:生田耕作の評論集二冊

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文人を偲ぶ―生田耕作評論集成Ⅱ』(奢灞都館 1992年)
『異端の群像―生田耕作評論集成Ⅲ』(奢灞都館 1993年)


これも長らく大事にしまっておいた本、他にⅠ(シュルレアリスム評論集)とⅣ(セリーヌ論?)が出ていますが、いくぶんか興味薄のためまだ買っておりません。

文人を偲ぶ』は日本を中心とした文人についての評論と、本についての随筆と日記、それに加茂川再開発に反対する晩年の文章、別冊付録にインタビュー、『異端の肖像』には海外の文学者についての評論と、本の感想、平井呈一とのゴシック小説についての座談、別冊付録に「私の選んだ『フランス小説ベスト・・・』」が収められています。

内容の半分ぐらいは大昔に別のかたちで読んだことがあったためかもしれませんが、懐かしく味わい深い世界にどっぷりと浸れたように思います。

両書とも生田耕作の喋り声が聞こえてきそうな文章です。ここにあるのは、学者の多角的で緻密な論証や客観的で明晰な分析といったものとはまったく違って、感性や感情、好悪が剥き出しになっている文章です。端正なという感じでもありません。子どものような素朴さがいっぱいで、本や作家への愛情がにじみ出ています。


文人を偲ぶ』では、「書斎日記」のなかに私の知人が登場したり、昔よく通った神戸の後藤書店を生田氏もたびたび訪れたりしているので、親近感を覚えました。

「閑静を心の友として平穏に余生を過ごすことのみを願っている」(p76)とか、別冊付録のインタビューの「毎日、散歩でもしてですよ、途中でしゃれた喫茶店があったら、一服して、日当たりのいい窓辺の席でコーヒーか紅茶でも飲んで時間をつぶしていたら、金もかかりませんしね。煙草でもふかしながら、ぼんやり空想にふけってたら、これはもう至高の瞬間ですよ」(p5)といったフレーズには心底共感できます。

「M・P・シール『海の帝王』・・・『紫の雲』『嘘の島』と併せて同作者の三大長編・・・奇異なる才能の感ますます深まるばかりなり」(p191)や「惜しまれつつ若くして逝きし女流作家、エリナ・ワイリーの長編幻想小説、『ヴェネチァン・グラス細工の私生児』。書き出しよりして、まさしくdeliciousの一語に尽く」(p208)など、面白そうな本の情報を得ることができました。

意外だったのは、私の敬愛してやまない澁澤龍彦『高丘親王航海記』や齋藤磯雄のリラダンの翻訳『残酷物語』をこき下ろす文章があったことで、とても不可解で残念。


『異端の肖像』では、若い頃、ハガードを均一棚で発見して一読驚愕し、友人らにその素晴らしさを吹聴する一節がありますが、生田耕作の原点を見る思いがしました。生田氏は、仏文に限らず幅広く読書していて、英語の本もかなり読んでいるようですが、ハガードに関する文章はそれを裏付けるものだと思います。

本文中にあった「フランス文学には・・・<危険な>文学の系譜が存在する。古くはサド侯爵の諸作をはじめとして、『悪魔が食卓につく』(ユーグ・ルベル)、『処刑の庭』(オクターヴ・ミルボー)、『猛虎の秘密』(モーリス・マーグル)、『世の果てへの旅』(L‐F・セリーヌ)、『魔宴(サバト)』(モーリス・サックス)」(p150)という文章や、別冊付録の「私の選んだ『フランス小説ベスト・・・』」には、今後の探求書に追加すべき本がたくさんあって大変参考になりました。


恒例により、印象に残った文章を下記に。

理に頼らず情に訴えず人をうなずかせるものはなにか。気迫である。文における気迫とは何か。背後にある人の気迫である/p23

「猥本、そうかもしれん!だが実に擢んでている。」凡庸、これこそバルベーが最も忌み嫌うものであった/p67

鏡花宗信者・・・このような熱狂的な読者を失ったところに、遥かに高く仰ぐべき作家を欠いたところに、こんにちの文学の衰退がある/p89

カネがなくて本を集めるところが面白いので、金持ちが金にあかして買うのは、愛書家からすれば邪道に思えますね/p159

以上『文人を偲ぶ』

「効用」の仮面をかぶることなしにはなに一つ生存権を認められない今日の社会において、「無用」が黙許される世界は、「好き」が大手を振って通用する領域は、文芸以外のどこに見出せるでしょう/p9

『世の果てへの旅』の作者は出来事をけっして客観的に描写し記述しない。人物も、事物も、事件も、それらが呼びさます情感と分かちがたくとけ合っている。いうなれば過敏症的リアリズム・・・この過敏症的リアリズム、幻想的リアリズムが、従来の客観的リアリズム以上に、現実の真相を深くとらえる/p234

以上『異端の群像』