:シャルル・ノディエ2冊

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篠田知和基訳『シャルル・ノディエ選集1 パン屑の妖精』(牧神社 1975年)
篠田知和基訳『シャルル・ノディエ選集3 神秘作品集』(牧神社 1976年)

                                   
 引き続きノディエを読んでいます。長編1作と短篇7作。『神秘作品集』のなかの「ジャン=フランソワの青靴下」は『ノディエ幻想短篇集』と重なっていたので読まず。

 圧倒的に『パン屑の妖精』が面白い。怪作ですがノディエらしい一篇と言えるでしょう。その魅力はいろいろありますが、なによりもこの作品の眼目は、枠物語の中の物語の話者で実際の主人公ミシェルの見ている世界(常人からは狂人のたわごとに見える)と常人の見ている世界が並行して進み、同じできごとが違った世界を作りだしているところ。それで読者は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』などと同じく、狂人の内面の世界の方が真実であるような気がしたり、いやそうではないと思ったり、揺らぎのなかにとり残されてしまうのです。その揺らぎが心地よい。

 ノディエの作品にはいたるところ狂気が出てきて、かつその狂気を称揚しているところがあります。この作品でも冒頭、「本当の幻想物語は、狂人の口で語らせるのでなければ、適当な設定ができないということなのです」(p13)と告白しています。また別のところでは白昼夢と狂気との関係について、「夢が、眠っているあいだの印象から現実の生活のそれへと移行して、その中に、幻影とともに引きこもってしまったように思えるのでした。まったく、眠るのをやめたときにこそ、奇妙な空想の世界に戻ってゆくのでした」(p162)と書いていますが、まさしくネルヴァルが『オーレリア』で書いていた「現実生活における夢の氾濫」だと思っていたら、篠田知和基氏もあとがきで同じことを書いておられました。


 他にもノディエらしい魅力は細かい部分にも溢れています。
小見出しの文章の面白さ。例えば第14章「ミシェルが、いかにして、一目でヘブライ語を翻訳し、ドニエ貨が沢山あるときは、それをもっていかにしてルイ金貨を作るか、および、新発明の船の描写と、グレートデン犬の文化についての奇妙な研究」(p146)。
②読者を想定した問答。とりわけ「いずれにしても、私がおすすめするのは、読み始めないということであり」(p8)とか「いままで繰ってきた頁を、すみやかに、逆にめくっていただきたいのです」(p37)という具合に、この本を読むのをやめさせようという文章があちこちに出てくるところ。この昔風の語り口は『トリストラム・シャンディ』を思わせる。
③おどけたようなエキセントリックな登場人物たち。パン屑の妖精といわれる乞食の小人の老婆は若い女性のような感性をもっているし(実はシバの女王の化身)、紳士のいでたちをしたグレートデンの代官がでてきたり、裁判長、弁護士がくりひろげるドタバタ裁判劇があったり。
④奇怪な想像力。一つの胴体のうえに山猫やブルドック、揺れるらくだの首があり、その背後に、目のなかが歯ぎしりし、唇がウィンクする人間の顔を裏返しにしたような顔が見え、天井の梁から大軍がぶら下がっているという場面(p164)や、マッチ箱ぐらいに見えた家のなかに入ると数千倍も広い空間だったという空間の歪み(p223)、それに99人のお婆さんが大きさの順に並んで、恭しくお辞儀をする風景(p274)など。


 この作品は一種のおとぎ話で、おとぎ話的な要素があちこちに散見されます。
①主人公ミシェルは話の展開のなかで困難に遭遇し悲惨な状態に陥るが、すべてがうまく解決する。ハッピーエンドに終わったらしいことは、ミシェルが精神病院から脱走したことと、おとぎ話の売り子がミシェルがシバの女王と結婚し七つの天体の皇帝になったという物語を配っていたこと(p317)で推測できる。
②主人公ミシェルに、他人に施し続けるという尋常ならざる無垢な性格が賦与されているところ。
③主人公がいくつかの試練を受けること。
④「歌うマンドラゴーラを見つけることができれば二人の宿命は成就する」という試練が後半のテーマになるが、これは「青い花」に見られるようなドイツロマン派のメルヒェンを思わせる。
⑤パン屑の妖精が老婆の姿をしているが実は若くて美しい女性である、というように神が醜い姿で現れるというところ。
⑥大工の親方に娘が6人いるという抽象性。


 そう言えば、「スマラ」に出てきた死刑台への行進がここでも登場しました。


 『神秘作品集』は狂気の種々相が描かれ普通の小説とは違った味わいはありますが、前に読んだ『ノディエ幻想短篇集』に比べると中途半端な作品が多く、のめりこむことができませんでした。

「蝋燭祭九日祈願」と「婚約者」には予言とか運命の符合といった神秘的な要素が強く働いていますが、物語としては不自然な印象がどうしても残ります。また「カゾット氏」は尻切れトンボ、「リディ、または復活」の後半は理屈っぽく退屈、「愛について」は何が書いてあるかさっぱり分からず。ただ「蝋燭祭九日祈願」の冒頭の田舎礼賛は共感できましたし、「リディ、または復活」の前半は物語として面白く読めました。