村山貞也『人はなぜ匂いにこだわるか』

f:id:ikoma-san-jin:20200805091636j:plain:w150
村山貞也『人はなぜ匂いにこだわるか―知らなかった匂いの不思議』(KKベストセラーズ 1989年)


 読み始めて、前回読んだ『匂い遊びの博物誌』に比べると、緻密で科学的な書きぶりだと思いましたが、それは最初の部分だけで、あとはきわめて文学的、事例の羅列という印象を受けました。とくに小説の引用が多い。というか逆に考えると、においの世界は混沌としていて、系統だった筋道をもっては語りがたいものなので、事例を見て行くしかないのかもしれません。ただ残念なのは、自分の持っている知識を全部詰め込もうとして、焦点がぼやけてしまっている感じがします。

 においについての分析的な記述は下記のようなものです。
①嗅覚は遠隔感覚であるが、実は、においを発するものから出てくる化学物質に触れて感じるという意味で、味覚と同じ接触感覚である。目と耳も遠隔感覚であるが、こちらは外部からの電磁波や音波の刺激を物理的に受けるのに対し、鼻は口と同様化学的な受容をする。

②「鼻腔」は、三つの甲介によって三段の棚のように仕切られており、その間を、三つの「鼻道」が奥に通じている。鼻から吸った空気の大部分は下・中鼻道を通って、気管を経て肺に送られるが、上鼻道に入った空気は、表面が粘液状の嗅上皮に触れて、嗅繊毛がにおいを感知する。においを感じると、電気信号を発し、神経を通じて脳のなかのにおい担当部位へ伝えられる。脳中枢には過去の諸経験の記録が刷り込まれていて、よい匂い、不快な臭い、危険なにおいを判断する。

③嗅覚については、視覚や聴覚のように、補助的な機器は開発されたなかった。例えば、視覚では、眼鏡、拡大鏡、顕微鏡、望遠鏡、レーダー、テレビ、聴覚では、補聴器、集音器、スピーカー、ラジオ、マイクなど。人間は嗅覚に対し抑圧さえしてきた。

④においをだすものは、40万種とも50万種とも言われるが、きちんと分かれているものではないから、においに数はないと考えたほうがよい。世のなかに「音」がいくつあるかなどと考えるようなもので、ナンセンスである。

⑤においには、白、赤、黄、緑、青、藍、紫といった色の名前のようにしっかりとしたことばの区別がほとんどなくて、「何々のようなにおい」というように、付臭物の連想で説明されることが多い。


 事例として面白かったのは、
正倉院御物の蘭奢待は、特別上品(じょうぼん)の沈香で、蘭奢待という三つの文字の一部を取りだすと「東大寺」となり、聖武天皇東大寺建立の悲願をあらわして名づけられている。→いま読んでいる本によれば、東大寺の知恵のある僧侶が武将の関心を得ようと、室町時代に考え出したのではないかと書かれていた。蘭から草冠を取ると闌となり「猛し」という意味で、奢はおごる、待は侍の扁に一画多い。二重に意味が隠された言葉だったのだ。

②日本では昔から、「はなひる」こと、すなわち、くしゃみすることは好まれなかった。西洋でも、くしゃみは不吉の前兆としておそれられた。

③日本では、江戸時代まで歯ブラシもなく、髪に粘りと汚臭を発する香油を使っていたので、明治の文明開化に直面して、長い間順応してきた悪臭を除かなければ、ヨーロッパ先進国人と心地よい交際はできないと考えた。→西洋に対しては、先進技術に対する劣等感とともに、そうした劣等感もあったわけですね。

 ほかに、熱帯林のなかにいるあるダニは獣の皮膚から発散する乳酸のにおいだけを感知し、下を通る野生の獣の上に正確に落ちて生活する仕組みになっていること、ラベンダーの語源はラテン語の「ラヴァレ」であるが、これは洗うという意味で、ラベンダーを入浴に使ったことからつけられたものであること、などを知りました。また近松門左衛門浄瑠璃「けいせい反魂香」の一場面が印象的。「六角の家来らが、元信を捕まえると、元信は自らの肩を口で食い破って、口に血を含み、それを襖戸に吹きかけて猛虎を描く。血で描かれた虎は生きて襖から出、元信を助ける」(p224)。

 においにを感じさせる句がいくつか紹介されていましたので、引用しておきます。

蜜柑の香染みたる指を洗はずに(山口誓子

壺焼や醤油の香の潮の香(迷堂)

そのにほい桃より白し水仙花(芭蕉

高藤由明『匂い遊びの博物誌』

f:id:ikoma-san-jin:20200730100156j:plain:w150
高藤由明『匂い遊びの博物誌』(現代出版 1986年)


 しばらく香りについての本を読みます。これはボードレールの詩に南洋の果実や香料の単語がたくさん出てきたので興味が湧いたからです。最初は読みやすそうな本からと思い、「メディアジャーナリスト」と紹介されていた著者の本を取りあげました。香りの専門家ではないと弁解しながら、いろんな参考書で得た知識を自分なりに整理して書かれていました。また自分で質問を投げかけながら答えていくというように、書き方には読者へのサービス精神が見られます。私と年齢が近いので、同じような読書体験をしていることがうかがえました。  

