吉山浩司『数はどのようにして創られたか』

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吉山浩司『数はどのようにして創られたか―中国古代史探究の旅』(私家版 1997年)


 昨年、浜松の古本屋で100円で買った本。私家版で、ネットで検索しても著者がどんな方がよく分かりません。たぶん、定年したサラリーマンか歴史の先生でしょう。小説の体裁を取っていて、定年した古代史が趣味の男とその妻、長男の会社員とその嫁、古代史趣味の男夫婦と家族ぐるみの付き合いをしている高校の東洋史の先生夫妻の合計6人が、中国旅行へ行き、ガイドの案内であちこちの都市や遺跡を回りながら、中国語の一から十までの数がどうやって誕生したかを話し合うという設定です。語り合うのがいつもホテルのバーというのが楽しそうでよい。

 どこまでが本当の話か確かめるすべもないあやふやな話や推測が多く、おそらくそれが理由で小説の形にしたのでしょう。しかし古代中国の国家の変遷や漢字の成り立ち、中国の地理など、あちこちにちりばめられている中国の基礎知識は本当のようで、かなり勉強になります。

 本題は、中国の数がどのように生まれたかを、漢字の成り立ちから考えていますが、参考としているのは、甲骨文字や古代の土器に刻まれた文字、また三種類の書体(殷・周の古い字、秦の篆書、漢・魏の新しい字)で書かれた魏の三体文字の石経、それに数字の発音、数えるときの指の中国式折り曲げ方や、壱、弐、参など大字と呼ばれる別の字体なども参考にしています。話がどんどん飛躍するのでよく分かりませんでしたが、およそ次のようなものです。

一(イー、イチ):一本指の指(シ)、「たったの」を意味する唯(ユイ)や委(イ)、「はじめ」を意味する始(シ)、手で一本の棒を持った形の聿(イツ)、数の刻み目を彫る契(キツ)などが語源として考えられるが、一の誕生は人類の根源にさかのぼるものなので、結論は不明としている。

二(アール、リャン、ニ):一が二つ重なったもの、「あなた」を表わす爾(ジ、ニ)、二つある耳(ジ、ニ、アールとも発音)、一の次の次(ジ)、児(ジ、アールとも発音)、両(リャン)など、これもいろいろ出てきて収拾がつかず。兄、姉の「ニ、ネ」や、たらちねの「ネ」は肉親に対する親愛の情を表わす言葉で、二と関係があるのではとも指摘している。(ちなみに、兄、姉の「ア」は大きいという意味、たらちねの「タラチ」は尊いの意味)。

三(サン):一、二にさらに横棒を一本増やしたものとも考えられる。もともとは尖った三角形のものを表したもので、尖(セン)とか傘(サン)とかと語源を同じにするとし、古代人は三をもってその他多数を示すということがあるので、数えるという意味の算(サン)や数(スウ)とも関連があるとしている。

四(スー、シ):魏の三体文字では、古い四の文字は横棒が四本で、篆書以後今の四の字の形になっている。四の字は囲いの中にルと書くが、殷の甲骨文字ではルのところが从(ショウ)で、これは牛馬の四本足を示している。囲いの一方が開いている匹(ヒツ)の字とも関連がありそうだ。

五(ウー、ゴ):篆書目録を見ると、五の字は横棒二本の間にXが書いてあるが、古い字ではXの代わりに爻(コウ)という字を書く。これは杵が交わっているのを表した形ではないか。最初に交わるという意味の爻という字があって、そこに横棒二本がついて杵の象形文字となったり、互(ゴ)という字になったりしたのではないか。五には組を作るとか、互いという意味があるのでは。

六(リュー、ロク):六は粒(リュー)から来ているのは間違いない。昔の蒼頡の書では米という字は横棒の上に三粒、下に三粒の米が描かれている。また梯子を表わす字は、□が左右に三つずつ並ぶ形をしていて、合わせて六。

七(チー、シチ):七の字の形は、柄杓に似た形をしている北斗七星から来ている。「斗」は柄杓の象形文字であり、この斗という文字を回転させると七となる。また柄杓の勺(シャク)の字は匙の象形文字であり、匙を表す別の字匕(ヒ)は北の字の右側にも使われており、北とも関係がある。すべて北斗七星に繋がっている。

八(パー、ハツ):八の字に似ている字に分があり、似たような意味で、草木の分かれ出ることを表わす丰(ホウ)という字がある。また左右に四つずつの刻みがついている字としては朋(ホウ)の昔の字があり、これは貝貨をつないだ形である。

九(チュー、キュウ):糾(キュウ)の右側の丩(キュウ)だけでも糸を撚り合わすという意味を持つが、逆さまにすると九の文字となる。または紐の右側の丑(チュウ)の字は物を掴む形の象形文字であるが、九十度回転して線を少し省略しても九となる。九は物を掴む形に関係している数字ではないか。また究(キュウ)は穴がすぼまってそこで終わるという意味であるが数の終りでもある。九はまた竜(リュウ)や蛇(チュウとも読む)と関係があるのではないか。みずちの虯(キュウ)という言葉もある。

