました。変な日本語がフランス語化してるみたいです。

 本筋とは関係がありませんが、「Plaidoyer pour le désordre」のなかで、無秩序を生命と同一視しているのは逆で、生命は秩序ではないでしょうか。「心はリズムに満たされる。それが無秩序だ」とも書いていますが、リズムとは秩序でしょう。逆に、秩序を変更のできない動かないものとしていますが、規律とか法、制度などの秩序を維持するには凝縮させようとする力が必要で、生命も離れ離れになろうとするものを一つのシステムの中に凝縮させようという力です。無秩序を称揚したあげく、最後の一節で、引き出しの中の無秩序な物がどこにあるか見つけられるのは私だけだと自慢していますが、それは私の頭の中では混乱した物が特別な秩序として存在するから見つけられるということでしょう。