 最初の本なので、初歩的なことでも知らない(忘れている?)ことがたくさんありました。いくつか重要なものを書いておきます。
①まず香りの感覚器官との関係については、嗅覚は諸感覚のなかでもっとも原始的な感覚であり動物的な感性をもっていること、味覚と併せて口のなかの匂いが嗅覚に伝えらえることで味わいが生まれること、甘い匂いが辛く感じられたり酸っぱい匂いを甘く感じたりする幻臭症という症状があること、匂いの快・不快は人間の側の主体的な状態によること。さらに著者は、第六感は衰えた嗅覚の本来の能力をさした言葉ではないかと問うています。

②香りと宗教体験との関係では、火がつくと明るく燃えて香を漂わせる香木の神秘に古代人が神の気配を感じたこと、香り高いものには汚れを祓う祓魔的効果(エクソシズム)があると考えていたこと、クリスマスローズがとくにその効果が強いとされ実際に狂気やうつ病の治療に用いられていたこと。

③女神イシュタルが勇者を誘惑するのに甘い芳香を用いたり、クレオパトラアントニウスと初めて会ったときも薔薇の花を敷き詰めるなど、香料は性的な誘因の道具として使われるが、一方、薔薇はキリスト教世界では聖母マリアの花とされ聖性も帯びている。

④香りの歴史的な紹介としては、西洋では、ソロンが香料の乱用にたまりかねてアテネ市内での香料の販売を禁止したり、古代ローマの市内にある店の四分の一以上が香料店だったというように、ギリシア、ローマで香料が盛んだったこと、アルコールの溶解力の発見はビザンチンが最初だとされていること。中国では沈香が盛んで、それが595年に初めて日本に入ってきたこと、また鑑真和尚が麝香をもたらしたこと、桃山文化が花開いたころポルトガルやスペインの商人との交易により香水が初めて日本に来たこと、明治期に松沢常吉という人が日本で初めて香水を製造したこと、大正6年資生堂から「花椿香油」が販売されたこと。

⑤香料はいろんな視点から分類ができる。材料からは植物性香料と動物性香料の大きく二つの種類に分けられる。香料の割合とアルコールの度数との違いで、アルコール度の高い順に香水、オー・ド・パルファン、オー・ド・トワレ、オー・デ・コロンに分けられる。また匂いによって、フローラル調、アルデヒド調、ウッディ調、モッシィ調、オリエンタル調、グリーン・ノートに分類される。香りの立つ時間の順に、トップノート、ミドル・ノート、ラスト・ノートと異なる表情をすることも紹介されていました。

 そのほか次のような指摘がありました。
*腐ったものやカビ、排泄物は悪臭を放ち、危険を知らせてくれるが、逆に、毒キノコや昆虫に対する食虫植物など、毒でありながら甘い匂いをもつものもある。
*死者の側から見た場合生きている人間は我慢のならない臭いを発するらしい。
*古代人が樹の樹脂を焚いて香りを儀式に用いたことから、ラテン語で「燃焼による」(Per fumum)という言葉が香水を意味するパフュームの語源となった。

 嗅覚を失うと食欲も性欲も減退し気力も失せてしまうように、匂いは人間にとって潤いや色気のもととなる重要な要素である、私たちの科学は匂い―嗅覚をあまりにも置き去りにし過ぎてしまったのではないか、というのが全体を通しての著者の主張のようです。

 「この本には匂いがつけてある」(p15)と、書籍マニアにとっては面白い試みがあったようですが、古本なのであまり匂いはしませんでした。

川島昭夫の二冊

f:id:ikoma-san-jin:20200725121920j:plain:w120  f:id:ikoma-san-jin:20200725121932j:plain:w170
川島昭夫『植物園の世紀―イギリス帝国の植物政策』(共和国 2020年)
川島昭夫『植物と市民の文化』(山川出版社 1999年)


 ともに私の古本の師であり友人であった川島昭夫さんの本。『植物園の世紀』は遺著ですが、収められた論稿を実際に執筆した時期は1989年から96年で、『植物と市民の文化』よりも早く書かれています。『植物園の世紀』は大英帝国の植民地での植物政策を中心に、『植物と市民の文化』はイギリス国内の植物愛好趣味についてとりあげたもので、編者の志村真幸氏も書かれているように(p234)、双方は補完しあう関係にあります。

 両著を通読してみて、ぼんやりと抱いた印象は、やはり川島さんらしさが随所に現れているということです。川島さんについては、大学時代にしか深いお付き合いはありませんでしたが、ひとつは彼の人に対する思いがとても強いということ。戦前・戦後間もなくの歌謡曲を諳んじ、山手樹一郎の時代小説を愛読するなど庶民感覚を大事にし、「関の弥太っぺ」などの人情噺に心を震わせると同時に、学生運動の余波からか、権力や権威を振りかざす者たちを嫌悪していました。科学に対しても高度な洗練された科学よりは、錬金術のような前科学、変人が編み出すような科学を愛していました。また美しいものに対する繊細な感性があって、言語感覚では塚本邦雄日夏耿之介を好み、造形感覚では澁澤龍彦を偏愛していて、彼の下宿「海の星寮」には澁澤の書斎張りの奇怪なオブジェがあちこちにあったことを思い出します。