十(シー、ジュウ):十の指文字は人差し指を立て、人差し指の背に中指を重ねるようにするが、重ねるという意味の重(ジュウ)ではないか。また五と五を二組十文字に合わせるということでもあるのでは。


 それ以外に、私の知らなかったことも含め、トピックスで面白かった話は、
①日本に中国の王族がたくさんやってきていたという話で、昔、呉と越とが戦争をして、負けた呉の王子と一族が蘇州から舟で黄海を渡って日本に来たという。次に、越が楚の国に敗れ一部の人たちが南島まわりの船でやはり日本に移って来た。また秦の始皇帝の長男扶蘇(フウソ)の子の有秩(ウヅ)が広東、韓国を経由して日本に逃げて来たのが、京都太秦に本拠を置き仏教の興隆に尽くし能の元祖とも言われている秦氏ということである。さらに、漢の高祖劉邦の甥の劉鼻が漢に滅ぼされ、孫の三人兄弟が日本に逃れて来たが、この三兄弟は日本神話のイッセ、イナヒ、ミケヌの三人に似ていて、末弟は後の神武天皇ではないかという。

②韓国の人や中国の種族との関係では、百済の国が滅んだとき、当時の都大津の近くにその国の人を受入れたこと、九州の隼人族が江南モンゴロイドの末裔ではないかということ、物部氏は中国から朝鮮半島経由で来たらしく朝鮮半島にいたときは徐氏と名乗っていたこと、大伴氏は苗族あるいはモン、クメール族の出身らしいこと、倭の五王の初代王は仁徳天皇であるという説が一般的であるが、中国の山東半島の鳥族の末裔らしいこと。

 この本でも、古代日本への道教の影響について言及があり、飛鳥時代にお寺で仏像を祭る大乗仏教が入るずっと前から、小乗仏教道教の思想とが一緒になったものが入ってきていると指摘していた。

田坂昻『数の文化史を歩く』

f:id:ikoma-san-jin:20210305151719j:plain:w150                                    
田坂昻『数の文化史を歩く―日本から古代オリエント世界への旅』(風濤社 1993年)


 数についての本の続き。久しぶりにわくわくする読書の楽しみがありました。何に惹きつけられたか考えてみると、古代の宇宙観・世界観を日本、中国、狭義のオリエント、西洋にわたって展望し、その影響関係を考えているからで、私のよく知らないことがたくさんあったことと、私がもともと大風呂敷を広げたようなパースペクティヴの読み物が好きなせいに違いありません。

 著者は、編集者的な視点でこんな本があればよいと話していたら自分が書く羽目になったと、「あとがき」で告白していますが、たくさんの筆者の書物を駆使して、それを編集した感じの書き方になっています。福永光司松本清張大野晋、杉山二郎、辻直四郎らの本が引用されていましたが、小島櫻礼編『蛇の宇宙史』や川崎真治『謎の神アラハバキ』、『古代日本の未解読文字』など、知らないような本もありました。

 読んでいてとくに驚いたのは、日本の古来独自のものと思っていた記紀神道に、中国の道教の影響があるという指摘で、いくつか例が挙げられていました。
①『古事記』に登場する神々の数は、三神(アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒ)から始まり、二神(ウマシアシカビヒコヂ、アメノトコタチ)を加え別天(ことあま)つ神として五柱の神とし、次に独り神二神と対偶神五組の神世七代と展開していくが、これは道教教典の『九天生神章経』に説かれている神の誕生が三→五→七と展開する記述と符合する。

②『古事記』の太安万侶の「序」の言葉、「天武天皇、乾符を握りて六合を総べ、天統を得て八荒を包みたまう」の「八荒」は「八紘」と同義で、宇宙もしくは世界の全体を八角形として把握することを意味し、同じく全宇宙を意味する「六合」の語とともに、道教の神学に見える言葉で、道教の教典『淮南鴻烈』原道篇などに書かれている。

③『日本書紀』巻第一の冒頭の文章、「古(いにしへ)に天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分れざりしとき」は、道家思想の色濃い『淮南子』「俶真訓」の中の「天地未だ剖れず、陰陽未だ判れず」と同文。また日本書紀の編者は易学についても造詣の深い人であったことがうかがわれる。

④江南(呉)の道教では、呉越の巫術を行う際、朱色の袴をはいた巫女が鈴を手に握り神事を掌るとされるが、伊勢神宮を筆頭とする日本の神社・神宮には、その道教の影響が見られる。奈良の大神神社の巫女の持っている鈴が、上中下の三段で、下から七→五→三の構成になっているのも道教らしい。

⑤「天皇」という言葉すらも、それまで「きみ」とか「おほきみ」と呼ばれていた日本の元首を、道教の神学用語である「天皇」という言葉に呼び改めたもので、明らかに宮廷でも道教思想信仰との関連性を持ち始めたことを示唆している。天武天皇は、とくに道教と深い関係をもっていたようで、その諡(おくりな)として用いられた「瀛(おきの)真人(まひと)」という称号は道教に由来している。

