何かの気配を感じさせる音楽 その③

 気配を感じさせる音楽がないかと、『ロシア音楽の祭典』のCDに入っていた作曲家を追ってきましたが、これまで取り上げた以外のロシアの作曲家では、ムソルグスキーに濃厚に現われているようです。私の知っているのは「展覧会の絵」と「禿山の一夜」ぐらいですが、ともにリムスキー・コルサコフが遺稿に手を加え、「展覧会の絵」ではピアノ原曲をさらにラヴェルがオーケストラ用に編曲しています。
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展覧会の絵、はげ山の一夜』(PHILIPS PHCP-1688)
リッカルド・ムーティ指揮、フィラデルフィア管弦楽団

 「禿山の一夜」は、気配を感じさせる音楽の筆頭に挙げるべき作品で、全篇そうした雰囲気に貫かれています。とりわけ冒頭の小刻みな高弦のリズムと重金管(こんな言葉あるかな?)の咆哮が出色です。あまりに有名なので引用するのもどうかと思いますが(https://www.youtube.com/watch?v=rwZXdxQCHj0)。その後、グロテスクで滑稽な節回しがところどころ挿入され、最後は、悲哀、寂しさの混じった弔鐘が嫋々と奏でられます。

 「展覧会の絵」では、全般的に描写的で、何かを感じさせる気分が濃厚ですが、とりわけ、次の3カ所にそれを強く感じました。2曲目の「こびと」は、冒頭から50秒ぐらいまで、何かが蠢いているように音を引き攣らせたような短い弦のフレーズと、木管群や鈴で奏でられる下降する音階の二つの部分が交互に応答する構成で、とくに下降する音階が何かを予感させます(https://www.youtube.com/watch?v=3fynmDVSLmg)。12曲目の「カタコンブ」は、朗々と鳴り渡る重金管の響きに想像力をかきたてる不気味な調子があり、14曲目の「バーバ・ヤガーの小屋」は、強烈な打音で始まる冒頭から1分10秒ほどして、ファゴット?の奏でる怪異なフレーズと弦の揺らぎに、何かの気配が感じられました(https://www.youtube.com/watch?v=keh4RvN3sRc)。

 恥ずかしながら、ムソルグスキーのそれ以外の作品をあまり聞いたことがなく、たまたま手もとにあったCDに収められた「コヴァンシチナよりペルシアの奴隷の踊り」(『Exotic Dances from the Opera』)を聞いて、冒頭の不安定なメロディに少しそうした部分を発見したぐらいです。

 気配の音楽を書いたロシアの作曲家として次に挙げるべきは、やはりストラヴィンスキーになるでしょう。実際にそれらの楽曲を書いたのはフランスでなので、ロシアの作曲家とするのは異論もあると思いますが、ロシア生まれ、かつリムスキー・コルサコフの生徒だったので。
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バレエ音楽火の鳥』(全曲版)(PHCP-3625)
コリン・デイヴィス指揮、王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

 やはり「導入部」の冒頭にものすごい気配を感じます。宇宙が誕生するかのように初めは聞こえないほどかすかな音が次第に凝縮して、もやもやとした気配を形成していきます(https://www.youtube.com/watch?v=P-d2oP65J9U)。これは次の第Ⅰ部「カスチェイの魔法の庭園」まで続きます。その後、カプリチョスという言葉がふさわしいくらい、目まぐるしく飛び跳ねるような曲想が展開し、仙境にいるかのような夢幻的な美しさの「火の鳥の嘆願」の後半にまた気配のフレーズが復活したり、「イワン・ツァレヴィチが突然現れる」のホルンの悠揚とした響きに答えるように弦がトレモロで不安げな音を奏でたり、「夜明け」の終りから「魔法のカリヨン」にかけて何か起こりそうな慌ただしい雰囲気が巻き起こったり、そして「不死身のカスチェイ到着」で弦の震えが不気味さを煽ったりなどしますが、最後の「カスチェイの宮殿とその魔力が消えうせる…」でも終わる前にほんの少しだけ気配が現れます(https://www.youtube.com/watch?v=YO1vo-y-rjM)。蛇足ですが、最後の方にある「子守歌」は「展覧会の絵」の中に入っていても見分けがつかないような曲です。

 『春の祭典』はストラヴィンスキー自らが指揮している下記のCDです。
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バレエ音楽春の祭典』、バレエ音楽ペトルーシュカ』(ANC-39)
ストラヴィンスキー指揮 コロンビア交響楽団