 らしさが現れているのは、例えば、『植物園の世紀』で、大きな視野からこの時代の帝国の動きを経済的、地勢的に分析する一方、植物園運営者やプラント・ハンターの人物に焦点を当て物語る姿勢です。「一攫千金をはたして、本国へ帰る。それが在地のプランターたちの行動様式であった。植物の悠々たる楽しみは、ヒントン・イーストのごとき、土着化したイギリス人、いわゆるクレオールの家系の出身で、ジャマイカを墓場にする覚悟のあった人にだけ可能であったのかも知れない」(p131)や、「キッドは、ベンガルに植物を集めることで、会社領土のいたずらな膨張が不要になると考えたが、イギリスによるインド支配はさらに拡大をつづけたのである」(p156)という文章には、ヒントン・イーストやロバート・キッド大佐に対する熱いシンパシーが溢れています。

 美に対する感受性は、何よりも文中に挿まれた川島さん好みの数々の図版が証明しています。この本の装幀も素晴らしく、古書収集家で愛書家であった川島さんもきっと喜んでいることでしょう。また「ミルラ(没薬)、オポナクス(樹脂)、オポバルサム(樹脂)、ガム・トラガント、ガジュツ(白鬱金)」(p100)と、呪文のように香料を採る植物を列挙するあたりは塚本邦雄を思わせます。私がすぐこの本を読もうと思ったのは、遺著だったということもありますが、香料のもととなる異国の植物がたくさん出てくることで、このところ読み続けていたボードレールの世界と共通するものを発見したからです。他にも随所に、学術専門書の体裁を取りながら、詩人であり、ボルヘスであるスタイリッシュな文体が見え隠れしています(これは私の思い入れだけかもしれません)。

 この二冊の本で指摘されていることで、無知な私の知り得たことを紹介しておきます。
①高分子化学の技術発展によって工業製品で代替されるようになる以前、植物資源はあらゆる生活の局面で欠くべからざるものであった。植物資源の国外依存による財貨の流出を防ぐために、あらゆる植物を帝国領土内に集めようとする植物帝国主義が誕生する。ある土地に固有の植物を、別の土地へ移植するための輸送法、栽培法、さらに加工法が植物園において研究され、多くの植物学者やプラント・ハンターが活躍した。

②ヨーロッパの植物園は、大学付属の薬用植物園に起源がある。その主な機能は、初期の航海者がもちかえった未知の植物を収集し、その栽培と薬用効果の実験を行なうものであった。一方それとは別に、植物学者、園芸家、薬種商らが私的に行なった楽しみのための植物コレクションの系譜があり、その二つの系譜が一つに統合されたのが、キューの王室庭園であった。

③世界周航をしたクックのタヒチ情報は、文明を知らない人々が労働の苦役から解放され、原初の至福の状態に生きる楽園の神話として流布することになる。その神話的果実パンノキをイギリスへもちかえるべくパンノキ遠征隊が結成されたが、それがバウンティ号だった。→「この遠征は、バウンティ号がタヒチを離れた直後に起こった乗組員の反乱によって失敗に終わる」(p75)と、さらりと書くこの冷ややかな筆致は何ともハードボイルド。

モーリシャス島を舞台とする『ポールとヴィルジニー』には熱帯産植物の農園が描かれているが、著者のド・サン・ピエールはパリの王立植物園の園長でもあり、この島に3年間滞在したことがある。そのとき、ド・サン・ピエールは、後にフランス最初の植民地植物園のもととなる農園を知っていた。それを作ったのはピエール・ポワヴルと言ったらしい。→ポワヴルはおそらくpoivre(胡椒)だろうが何かの縁か?

⑤インドの東部のコロマンデル海岸はヨーロッパ諸国の海外進出のもくろみが錯綜する地域であった。オランダはマウスリパタムに拠り、イギリスはその南にマドラスを建設、フランスはポンディシェリデンマークはトランケバールと、それぞれの定住地を有していた。→ポンディシェリは昨年読んだMaurice Magre『Nuit de haschich et d’opium』(モーリス・マグル『ハシッシュと阿片の夜』)の舞台になっていた。

⑥各国の植物研究者たちは国を越えた連携を行なっており、科学者の国際的な「共同体」というものに属していたことが分かる。また彼らを駆り立てた原動力は、自然界の調和に創造主の無限の摂理をみいだしていたプロテスタンティズムであったり、産業革命で成功した実業家たちが多かった非国教徒のクェーカー(この部分は『植物と市民の文化』)であったりした。またスコットランド人も多かったが、エディンバラ大学の教授で植物園長だったジョン・ホープの教育もさることながら、イギリス本国のなかの一種の外国というスコットランドの位置も関係している。
―以上『植物園の世紀』より。