 また日本の万葉時代の意外な一面も知りました。
万葉集が編纂されたころ、「樗蒲(ちょぼ)」または「かりうち」と呼ばれる博打が盛んに行われていた。これは、白黒二面の扁平な四枚の木片(かり)を投げて、白・黒の組合せで勝負を決めるものらしい。当時はすでに双六も、立方体のサイコロもあり、サイコロの歌が万葉集に収められている。「一二の目のみにはあらず五六三(ごろくさむ)/四さへありけり双六の采」(3827番)。

 私が無知なだけで、以上のことは事実だと思いますが、次からは想像の域を出ない説(と思う)。
⑦注連縄の語源に関して川崎真治の説を紹介している。注連縄は古事記では尻久米縄(しりくめなわ)として出てくるが、「しり」はシュメール語の蛇(シル)、「くめ」は蛇(グビ)だとし、「しりくめ」はこの二語を重ね合わせたもので、注連縄の二匹の蛇が巻きついた形状とも一致する。また虫は、シュメール語のムシュ(虫)がそのまま日本語になったという。

⑧これも川崎真治説。中国の伝承のなかに伏羲氏、女媧氏、神農氏という三皇が出てくるが、古代シュメールと関連があるという。女媧氏は蛇身人首で、別に女希(キ)と呼ばれ、ウルクの蛇女神キを信奉する氏族、神農氏は人身牛首で、ウルクの牡牛神ハルを信奉する氏族だとする。また天理の石上神宮におさめられている「七支刀」の銘文を解読して、これは古代の加臨多(カリンタ)文字で、「霊験あらたかな(七枝樹に)向い合う牡牛神ハルと蛇女神キ」と書いてあるという。

ピタゴラスが創造の根にある四要素として火・水・空気・土を考えていたことが、仏教における四天(地・水・火・風)と符合すること、またピタゴラスが輪廻転生を唱えていたことなど、さらに、ピタゴラスが「三は神を、四は四方世界を表わし、合わせて宇宙全体が七という数に収まっている」としたことが、シュメールの「七枝樹二神」(牡牛神ハル側に三枝、蛇女神キ側に四枝を描いた生命の樹)と繋がっているとする。またシュメール神話の「イナンナの冥界下り」(七つの大門を通って冥界に至り蘇る)が、須弥山世界の中心に入るためには七つの山脈を越えなければならないとするインド仏教の考え方と関連し、全体として、シュメールの神話・思想が、ピタゴラスの数観念や仏教の須弥山世界に影響を与えたとしている。

『龍彦親王航海記―澁澤龍彦伝』 ほか

 関西3府県に緊急事態宣言が昨日までずっと出ていて、不要不急と言われると、つい外へ出るのが億劫となっていました。今年はまだ奈良県から外には足を踏み出しておりません(しかも生駒市奈良市のみ)。飲み会も、リモート飲み会が5回あっただけ。大人になってからこれだけおとなしく過ごしたことはありません。で、もっぱら古本もネットで買いましたが、唯一の例外が、
礒崎純一『龍彦親王航海記―澁澤龍彦伝』(白水社、19年11月、3020円)
 自転車で近所をうろうろしたついでに、近所のBOOK-OFFを覗いたら出ていたので、これも何かの縁と思って買いました。分厚い労作です(だと思う)。
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 アマゾンの古本で、
倉阪鬼一郎『怖い短歌』(幻冬舎新書、18年11月、772円)
 これは古本仲間から、『怪談短歌入門』という本があることを教えてもらい、探したがけっこう高値だったので、上記の本が出ていることを知り、鞍替えして買ったもの。以前、同著者の『怖い俳句』を読んで面白かったから(2015年12月29日記事参照)。
郡司正勝刪定集 第六巻風流の象/総索引』(白水社、92年3月、929円)
 これは先日読んだ『和数考』が面白かったので。
福永光司道教と古代日本』(人文書院、87年4月、400円)
 これも先日読んだ田坂昻『数の文化史を歩く』で引用されていて興味が湧いたもの。
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 古本仲間の一人が「本を買わずに済ますには、本を読まないことだ」と言ってましたが、1冊本を読むと、必ず欲しい本が出てくるのが困ったものです。

 あとはすべてヤフーオークション
塚本邦雄『詩歌博物誌 其之弐』(彌生書房、98年5月、680円)
「イメージの冒険1 地図―不思議な夢の旅」(河出書房新社、昭和53年3月、682円)
「イメージの冒険3 文字―文字の謎と魅力」(河出書房新社、昭和53年8月、495円)
気谷誠『鯰絵新考―災害のコスモロジー』(筑波書林、84年11月、500円)
内藤吐天『鳴海抄』(近藤書店、昭和31年5月、1000円)
ピエール・バルラチエ島本始譯『シャンソンへの招待』(青木書店、56年11月、412円)
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Marcel Brion『Les Vaines Montagnes』(マルセル・ブリヨン『辿り着けぬ峰々』)

