:幻獣本二冊

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立川武蔵/大村次郷(写真)『聖なる幻獣』(集英社新書 2009年)
森豊『古代人と聖獣』(六興出版 1975年)

                                   
 ともに幻獣本ですが、あまり関連はありません。『聖なる幻獣』は集英社新書ヴィジュアル版というだけにカラー写真がたっぷり入った本で、キールティムカとマカラというあまり聞き慣れない幻獣を中心に、竜、怪鳥、一角獣などについて書かれています。他の聖獣物に比べてインドやチベット、東南アジアの比重が高く、図像もごつごつした印象が残りました。『古代人と聖獣』は、森豊のほかの本と同じく、日本から西洋にいたるシルクロードの各地で、獅子とそこから派生した幻獣がどのように描かれているかを網羅検証した本。写真・図版が少なく文章で説明してあるのが分かりにくい。


 『聖なる幻獣』では、キールティムカという顔だけの図像、さらに海獣マカラと一体の構図で収められるトーラナという三角形の枠を初めて知りました。シャールドゥーラというグリフィンに似た聖獣も初めて。著者は宗教学が専門らしく、聖性というキーワードで聖獣を語っています。主な論点は、
①幻獣は、時代や地域を越えて人間の心性に共通して現れたイメージで、ある種の聖性を生み出している。聖性とはたんに清浄なものではなく、魔的なもの、不気味で恐ろしいものを意味する。聖獣を生むような詩的発想は、日常的なイメージの中から脱け出そうとする遠心的な考え方で、仏教やヒンドゥー教という宗教の枠を超えた深い基層にその源泉がある。
キールティムカ(「ほまれの顔」という意味)は、円形の杯を両手で捧げ持つシリアの獅子、ギリシャ神話の怪物ゴルゴーンの二系統に源泉があると考えられる。インドからネパール、チベット、中国、朝鮮半島、日本、また東南アジアにも広く分布している。敵に恐怖を与えるために鎧の胸の部分、また魔よけとして切妻屋根の三角形の部分に描かれた。バリ島では「カーラ」「ボーマ」などと呼ばれる葉を咥えた顔、日本では鬼瓦として現れる。
③マカラは鰐と魚を合せたような海獣で、古代オリエント天文学が起源と考えられる。インドでは女神が乗る乗り物として、カトマンドゥでは泉の水の噴出口に描かれるなどし、中国や日本では屋根の端に置かれ鴟尾(しび)と呼ばれた。マカラはサンスクリットで「クムビーラ」と言い、日本に入るとそれが「金比羅」となったと言う。海に面した香川県金比羅神社はインド起源の海獣マカラ信仰がもとになっている。
④インドでは聖域の前に「トーラナ」と呼ばれる門が建てられるようになり、ネパール、中国、日本などに伝えられ、日本では鳥居と呼ばれた。日本に伝えらえた当初は寺の前にも建てられたが、その後は独立した門としては神社にのみ残され、寺では本堂の屋根の下に組み入れられる形式となっていく。またネパールなどでは、本堂正面入口などの上部の半円形の装飾のことを指すが、それは本堂から離れて建てられていたトーラナが、徐々に建物に近づいていったことの名残と考えられる。

 トーラナの写真を見ていて、キリスト教会のタンパンと同じ役割をしているように思いました。他に竜に関する文章を読んで、西洋のドラゴンと中国の龍は形も意味するところもまったく異なるので、ドラゴンを龍と訳すのは間違いというふうに感じました。その他面白かったのは、京都の仁和寺に伝えられる胎蔵曼荼羅の宮殿の門上にキールティムカが見られること(p74)、インド神話ガルダ鳥が静岡県袋井市の寺院「可睡斎」で火防尊として祀られていること(p160)、バリ島のバロンダンスと日本の獅子舞がともに中国南部にルーツを持つらしいこと(p167)、など。


 『古代人と聖獣』は、これまでの同じ著者の本とかなり重複するので、それ以外を中心に簡単にまとめますと、
①日本にライオンが登場したのはつい百年ほど前であり、それ以前は唐獅子、狛犬という造型でしか知られてなかった。古くは、古墳時代の大刀の柄頭に獅噛式獣面環頭として描かれ、また正倉院には、伎楽の獅子面が九つある他、宝物に多く描かれ、唐獅子風とアッシリアのリアルな獅子の二タイプあるが、圧倒的に唐獅子風が多い。
②朝鮮に多い獅子像が日本に渡ってきて唐獅子と呼ばれ、平安時代ころから狛犬(高麗犬)とも呼ばれるようになるが、狛犬と名づけたのは、見たこともない外国の物を和風に親しませるためと、守門獣という番犬的存在であったからだろう。また獅子舞が日本全国に広まった一つの理由は、それが豊作を祈願する農耕儀礼と結びついたからだろう。
③獅子像の発祥地であるオリエントでは、護符と獅子狩という二つの造型があり、他に獅子を飾った玉座や、生命の木の下に力強い動物を配した樹下動物図の一員として描かれ、さらに進むと頭部を鷲の頭に付け替えたり翼を生やしたりしてグリフォンと呼ばれる合成獣を造型していった。イスラームの時代になると、根本聖典にライオンは登場せず、また偶像禁止で動物像を使うことを好まなかったので、聖獣としてではなく現実の獅子の造型として、またかつての信仰の名残りとしてしか作られなかった。
④オリエントから伝えられたインドでは、アショーカ王が獅子をのせた石柱を各所に建てた。仏教の中には獅子がいたるところで活躍するが、仏教者は潔く、奮迅し、屈服せず、食にも貪欲であってはならないとする心構えを百獣の王を喩えに語っている。また中国では、漢代に石獅子を墓前や殿舎の前に建てて以来その形が永い習わしとなったほか、仏像の台座に獅子座として描き、霊獣として造型していった。


 その他印象深かった記述は、
①日本に公式に仏教が伝来した6世紀半ば以前、古墳の中に副葬された鏡にすでに仏像が描かれているが、当時の日本人たちの中に仏教を知っていた者がいたのか、あるいは単なる異国の神程度の認識しかなかったのか(p28)。
②太古のメソポタミアの動物図で、獅子が左手に酒壺を持ち、右手に油容器を持っていく図があると写真付で説明されていた。→これは『グリフィンの飛翔』で読んだ獅子魔人ではないか(p88)。
③もともと王が行っていた獅子狩の行事が円形競技場でライオンと格闘する競技となり、王は高いところから観覧し勇者たちが行なう見世物となってしまった。古代の呪術的性格が遊びの要素に転移し、獅子も神性・霊性を失って、力強い猛獣の一面だけが強調されるようになる(p145)。