①ロンドン植物園は会員制というシステムで運営された。同じように、市民たちによる自発的な団体としての「園芸協会」の付属施設として、地方都市の植物園がハル、グラスゴウなど12カ所にできた。同じ時期に、出版界でも、先に費用負担を呼びかけてから印刷する予約出版というシステムができ、また書物の購入者たちが、本の購入資金を共同で拠出し、購入した書籍を共同で管理する一種の読書クラブが組織された。これは公共図書館の起源の一つとなったが、こうした時代背景には、公共的精神の誕生ということがあった。

②地方の貴族は、カントリー・ハウスのまわりを庭園とその外側の狩猟用林地で包囲することで、領地の農民たちのぶしつけな視線から遮断し、目に見えないことによってさらに威信を強化しようとした。さらに貴族同士でも、カントリー・ハウスを作ることで、威信をかけた社会的競争をはかった。イギリスにもともと自生する樹木はヒイラギ、イチイ、ツゲの三種しかなく、多彩な表情を求めたため、異国的な外来植物の庭園への大量配置という現象を引き起こした。

③園芸は、適度な身体の運動と、植物にかんする知的な興味とを結びつける「合理的な娯楽」の典型であり、しかももう一つのミドルクラス的な価値「家庭崇拝」ともよく合致した。労働者階級や農村の零細農民においても、花を守り育てることが流行し、ナデシコの栽培に熱狂するペズリのような工業都市もあった。が都市の過密により、労働者のあいだのフロリストの活動は消滅していき、郊外に居を移した中流階級の庭づくりに継承されていった。

④このヴィクトリア朝の園芸と植物への関心には、異国への憧憬と並んで、イギリスの農村への回帰願望がつきまとっていた。帝国主義下のイギリスで、イギリスらしさとは何かという問いに対して、短兵急に過去回帰的な田園風景をその答えとした感がある。「もしもイギリスらしさがあるとすれば、それは帝国とイングランド、都市と農村、進歩と回帰、二項対立的なさまざまな要素が、いずれが優位とはっきりした決着がつけられることなく共存し交じりあう妥協と折衷、エクレクティシズムであったとはいえないか」(p79)
―以上『植物と市民の文化』より。
 
 もう少し彼とお話ができていたら、18、19世紀のオリエンタリスムとの関係や本草学との関係なども聞いてみたかったと思います。

二つの古本市をはしご、浜松の古本屋など

 買った古本の話の前に、古本の師でもあった友人が今年2月に亡くなり、その形見分けとしていただいた本を紹介します(2月11日記事参照)。
小栗虫太郎黒死館殺人事件』(新潮社、昭和10年5月、―)→松野一夫装幀
f:id:ikoma-san-jin:20200720095927j:plain:w140  f:id:ikoma-san-jin:20200720095917j:plain:w164
 そのときも書きましたが、この本は大学時代に彼に頼まれて買いに行った本です。大学三回生の頃だと思いますが、当時は毎日のように顔を合わせていて、私が千本通り近辺の古本屋に行くという話をしたら、八木書店に黒死館があるから買っといてと頼まれました。800円だったと覚えていますが、当時の身分ではとても手の届かない値段で、彼もかなり逡巡のうえ、私に頼むことで決断されたというような感じでした。本が店の棚のいちばん上の段にあって、手が届かず店主に取ってもらったのをよく覚えています。ただ先日の古本市で、共通の知人の古本魔人M氏によると、福田屋金蔵書店で買ったというふうに聞いているということで、私の単なる妄想による記憶違いかもしれません。


 先週土曜に、ツイン21古本フェアとたにまち月いち古本市の二つの古本市のはしごをしました。コロナがまた増大しつつありますので、これが最後になるかとの思いもありました。久しぶりに古本仲間が集まりました。案の定、8月の下鴨納涼古本まつりも中止になったようです。

 ツイン21では、下記を購入。
櫟原聰『夢想の歌学―伊東静雄前登志夫』(雁書館、95年1月、800円)
光仁三郎『原初の風景とシンボル』(大修館書店、01年6月、500円)→斜陽館の出品。
中村喜和『聖なるロシアを求めて―旧教徒のユートピア伝説』(平凡社、90年10月、300円)→光国家書店。キーテジの伝説が出ていたので。
 他に、CDが300円均一で大量に出ていたので、そこから3枚。
f:id:ikoma-san-jin:20200720100118j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20200720100104j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20200720100050j:plain:w170 
 たにまち月いちでは、
M.LIMAT『la maleficio』(FLEUVE NOIR、76年、150円)
比較文学 第47巻」(日本比較文学会、平成17年3月、200円)→以上二冊、寸心堂。
谷川俊太郎/渡邊一考編『神様も大あくび―世界のライト・ヴァース5』(書肆山田、83年1月、500円)
堀越孝一『わがヴィヨン』(小沢書店、95年8月、800円)→矢野書房だと思う
f:id:ikoma-san-jin:20200720102203j:plain:w130  f:id:ikoma-san-jin:20200720100214j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20200720100227j:plain:w150