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Marcel Brion『Les Vaines Montagnes』(Albin Michel 1985年)


 久しぶりにまたブリヨンを読んでみました。これで17冊目。Vaines Montagnesの訳が難しい。単純に訳すと「虚しい山々」となりますが、これでは意味がよく分からないし、山というのが平凡すぎます。どうやら到達できない山で、神の住むところというイメージなので、「辿り着けぬ峰々」としてみました。この辿り着けぬというのが本作の中心テーマであり、ロマン主義的な憧れを表現していて、それが海の彼方だったり、絵の中の世界だったり、幸福の島だったりします。

 死の直後出版されたようで、おそらく未完の遺作。読んだ感じではまとまった作品のように見えましたが、奥さんのリリアヌ・ブリヨンさんが序文で、「第19章は未完のままだ。他にも『Récit de Cyrille sur les fresques de Roublev(ルブリョフのフレスコ画についてのシリルの話)』と、ヴェニスのリド島にある謎のユダヤ墓地をめぐる話『Brighella(ブリゲッラ)』を追加する構想があった」と明かしています。

 物語の設定は、中学校時代の友人6人と、順番に幹事を交代しながら、毎年1回ヨーロッパの名所に滞在して喋りあうということになっています。辿り着けぬ峰々を前にしたチロル、ザルツブルクのミラベル庭園、アイルランドのスケリグ島、グラナダアルハンブラ宮殿のリンダラハの中庭、ヴェネツィアのトルチェッロ島など。その6人とは、海の彼方に憧れる直情的なリオネル、リュートクラヴサンを奏でるフロリアン、ロシア系のシリル、石好きのセバスチャン、馬や剣が好きで幽霊を信じるトスカナ人レオネット、鉱物好きで詩人のバルノワルド。その6人に加え、フロリアンの従姉妹でありレオネットの幼馴染でもあるルドヴィカ、冒険好きのアイルランド人コルマックらが加わります。

 リリアヌさんが指摘しているように、この6人はブリヨンの様々な側面の分身ですが、不思議なのが一人称「私」の存在で、「登場人物なのだろうか。読み返せばたぶん登場人物に混じっているか、誰かの姿で出ているのだろう」(p22)と文中に出てくるように、トランプのジョーカーのような存在で、6人とは別の一人になったり、6人のうちの誰か一人になったりしながら顔を出し、また突然イタリック体となって独白のように語る部分もあります。

 私として出てくる人物が神出鬼没で誰なのか分かりにくいうえに、誰がどこで喋っているのか、過去の話なのか、会話なのか、地の文なのか、会話を表わす「―」に添えて話者の名前が記されなかったり、現在形と半過去が混じっていたりして、よく分からないところがありました。フランス語の読解力不足もさることながら、もともとがあいまいに書かれていると思いたい。おそらく誰が語るかというより語られている内容が重要ということなんでしょう。

 さて、その物語ですが、長編の体裁を取りながら、いろんな探求に憑かれた奇矯な人物のエピソードが連なる一種の短篇集とも言えます。『カンタベリ物語』や『デカメロン』のように、仲間6人とその関係者が入り乱れて語り合うという枠物語的構成となっていて、24ほどの小話が次々と語られ、その合間に、さらに小さな挿話や寸言が散りばめられているという作りです。ブリヨンは、『千夜一夜物語』の語りをめざしたのではないかと推測しています。というのは、文中のあちこちで千夜一夜物語の語りのすばらしさにに言及がある(p175,203,239)からです。