 全体の印象を述べれば、「展覧会の絵」の直系という感じで、初めから終わりまで気配に満ちていて、どの部分を紹介すればいいか迷うほどです。序曲の冒頭からもやもやとした蠢動があり、徐々に騒がしくなり形を成してきますが、2分半ほどして冒頭のもやもやが再び現れる部分が気配が最高で(https://www.youtube.com/watch?v=s0xRMhT2wU0)、次の「春のきざしと若い娘達の踊り」の激しいリズムにつながり、そのまま気を緩めることなく進み、「誘惑の遊戯」、「聖者の行進」、「大地の踊り」でも渦巻くような音の洪水のうちに緊迫感が持続します。第2部の「序曲」も冒頭からしばらく冬眠から覚めるような感じの気配が立ち込め(https://www.youtube.com/watch?v=LTschDyMwPE)、最後の「いけにえ」においても、何か進行していくような強いリズムが刻まれます(https://www.youtube.com/watch?v=0tiyVnHbUak)。

 ストラヴィンスキーの他の楽曲では、『ペトルーシュカ』は『春の祭典』に比べるとおとなしく、かろうじて、不思議な雰囲気のする「見世物小屋」や不気味な「ムーア人の部屋」、何かがやってくるような「熊をつれた農民の踊り」などに気配を感じさせる部分がありました。『Scherzo fantastique』と『三楽章の交響曲』の冒頭も、もやもやしてヴェールに包まれたような空気がありますが、凝縮した力は感じられませんでした。

 ロシアの作曲家というと、第一に、チャイコフスキーとなりますが、手元にあるCDはごく僅かで、下記の2曲ぐらいしか思い当たりませんでした。何かありそうなので、また発見すれば取り上げたいと思います。
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PETER TSCHAIKOWSKY『Symphonie Nr.6 《Pathétique》』(Grammophon 427 220-2)
CLAUDIO ABBADO/ Wiener Philharmoniker

 「悲愴」は、引用するまでもない有名な曲ですが、第1楽章は、ファゴットが暗いフレーズを奏で、小刻みな弦が溜息のように音を吐き出して、暗澹たる気分で始まります(https://www.youtube.com/watch?v=KHzT7J0oQ38)。これはこの先に何かあるという感じではなく、全体をひとつの気分が覆っているという印象です。第4楽章も同様の気分が全体を支配しています。

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チャイコフスキー:バレエ組曲白鳥の湖』ほか(JPCD-1002)
渡邊曉雄指揮、日本フィルハーモニー交響楽団

 バレエ組曲白鳥の湖』、1曲目の「情景(白鳥のテーマ)」では、冒頭一瞬気配を醸成しますがすぐ主旋律に入ってしまうのが惜しいところ。6曲目の「情景(オデット姫と白鳥たち)」で、不安げなメロディを奏でる木管群にかぶせるように、金管ティンパニーが嵐のように暴れ、弦の揺らぎが感じられる部分が該当するでしょうか(https://www.youtube.com/watch?v=uYmu_12t66s)。『くるみ割り人形』については手元にCDがありませんが、「アラビアの踊り」などは、展覧会の絵とよく似た、東洋的な物憂さがあったように思います。

 グラズノフバラキレフに見出され、リムスキー・コルサコフの弟子だったので、気配の影響を受けているかと、持っているCDを片っ端から聞いてみましたが、下記の曲に、少し該当する部分があったぐらいです。
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『SALOME/THE KING OF THE JEWS』(CHANDOS CHAN9824)
Valeri Polyansky/Russian State Symphony Orchestra

 「サロメの踊り」が冒頭からしばらく夢幻的な雰囲気が続き何かもやもやとした気分が醸成されます(https://www.youtube.com/watch?v=R-drqIOXKD4)、その後の曲想はとてもオリエンタルな感じ。劇のための音楽『ユダヤの王』の「序奏」も夢幻的雰囲気があり、終わりかけには弦のリズムが何かありそうな予感を漂わせます(https://www.youtube.com/watch?v=ZiAmrSNibgs)。「第三幕第1場の間奏曲」では、「序奏」で予感させた弦のリズムが冒頭から大きく奏され、その後『展覧会の絵』の荷車が近づいてまた遠ざかっていく曲のような気配の音楽が続きます(https://www.youtube.com/watch?v=g6v8K_aHkvo)。

 19世紀のロシアの作曲家といえば、グリンカや最近よく聞いているルビンシュタインとダヴィドフ、それにアレンスキーなどがいますが、いまのところ思い当たりませんので、また見つけたら報告します。20世紀の作曲家はまた別項を設けて書くつもりですが、ショスタコヴィッチの交響曲第5番などは、気配の雰囲気をうまく生かした曲だと思います。