 今月初め、コロナ禍をおして、毎年恒例の学生時代友人の夏合宿が浜名湖であり、帰りに浜松の古本屋に1軒だけ立ち寄りました。典昭堂というお店で、以前静岡の古本屋へ行ったとき、値付けの高さに驚愕したことがありましたが、このお店は良心的で、破格の値段でした。常連さんとの交流を大切にしているらしく、お二人ほど古本購入の相談に来られていました。
西出真一郎『木苺の村―フランス文学迷子散歩』(作品社、10年4月、300円)
村松貞也『人はなぜ匂いにこだわるか―知らなかった匂いの不思議』(KKベストセラーズ、89年7月、100円)
吉山浩司『数はどのようにして創られたか―中国古代史探究の旅』(私家版、奥付なし、100円)→小説仕立てで、中国古代史を語る奇怪な本。
f:id:ikoma-san-jin:20200720100408j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20200720100421j:plain:w140  f:id:ikoma-san-jin:20200720100433j:plain:w140

 オークションでは、
芳賀徹監修/千葉真智子構成・編集『桃源万歳!―東アジア理想郷の系譜』(岡崎市美術博物館、11年4月、2150円)
村松伸『書斎の宇宙―中国都市的隠遁術』(INAX、92年10月、1000円)
シャトブリアン小島文八譯『哀調』(新樹社、昭和40年2月、1000円)→帙入り
アンドレ・モオロア平野威馬雄譯『アラベスク』(昭森社昭和17年6月、300円)→古澤岩美装幀・挿画
f:id:ikoma-san-jin:20200720100613j:plain:w190  f:id:ikoma-san-jin:20200720100644j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20200720100656j:plain:w120  f:id:ikoma-san-jin:20200720100708j:plain:w150

山田兼士とヒドルストンのボードレール論

f:id:ikoma-san-jin:20200715135344j:plain:w152  f:id:ikoma-san-jin:20200715135400j:plain:w150
山田兼士『ボードレール詩学』(砂子屋書房 2005年)
J・A・ヒドルストン山田兼士訳『ボードレールと「パリの憂愁」』(沖積舎 1991年)


 これで、ボードレールについて書かれた単行本で私の所持しているものは最後です。今年1月から半年間ずっとボードレール関係を読んできました。まだ重要だと思われる阿部良雄福永武彦、ジョルジュ・ブラン、マルセル・リュフなどが抜けていますし、雑誌がいくつかと、『悪の華』の翻訳書も残っていますが、ボードレールはしばらく間をおきたいと思います。読書は義務感が上回ってしまうと面白くなくなってきますので。

 この二冊は著したにせよ翻訳したにせよ山田兼士が書いたもので、ともに文章中に括弧が頻出して目がちらちらしたのは困ったものです。とりわけヒドルストンの本は文人の発言や研究書への言及が多いのと、丁寧に訳そうとしていて文章が長くなっているのも原因だと思いますが、なかなか文章がすんなりと頭に入ってきませんでした。歳とともに集中力がなくなっているのが真相かもしれません。二冊で共通性が感じられたのは、『ボードレール詩学』で、ヒドルストン本の中心テーマである『パリの憂愁』の話題が取り上げられているところです。


 『ボードレール詩学』は著者のボードレールについての三冊目の本ということで、前著からこぼれた雑多なテーマを寄せ集めたという印象がありました。三つの章からなり、第一章は、『悪の華』から『パリの憂愁』への移行を「夜のパリ」から「昼のパリ」への移行と見てその予兆を『悪の華詩篇の中に探り、また『パリの憂愁』の前半部と後半部の女性像の差、ベルギーで書かれた『パリの憂愁』の最後の部分について論じ、第二章は、コローの絵画とボードレールの芸術論の接点について、第三章はコクトーの映画との共通性について考察しています。 

 恒例により、いくつか印象的だった論点を独断と偏見で要約し感想を交えて紹介します。
①『悪の華』から『パリの憂愁』へどういう変化があったかは、観照的態度から行動的態度へ、矛盾対立を統合しようとする照応の詩学から異化を際立たせる対位法の詩学へ、憂愁に満ちた深遠な夜のエネルギーから昼の日常的平俗性へ、と見ることができる。『悪の華』再版に入れられた「パリ情景」において、すでにその越境が試みられていた。→これは晩年のボードレールが直面した日常の悲惨を描くには昼のポエジーが必要になったということであろう。

②『パリの憂愁』に登場する女性像は、前半においては、「麗しのドロテ」に代表されるように、女神と生身の折衷的存在であり、大理石像や熱帯の風景とともに悦楽のイメージに彩られていたが、後半においては、「マドモワゼル・ビストゥリ」に代表される無垢な怪物としての不条理なイメージとなる。それは母オーピック夫人を祖型とする女性像であり、他の詩篇にもさまざまな年齢の姿で母が登場している。

ボードレールが晩年に滞在したベルギーを罵った『哀れなベルギー』と同じ視点が、すでにボードレールの中学時代のリヨンでの手紙に見られる。→ボードレールは性格的に今いる場所に不満を持つタイプだったのではないだろうか。それが「anywhere out of the world」という言葉に表れているのでは。そしてリヨンの中学時代すでに革命にシンパシーを持ち社会的な意識に目覚めていたことが分かった。