 全23章の各章がほぼ一つの小話に対応しています。今回は、逐一あらすじを紹介していると、とても大変なことになるので、どんな小話かだけ示すことにします(カッコ内は話者、あるいはそれと思しき人)。
辿り着けぬ峰々の話(セバスチャン?):
 峻峰に迷いこんだヘラジカの挿話あり。
一本の木を愛した男の話(シリル):
 男は最後に木とともに雷に打たれる。
鳥の魔法使いの話(フロリアン):
 骨壺論のトーマス・ブラウンが出てくる。
その挿話として死んでゆくカモメの話(バルノワルド):
 動かなくなったカモメの周りに仲間のカモメが集まる。
ウルビノで見た隠者の夢の話(シリル?):
 光を自分に引き寄せておきながら顔を覆う隠者の夢についての解釈。
夢のなかでタピストリの庭に入る話(リオネル):
 白い犬に導かれ川中の島の寺院に入ると、そこにはランプを持った女性像が。
子どものころの鏡と音楽室の思い出(フロリアン):
 音楽室に魔法の国を見る。
鉱物のコレクションを語る(湖畔の宿の主人):
 物質の神秘を開示する水晶や瑪瑙、中国の夢の石。
宋の水墨画のなかを歩く話(フロリアン):
 水墨画の中で辿り着けぬ峰々を眺める。
古道具屋で操り人形を買わなかった話(セバスチャン):
 人形に見つめられ手足が勝手にごそごそと動いて。
二体の操り人形が喧嘩をする話(セバスチャンが友人アルミニオ・ポロから聞いた話):
 十字軍とアラブ軍の人形は仲が悪い。ドン・キホーテが人形芝居に割り込む挿話、等身大の人形の悲劇の挿話あり。
ふたたびグラスオルガンとリュートの話(フロリアン):
 ダウランドの音楽が出てくる。
鏡、ナルシスについて(フロリアン、シリル):
 人影を食べたり、美人を飲みこもうとする鏡の怪異、ナルシスの解釈。
馬を愛したフランツ男爵の話(ルドヴィカの庭師、ルドヴィカ、私):
 厩舎の火事で愛馬を失った男爵の最後の消え方が印象的。
影絵切り師エルベールの話(ルドヴィカ):
 最後に自ら影絵上の人物と化して消える場面が秀逸。
墓狂アルマンの話(ルドヴィカ、私):
 ブルターニュの墓を模して自らの墓を作る。暗い墓所で顔の彫刻を指でなぞると石が微笑む。
ミニチュア製造家モンティエルまたはリンデンベルク(私):
 建物のミニチュアに魂を吹き込む男。ティエポロの挿話あり。
ヴェネツィアの別荘のプルチネッラの話(シリル):
 壁面一杯に描かれた仮面に魅せられ別荘を買おうとするが。
上記の挿話として二つの仮面の話(バルノワルド):
 仮面で別人となる恐怖体験が語られる。子ども時代の仮面祭と双子の仮面商と出会った体験。
400年を経た幽霊の殺人譚(レオネット):
 400年前殺された男の幽霊が復讐する。絵を再現しようとして雷に打たれる挿話あり。
アイルランドのスケリグ島の話(コルマック):
 絶壁の孤島に住む隠者について語る。本題に入る前に未完。
鳥にまつわるレオナルド・ダ・ビンチの話(バルノワルド):
 赤ん坊のとき鳶に唇をかすめられて以来、鳶をサインのように絵に記したという。
メーリケのペレグリーナ詩篇について(バルノワルド):
 メーリケが讃えた憧れの象徴オルプリッドと、その使者ペレグリーナの物語。
中国の蓬莱伝説の後日譚(セバスチャン):
 どもたち12人を乗せた蓬莱山探索の船が失敗して帰ってきた。憧れを知った子どもたちの悲惨?なその後。

 これらの小話のテーマはいずれもブリヨンのほかの作品にも頻出しているものです。ブリヨンの小説は、いつも一つの作品の中に強弱はありながら多様なテーマ(シンボル)が現われ、そのテーマは各作品に共通しています。これは同じテーマが繰り返されているというより、一つの大きな神話体系を形作っているように考えられます。ブリヨン論をもし書くとすれば、それらのテーマを軸にして、各作品の中でどう扱われているか探るのが一つの方法でしょう。森、庭園、泉、彫像、地中世界と迷路、砂漠、鉱物、海底、劇場、段ボールで作った建物と町、サーカス、城館、温泉地、ホテル滞在(旅人)、夢、鏡、古物商、操り人形、自動人形、グラスオルガン、幽霊、厄災、ワイルドハント(フランス語ではla chasse sauvage)、馬、犬、昔の人物(肖像画)などなど。そして本作は遺作としてこれまでの作品のテーマの集大成を計ったのではないでしょうか。


 些末な印象を記しますと、
 小さなものへの共通した愛情が感じられる部分がありました。ミニチュアの建物を作る小話はもちろん、影絵切り師の話の最後のところで、残された小さな影絵の中に、僅かの荷物を積んだ小さな二輪馬車に乗って旅人が馬に鞭をあてている図が描かれていたが、その首には小さな鋏がぶら下がっていたという場面や(p155)、蓬莱山から帰ってきた子どもたちを慰めるために、皇帝が小さな宮殿を作ってやり、池も庭も家具も小さくし、馬も犬ぐらいの子馬、犬も鼠ぐらいの大きさにしたというところ(p267)。

 辿り着けぬ峰々にはたえず、雲(nuage)がかかり、雲が消えると今度は靄(Brouillard)がかかり(masquer)、しかも窓も曇って(s’embuer)なかなか見えません。水墨画にも、滝の靄(vapeur)や、雲と靄(brume)がかかり、山頂は霞んで(vague)しか見えません。こうした言葉が連続して、茫洋とした曖昧な雰囲気を巧みに醸し出しています。

 夢のなかでタピスリーのなかに入って行く小話では、夢の割に筋書きが整然としすぎているところは、ブリヨンの古典的な性格が露わになっています。夢のなかでは、もっと非論理的なことが連続するシュールレアリスム小説のようでなければいけないのでは、と思ってしまいます。

 日本に関しては、ミニチュア製造家のところで、水、雲、風の層があるという奈良の塔が出てきましたし(p173)、仮面の話のところで、能面についてのエピソードがあり、世阿弥の名前が出てきました(p195、197)。