ボードレールの詩には、風景と人体とのアナロジーをベースにしたものがあるが、美術論においても、風景画の構造を人体の構造になぞらえるという観点を導入していた。コローの肖像画にはその応用が見られる。


 ヒドルストンの本も三章からなり、第一章は、『パリの憂愁』が『悪の華』と異なり、詩集全体の構成を考慮していないことを述べた後、ほとんどの作品が芸術や芸術家をテーマとしていること、第二章では、ボードレールが良き感情の文学を嫌い、紋切型を装いながら、アフォリズム的表現を使って、読者を不快なモラルに導こうとしていることを具体的作品で検証し、第三章では、韻文と散文の違いを技法的な視点から解説し、日記や後期作品も参照しながら、『パリの憂愁』と『悪の華』の違いについて考察しています。

 おぼろげにいくつか理解できたことを私なりに書いてみますと、 
①『パリの憂愁』において、芸術家は、ロマン派の詩人たちが主張していた特権と栄光をほとんど失った姿として描かれている。道化としての詩人への言及は、『悪の華』では比較的少なく軽微なものだったが、『パリの憂愁』ではより発展し、主題の上ではるかに重要になっている。

ボードレールは生涯の後半、韻文から散文への移行の技巧的な工夫に没頭していた。韻文のアレクサンドランを破壊して散文のリズムに置き換えたり、隠喩など比喩表現を縮小し、代わりに細部を拡大するなどした。語り、解説という知性的なものを優位に置き、アイロニックな不調和を侵入させることで、多様な調子を生み出した。その結果、韻文において実現していた抒情性は拒否され、不協和音の方へ重点が移行していった。→ボードレールは詩から逃れようとしていたとも考えられる。

③「老婆の絶望」の各段落の冒頭に「Etそこで」、「Maisところが」、「Alorsすると」という接続詞を置き、構造が際立つようにしているが、この技巧はベルトランに負っているものの、散文詩全体としてはベルトランの静的な世界とは無縁で、むしろ短さを志向したポーの短篇から得たものが多い。ボードレールはこのジャンルにおいていかなる真の先駆者も持たず、またいかなる適切な後継者も持っていない。→この後継者として、優雅な厭世観に満ちた瞑想的散文を制作したラブ、ルフェーヴル=ドゥーミエという紹介があったので、一度読んでみたい。

ボードレールが『パリの憂愁』で成功させた美学は、現実界想像界を混合し、生の深遠を不安定に露呈させる幻覚作用である。その技巧には、雰囲気や感覚を一瞬のうちに変化させる言葉、「しかしmais」、「ともかくtoutefois」、「突然tout à coup」の多様、また矛盾を生じさせ不安定や不調和の感覚をもたらす撞着語法がある。ボードレールが多くの散文詩で達成しようとしたものは、一種の不調和の詩であったように思われる。

 なぜボードレールが韻文詩を捨てて、あるいはもう書けなくなって、詩的散文に向かったのか、また『悪の華』のどろどろとした怨念、呪詛のようなものがすっきりとこそげ落ちて、明るい諧謔や詠嘆に変わって行ったのか、まだもやもやと謎が残ります。

J.M.A.Paroutaud(パルト)の作品

f:id:ikoma-san-jin:20200710073044j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20200710073059j:plain:w150
J.M.A.Paroutaud『PARPAILLOTE et autres contes cruels(パルパイヨット―ほか残酷譚集)』(on verra bien 2020年)
J.M.A.Paroutaud「Petit traité de ma médecine(療法小概論)」(『LE PAYS DES EAUX(水の国)』on verra bien 2018年、所収)


 この二冊は、ブログにコメントをもらったことがきっかけで、on verra bienの編集者Yann Fastierさんから寄贈いただいた本です。『LE PAYS DES EAUX』は以前の版で読んでいたので、未読の「Petit traité de ma médecine」と序文のみ読みました。これでParoutaudの作品はほとんど読んだことになると思います。Paroutaudの日本語表記を今回は、パルトにしました。シュネデール『フランス幻想文学史』では、パルトーになっていたので、以前はパルトーと書き、パルトゥと書いたりいろいろしましたが、グーグル翻訳で発音させてみると、パルートと聞こえるぐらいだったので、お尻の長音を削除しました。

 『PARPAILLOTE et autres contes cruels』では、「Parpaillote」の総題でまとめられた6篇は、死の臭いがしたり諧謔味は漂いますが、かなり普通の小説の体裁をしています。なかでは、「Gros Marcel, Beau Marcel(太っちょマルセル、立派なマルセル)」は『La Descente infinie(無限の下降)』の田舎の年代記風作品と同じテイスト。いろんな人物が描かれることで、中心人物を取り巻く町全体の雰囲気が醸し出されるようになっています。タイトルになっている「Parpaillote」は虐げられる少女を主人公にした一種の自伝的小説。パルトは幼い頃、父親を早く亡くして苛められた経験があったのかもしれません。

 しかし、何と言っても、パルトの神髄はこの本に収められたそれ以外の作品、「Temps fou(気違い日和)」の寸言詩的な諧謔や、「Que les temps seront tels(なるようになる)」、「Autre événement(ほかのできごと)」の奇想、「Textes inédits(未発表作品)」の悪夢のような収容所の不条理性でしょう。パルトの文章には、奇矯な想像力が横溢しています。また何事にも最悪のケースを考える悲観的な物言いがあり、揶揄するようなところがあります。パルトは年少時によほど誰かに苛められたでもしたのか、他人に仕返しをしたいという欲望や敵対心が潜んでいると同時に、どこかマゾヒスティックな感性も感じられます。Fastierさんは、『Parpaillote』の序文で、パルトを「残酷物語と黒いユーモアの二つの伝統の継承者」であり、「リアリストと幻想家の混在する作家」としています。

 『PARPAILLOTE』のなかで、もっとも秀逸だったのは「L’AIR(空気)」で、空気がときに粘着質になったりレンズのようになったり、おろし金のようになったりまた乾燥した粉のようになって人間を傷つける恐怖を描いた絶品。

 ◎は、強烈な陽光が人を焼く「LE SOLEIL(太陽)」、泡が橋も吹き飛ばす「LA BULLE(泡)」、景色が眼に貼りついて目くらになる「LES YEUX FIXES(固まった眼)」、描いた顔が変形し紙が盛り上がってはじける「Dessins(素描)」、煙のオブジェを作る「Le mouleur de fumée(煙の鋳造工)」、生きた指輪が人をも殺す「Les bagues de chair(肉の指輪)」、地図上の一部にだけ起こる「Nuit partielle(部分的な夜)」、棘が骨にまで届き花を開かせる「Pousse épine(棘が生える)」、テキスト自体に虫がついて意味をなさなくなってしまう「La disparition des oeuvres(作品の消失)」、建物の迷路を辿って行くと手術が待っている「Couloirs(たくさんの通路)」、裸の女を追って洞穴に入り身動きができなくなる「Poursuite(追跡)」、欠陥住宅のあれこれが出てくる「Lorsque les choses...(あちこちが…)」、蛞蝓のような牛を描いた「Les vaches sans pattes(脚のない牛)」、大地が傾く「La terre qui se renverse(ひっくり返る大地)」、光を手で掬って作る「Le sculpteur de lumière(光の彫刻)」、作家が意味のない文章を書こうと苦闘する「Ne rien signifier(なにも意味させない)」、迷宮のような構造の断崖上の館を描く「Une autre maison(ある立派な館)」。

 〇は、「Gros Marcel, Beau Marcel」、「Le porte-femmes(女性運搬係)」、「Temps fou」、「L’OMBRE(影)」、「L’EAU(水)」、「TERRE(大地)」、「OBJETS(物体)」、「MALADIES(病人)」、「SUEUR DE SANG(血の汗)」、「PARTIELLEMENT(部分的に)」、「JOURS(曜日)」、「LETTRES(手紙)」、「LES NOMS(名前)」、「Écrire(書く)」、「Les plates(平たいもの)」、「L’arbre de pierre(石の木)」、「Le judas(覗き窓)」、「La pêche(釣り)」、「L’épouvantail(案山子)」、「Mainte façon…(いろんな方法)」、「L’orange vivante(生きているオレンジ)」、「Boxe(ボクシング)」、「Un os(骨)」、「Perte de la bouche(口がなくなる)」、「Outre(革袋)」、「Les hommes plats(二次元の人間)」、「Clouer une ombre(影を釘付けにする)」、「Courses(徒競走)」、「Promenade(散歩)」、「Ne pas sortir la nuit(夜には外に出ないこと)」、「Les pierres(石)」、「Cinéma(映画)」。

 「Ne pas sortir la nuit」は物語の断片のようで、何かの気配を感じさせます。象徴主義小説と言うべきか。書きかけ途中の草稿かもしれませんが、敢えてこういう作品を書いたとすればなかなかのもの。「Temps fou」の一節に、小学校の頃の同級生を語ったと思われる文章があり、「病気をうつしてみんな死に本人も死んだ」と書いてありましたが、これは著者の生年から類推するとスペイン風邪のことではないでしょうか。また「Textes inédits」の収容所が舞台となった連作は、『La Descente infinie』の「LE ONZIÈME CÉSAR(11番目の専制君主)」に共通するものが感じられましたが、これは著者自身も経験した第二次大戦のレジスタンスが影響していると思われます。


 「Petit traité de ma médecine」は、新しく発見したと称する三つの病気の症例と療法、病原菌について、「療法小概論」というタイトルどおり、いかにも学術論文風に書いたものです。いずれも奇想に満ちた病気で、『Parpaillote』の「MALADIES」、「SUEUR DE SANG」の延長線上にあると言えます。表皮と真皮の間に球形の腫物ができて体中を動き回る「Les boules(球形皮膚病)」、高熱と低熱を繰り返し下肢に水腫ができ筋肉と骨が表皮と分離する「Maladie de Pozzi(ポッツィ病)」、地下で長い間暮らした人がなる伝染病で、髪や皮膚が透明になり激痛をもたらすが地下に戻してやると症状が改善する「Maladie de Lefou(ルフー病)」が紹介されています。