郡司正勝『和数考』

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郡司正勝『和数考』(白水社 1997年)


 宮崎興二の数尽くしのような記述が面白かったので、数に関する本を本棚から引っ張り出してきました。20年ほど前に一度読んだことのある本ですが、まったく忘れているので再読しました。20年前の読書ノートでは、「博覧強記とはこのこと。ユング的な祖型の考え方で数字がどういう位置を占めるか前から気になっていたが、日本人にとっての数字観を豊富な事例で立証してくれた好著」と紋切型書評風文章が書いてあるきりでした。

 宮崎興二が日常語を中心に数のつく言葉を拾っていたのに対し、古典劇が専門の著者だけあり、昔の言いまわしが数多く取られていて奥が深いのと、用例が数多いのが特徴。なぜ七のつく言葉が他の数字の倍ぐらいあるのかは分かりません。                                                   

 直接の数を表現するのではない数のあり方が面白い。例えば、「一度いらしてください」は「二度いらしてください」とは言わないし「二度は来るな」という意味にはならない。「おひとついかが」の「ひとつ」は単なる挨拶だし、「ひと風呂浴びよう」の「ひと」は掛け声のようなもの。「第一、そんなことないじゃありませんか」などと言うときの「第一」は数ではない。

 数がもともと持っている象徴的な意味について、各数字を見てみると、
一は、発端であって、しかも一つの世界をすでに完成するかたち。一番という意味(天下一)、二へ続かないという性質(一枚看板、一夜漬)、勢いを示す(一気飲み、ひとつとっちめてやろうか)、二度とはないことを指す(一雨)、それしかないという覚悟を示す(裸一貫、男一匹)など。

二は、負の数字で、蔑まれる表現が多い。二の次、二番煎じ、二の舞、青二才、二流など。この負の役割をやや取り返すのが、二枚目。

三は、格が高く、世界の構成を示す言葉が多い。仏教の生死輪廻の世界を表現する三界、仏教の言葉の三宝(仏、法、僧)、日本の宝の三種の神器、過去・現在・未来を示す三世、日本で太陽・月・星を表わす三光、天・地・人を意味する三体、キリスト教の三位一体、ダンテの三界(煉獄・天国・地獄)などがある。悪い意味(三文小説)もある。中国では三は終りを意味した。

四は、凶の数で、「シ」という発音が「死」に通じて縁起が悪い。数が単位として手ごろなのか、仏教の四大(地水火風)、季節の四季、方角の四方、人間一生にあらわれる四相(生、老、病、死)という言葉がある。

五は、肉体と精神を制約する数字である。五臓とか五体、中国の古代思想の五行(木火土金水)、五つの元素を表現した仏教の五輪塔(地水火風空)、また仏教の言葉で人間を構成している五蘊(色受想行識)、儒教にも五倫、五常という道徳があり、チベットには五趣生死輪廻図という天・人・地獄・畜生・餓鬼を描いた絵がある。

六は、仏教に縁のある表現が多い。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道、三途の川を渡るに必要な六道銭、六地蔵、六欲、六塵、六念など。六は五の世界から一つ出たこの世でないものに入ってゆく数であり、あの世を見てきたような話をする六部、この世の無常を夢・幻・影・泡・電・露の六種で喩える六喩がある。

七は、ラッキー・セブンというが、西洋でも元は凶の数字であった。七福神もめでたいのではなく、七難に当てたから七になった。人間は七度まで蘇生できるとされ、七生報国という言葉がある。また七は物忌の数であり、七周忌は大切にされる。正月七日は禍々しい日であり、邪気を祓ういろんな行事があった。七月七日もお盆を迎えるための禊ぎ祓いの日であった。

八は、その七の凶を救助する数字。八幡は七を調伏している。日本民族の大好きな数でまず末広がりと喜ぶ。三種の神器の鏡、剣、玉に八の形容詞をつけて、八咫鏡、八握剣、八坂瓊勾玉としたり、八百万の神、八稚女、八岐大蛇、「八雲立つ、出雲八重垣・・・」という歌もある。中国でも、八稜の鏡、八鈴鏡や仏教の八葉の蓮華という言葉がある。また八は隅々まで全部ということの表象で、八紘一宇、八方ふさがり、さらに八十八カ所を巡ると仏の国をすべて拝んだことになる。

九は、中国でとくに縁起のいい数、その証拠に、蓮根の九穴が喜ばれ、九連宝燈も嬉しい。九曲、九天、九献という言葉があり、九尾の狐は幸福のシンボルであった。日本ではそれほど喜ばれていない。九尾の狐も妖狐である。九は数のきわまりであり、九州という言葉も究極の地だから九であるという。

十は、納めの数で、満ち足りる姿を表現する十分がある。十二分はもう沢山だということになりかねない。これ以上の悪はないという意味で、十戒という言葉がある。


 英語やフランス語でも同じように、数に象徴的な意味を持たせているに違いないから、そうした本があれば面白いと思います。

森豊『聖なる円光』

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森豊『聖なる円光』(六興出版 1975年)