ベンヤミン『ボードレール』

f:id:ikoma-san-jin:20200705065414j:plain:w150                                      
ヴァルター・ベンヤミン川村二郎/野村修/円子修平訳『ボードレール』(晶文社 1975年)


 そろそろボードレール関係の本を読むのにも疲れてきました。頭が朦朧としてきたのか、意味がつかめない文章がたくさんありました。とくに「セントラル・パーク」の箴言的文章。それに文章の所々にマルクス主義の視点が見え隠れし、ボードレールの世界から離れてしまっている部分に違和感がありました。ベンヤミン鹿島茂の本などで引用や紹介は目にしていたものの、本人の書いたものはこれまで読んだことがありませんでしたが、博覧強記型の文人で、社会に対する目配りはもちろん、文学全般への造詣の深さに感心しました。

 ベンヤミンは一文芸の鑑賞者というよりは、世界全体を見究めようという哲学者で、個々の詩の解釈に耽るというよりは、自身の世界観、社会観を確かめるためにボードレールを素材にしているという印象です。19世紀のフランス社会に対する鋭く深い洞察があちこちにあり、「万国博覧会は商品の交換価値を神聖化する・・・商品の使用価値は後景に退いてしまう」(p18)、「17世紀において、アレゴリー弁証法的形象の規準であったように、19世紀においては新しさがその規準となる」(p26)といった箴言的な文章と、「第二帝政の盛時には、大通りの商店は夜の10時前には店を閉めなかった。夜歩きが盛んだったのである」(p88)、「1840年には亀をパサージュで散歩させることが、上品なことと見なされた」(p93)というような観察的文章が混在しているのが面白いところ。

 いくつか理解できた範囲のなかから概要を紹介しますと、
「パリ―19世紀の首都」においては、ボードレールの生きた時代を、産業の興隆とそれに伴う都市の変貌を人々の意識の変化とともに俯瞰し、次の「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」では、陰謀家、屑屋、群集、遊民、ヒーローとしてのダンディなど、ボードレールの詩や文章に現れた都市生活者を主として考察し、「ボードレールのいくつかのモティーフについて」では、衝撃の体験がボードレールの詩の意識性を高めたこと、ボードレールにとっての群集の意味、賭博、万物照応アウラなどを論じています。最後の「翻訳者の使命」はボードレールは出てきませんが、『悪の華』の「パリ風景」のドイツ語訳者であるベンヤミンの翻訳観が窺える文章となっています。

 見当違いの概要はさておき、個々の考察のなかで印象深かったことを私の感想と併せて書いておきます。
①新聞の本質は、新奇性、短さ、解り易さを原則として、個々の事件を相互に滲透させないように無関連に組んでいるところにあるとし、物語ができごとを報告者の生に照らし、経験として伝えようとするのと対比している。物語には語る人の痕跡が残るが、新聞には残らないと言う。これは今日の断片情報が飛び交う情報社会が新聞に始まっていることを指摘するものだと思う。記者は役所の縦割りを批判するが、情報の縦割りを作ってきたのは新聞だったということである。

②このことは、ジンメルの言葉として引用されていた「バス・鉄道・市電が発達する以前には、ひとびとが互いに一語もかわさずに数十分、どころか数時間も見つめあうことを余儀なくされるようなことは、なかった」(p72)やエンゲルスの言葉「各人が舗道の右側を歩くという暗黙の合意・・・しかし誰一人として他の人々が一瞥に価するなどとは思ってもみないのだ。残酷な無関心・・・かれらが狭い空間に凝縮されているだけに、いっそう厭わしく侮辱的に眼に映る」(p180)が示すように、同時的に社会に起ってきた断片的非連繋的なあり方と呼応するものだ。以前は空間において連携していた生活のあり方が、専門性において連携するあり方に変化したわけだ。コロナ禍によって明るみになったのは、専門性の違いによって異なる対応を迫られる社会の姿で、大胆に言ってしまえば、ほとんどが虚業だったということである。

③これもライクという人の引用で、「意識化と記憶の痕跡の残留とは同一系統のなかでは両立しえない」(p171)という言葉があったが、これは何かを思い出そうとするとき眼前の物や別の言葉に妨害されるという経験からすると、そのとおりだと思う。この後、「記憶の渣滓は・・・いちども意識にのぼらなかったときにもっとも強烈でもっとも持続的である」という言葉が続くが、これは匂いの記憶や雰囲気としての記憶が生存の根底につながるような力を持つということだろう。

④翻訳論はいささか青臭い議論のように思えた。ベンヤミンは「詩は読者の、絵は鑑賞家の、交響曲は聴衆のために書かれるのではない」(p262)と書いているが、作品を発表するからには、やはり読者を前提にしなければ意味がないのではないだろうか。問題は誰に向けて書くかということだろう。翻訳については、「原作が読者のためにあるのでないとすれば、翻訳はこの関係からどのように理解されうるのであろうか」(p263)と暗に翻訳の創作性を促すようなことを書いている。ベンヤミンの言葉では「翻訳の言語のなかに原作の反響を目覚めさせる」(p271)ということになる。