 形についていろいろ読んできましたが、この本でいったん終えます。今回は、円が象徴する図像として、聖像の頭部や背後を飾る円光を取りあげた本です。日本に仏教が渡来してからの光背の形がどのように移っていったか、さらにその源流を尋ねて、朝鮮、中国、敦煌、バーミアン、インド、ペルシア、エジプトまで遡ります。ギリシア・ローマの神像、ヨーロッパ中世のキリスト像にも言及しています。

 写真や図版が少ないので、文字であれこれ書かれていても、なかなか想像できません。またご本人も「この小篇には・・・美術史的な学問的記述をしようとは思わないので、ただ、さまざまな形の光背があることをしるしていくに過ぎない」(p89)と書いているように、光背の細部のデザイン上の特徴がどうなっているかや、仏像の種類による違い、また宗派・経典による表現の違いがどうなのかなど、体系的な説明がないので、分かりにくい。

 おぼろげに分かったことは、間違っているかもしれませんが、おおよそ次のようなことです。
①もともと仏教では、偶像崇拝が禁止されていたので、はじめは涅槃図などでも、仏弟子、天人などが彫られていても、かんじんの釈迦の姿が見当たらない。仏弟子たちは宝塔であったり、菩提樹に向かって礼拝している。この時代の仏教芸術を無仏時代という。仏弟子や天人には光輪も光背もなく、リアルな人間として表現されている。ギリシアの神々も人間として描かれていて円光をつけたりしておらず、せいぜい王冠や月桂樹の冠を頭に乗せているぐらい。ローマでも、神像や肖像彫刻には円光は見られない。

②仏の表現は先ず仏足石から始まった。その場合、普通の人間の足と区別するために、釈迦であることを示す法輪を刻んだ。初めは簡単であった輪相も、やがて荘厳になっていく。

③仏像の起源は、西方文化の刺激によりインドの北方のガンダーラやマトゥーラで起こってくるが、ガンダーラの苦行仏頭部の無文の円形光背が円光のもっとも初期のものという。諸種の経典に、仏は全身あるいは体の一部より光明を発すると書かれていることを表現したのと、仏足石と同じように普通の人間と異なったものを付加して、それによって神であり、仏であることを象徴させようとしたものであろう。

④光背の原型は円形頭光と肩光である。円形頭光は太陽を、肩光は火焔を象徴し、円光は初めは単純な輪、肩光も肩先にわずかに見える程度だったのが、伝播していく間に円光は加重され、肩光も順次伸びてやがて全面火焔になり、さらに両者が合体し、そこに唐草などの装飾が豪華に飾られるようになる。その後装飾性が強まり、蓮華、宝相華、唐草、瑞雲といったものが中心となって火焔は脇に追いやられてしまい、光背は仏像のうしろを飾る装飾品となっていくようである。

古代エジプトの太陽神ラーは円光を頭上にかかげた神である。ペルシアでは王がアフラ・マズダ神から王権を象徴するファルナフ(光輪)を授けられている絵があり、ファルナフは太陽・光を意味する言葉である。古代人にとって太陽は永遠に尽きることのない光であり、貴賤老若、人類鳥獣植物虫魚を問わずその恵みを与えるということから神を象徴させるイメージとなったのであろう。

⑥西方ヨーロッパにおいて、もっとも円光を輝かすものはキリスト教における絵画・彫刻であり、東方の仏教における光背とまさに双璧をなすものである。これも初めは頭上に細い金の輪だけの円光だったのが、金の点線を放射状に円く描いたり、宝冠様の飾りが複雑に充填されるようになる。

⑦蓮華を上方から見た円花文は、エジプトに5000年前から存在し、ペルシアのペルセポリスにおいても至る所に浮彫りされ、アッシリア帝国も円花文様のおびただしい遺品を残している。円花文はまた太陽の象徴でもある。経典では、蓮は泥中から生い出て泥の汚れに染まることなく清浄な花を開くといったように解釈されているが、太古の人類が蓮に対して持っていた呪術性・象徴性を忘れている。蓮は太陽、水、そして生命という人類の根元のものと結びついていたのである。


 素人の目から見ても、密教と火焔光には密接なつながりがあるように感じますし、また先日、テレビの番組で桜井市聖林寺にある国宝十一面観音像の光背が薬王樹という薬草を文様化したものだと言ってましたが、その辺のことにも言及があればよかったと思います。

篠田知和基『日本文化の基本形〇△□』

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篠田知和基『日本文化の基本形〇△□』(勉誠出版 2007年)


 篠田知和基の形についての本は、以前、『ヨーロッパの形―螺旋の文化史』(2011年7月7日記事参照)を読んで以来。その本と同じく、いろんな例証が次から次へとくり出されてきますが、違う例があるような気がしても浅学非才のためそれが何か思い出せないのが歯がゆいところです。専門家から見ればおかしなところもあるのではないでしょうか。それはともかく、日常の物事のいろんなところに目をつけているのには感心しました。

 冗舌体で、講演会を聞いているような感じで、従って記述に重複も多い。「はじめに」と「序章」だけで100ページ近く、全体の五分の二の分量がありました。日本と西洋の比較文化論で、単純な図式にすれば、日本の形は四角が多く、静止形が基本で回転運動がないが、西洋は丸や三角が多く、それは体の動きなど運動性に基づいている、というものです。しかし、日本が四角で西洋が丸だとしても、そんなことはどうでもいいような気もします。

 日本の形が四角いという例は次のようなもの:日本の着物は長方形の布をはぎあわせただけ、下駄は真四角な板の履物、日本料理では刺身でも豆腐でもたいてい四角い皿に盛るし、枡酒などというと外人は酒のグラスまで四角いのかとびっくりする。
西洋が丸と三角という例を挙げてみますと:洋食器は丸皿が標準で、パンでも本来は丸い塊、チーズもピザも丸い。建物も丸く、テーブルも文字盤も丸い。教会のバラ窓、競技場も丸い。三角は、チーズやピザの場合、丸いものを八つなどの三角形に切り分けるのが普通、西洋の騎士物語などの旗印には、三角形のもの、あるいは、三角形をふたつ重ねたようなものが少なくない。

 それ以外の日欧比較では、服飾に関して、和服にはボタン、フック、留め金など一切なく、若干の紐でしばるほかは帯を巻くだけ、アクセサリーもなく、古墳時代はそれでもかなりきらびやかなアクセサリーがあったようだが、なぜか、これらの「玉」を身にまとうことはすたれてしまう。一方、西洋では指輪が重要な意味を持つ。技術の面では、日本では杵でつく搗き臼に対して西洋では磨り臼。日本の包丁は叩き切るが西洋には包丁も存在せずクッキングナイフであり叩き切ることはない。そもそもまな板がない。日本では釘を叩きこむが西洋では螺子をねじ込む。日本の戸は引き違いであるが西洋は蝶番を中心に回転する。日本では車両がなかったわけではないがせいぜい牛が牽くもので西洋ではサスペンション付きの馬車で快適に走った。船も日本の船は平底、無甲板、四角い帆で沿岸航行が基本、西洋は船体が卵型で三角帆で向い風でも航行できた。

 この本を読んでいて感じられるのは、日本が西洋より優れているという日本礼讃の風潮に対して、そうではないという主張がひしひしと伝わってくることです。それがこの本を執筆する原動力にもなっているようです。自虐的とも思えるぐらい。例えば次のような文章。

イエズス会士のみた日本・・・どこの王宮でもみかけた華やかにきかざった宮廷夫人たちの出迎えは一切なく、いかめしい土気色の顔の役人ばかりである(p40)

タウトは日本のいなかへ行っても、どこでも農民が日がな一日水田や畑に背をかがめて地をはうように働いている姿に、驚きと憐憫を感じていた(p43)

何百年ものあいだ、日本の庶民は支配階級のまえでつねに小腰をかがめ、平伏し、目をあげて、主上の顔をまともにみることなど思いもよらぬ生活をしいられてきた(p44)

首狩族というと、大変に野蛮なもので、日本のような『文明国』のことではないと思うかもしれないが、戦国時代の日本では敵の首をとってくると恩賞にあずかったもので、だれもが首狩に精をだした(p133)

 その他の指摘や蘊蓄で面白かったもの、頷けるものは次のとおり。
①ヨーロッパでも狩猟は庶民には禁制で、狩猟肉が庶民の口に入ることは、原則としてはなかった。肉屋というものも中世には存在しなかった。

柳田國男はおにぎりが三角であるのにも呪術的意味があるという。また粽なども三角であり、それは心臓の形ではないかと見ている。「呪物一般に三角形状のもの」が多いと吉野裕子は言う。日本の日常世界では三角は死装束の三角巾にしかあらわれない。

③西洋の紋章には、熊、ライオン、鷲、城、槍などをくわしく描写したものが多いのに対し、日本では、抽象化、単純化、デザイン化したものが多い。もうひとつは、藤、松、竹など植物系の紋が多い。

④幕府の禁令というのもよく分からないもので、誰がどのような問題でお触れを出すのか、どこで決議され、国法として認められるのかだれも知らなかった。いろいろな散発的、思いつき的なお触れの文書があり、その全体は誰も知らないから、役人がそれはご法度だと言えば、それで違法と決まってしまったのかも知れない。

⑤古式ゆたかな伝統の形だと思っているものが、かなり近代になって、それも商業主義によってでっち上げられたものであることが少なくない。文化は大なり小なり、模倣と改竄によってできてゆく。それが時代をこえて続いてゆくなら、やがては「文化」になってゆく。しかし、それが承認され、定着される前であれば、異議をとなえることは許されよう。その場合も、なにがほんらいの伝統の形なのかということは見定めなければならない。