 ロシア作曲家のなかでの影響関係を考えると、バラキレフ(1837年生まれ)がいちばん年長、ロシア五人組のリーダー格で、リムスキー・コルサコフ(1844年)とムソルグスキー1839年)に作曲を教えています。リャードフ(1855年)はコルサコフに学んだようです。アレンスキー(1861年)、グラズノフ(1865年)、ストラヴィンスキー(1882年)もコルサコフから学んでいますが、アレンスキーは途中で破門されたと言います。ここで、バラキレフムソルグスキーコルサコフ-リャードフ-グラズノフストラヴィンスキーという「ロシア気配の音楽系列」が考えられると思います。プロコフィエフ(1891年)はリャードフとコルサコフに、ショスタコーヴィチ1906年)はグラズノフに学んだようです。

 ロシアの作曲家だけで、これだけいっぱいになってしまったので、先が思いやられます。次回からは、19世紀の同時代のフランス、ドイツなどの作曲家の作品、さらには20世紀中葉の次世代の作曲家にどう継承されたか、またこれらの作曲家たちに影響を与えたと思われるひとつ前の時代の作曲家についても書いていきたいと思いますが、私の能力にあまる課題で、うまく続けることができるか不安です。

久しぶりに古本市へ行く

 先週末、県域を跨ぐ移動が解禁されたこともあり、久しぶりに大阪へ出ました。前にも書いたかもわかりませんが、長年続けている近鉄沿線を一駅ずつ降りて飲み歩く「近鉄沿線友の会」で(と言っても二人だけです)、尼崎センタープール前での飲み会があったからです(近鉄奈良線生駒線橿原線の全駅を行き尽くして今は阪神なんば線から阪神本線に移っています)。ついでに大阪古書会館の「たにまち月いち古書即売会」を覗いてきました。大阪での古本市開催も久しぶりで結構賑わっていました。

 二日目だったせいか、棚も少し空き加減で、あまり目ぼしいものはなく、このところこのブログで取り上げているボードレールを中心に、下記4点を購入しました。この調子でボードレール本を買っていくと、延々と読み続けなければいけなくなるので、そろそろ止めにしようかと思いつつ、それでもベンヤミンは外せないし。
ヴァルター・ベンヤミン川村二郎/野村修ほか訳『ボードレール』(晶文社、75年9月、500円)
J・A・ヒドルストン山田兼士訳『ボードレールと「パリの憂愁」』(沖積舎、91年2月、500円)
アラゴン『パリの神話』ほか(河出書房、昭和42年10月、300円)
ジーヌ・ベルヌー/ジョルジュ・ベルヌー福本秀子訳『フランス中世歴史散歩』(白水社、03年6月、300円)
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 ネットでは日本の古本屋の「古書かんたんむ」で、
エドモン・ジャルウ堀口大學譯『セシルの戀』(齋藤書店、昭和22年6月、500円)→広瀬哲士の『新フランス文学』によれば、レニエを中心としたグループの作家。挿絵がところどころ入っていて味わい深い装幀です。
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 あとはヤフーオークション
「無限39 特集・マラルメ」(無限、昭和51年7月、1300円)
大西克禮『幽玄とあはれ』(岩波書店、昭和48年5月、990円)
高橋優子『薄緑色幻想』(思潮社、03年3月、500円)→女性らしい幻想的な抒情に溢れた散文詩
釜山健『そしてすぐに夕暮れが』(思潮社、80年10月、300円)→背表紙に誤植があるという珍しい本(背表紙は「そしてやがて夕暮れが」になっており、訂正用の張り紙も挿まれていた)。
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多田道太郎編『ボードレール 詩の冥府』

f:id:ikoma-san-jin:20200620071951j:plain:w150                                      
多田道太郎編『ボードレール 詩の冥府』(筑摩書房 1988年)


 前回読んだ杉本秀太郎の論文を含め、9名のボードレール論が収められています。多田道太郎による「あとがき」によると、当初、多田と杉本それに途中で亡くなった大槻鉄男の三人でボードレールを読む会を始め、次々に新しい研究者が加わったとのことで、その成果をまとめたものです。相互の論文の文章を引用しあったりして、真摯かつ楽し気な座談の雰囲気が何となく伝わってきました。これも座長の多田道太郎の鷹揚な人柄(と言ってもお会いしたこともなくよく知りませんが)から生み出されたものだと思います。

 各論文は、ボードレールの作品について、それぞれ得意の分野と思われる独自の視点から考察していて、どれもレベルが高く読みごたえがありました。印象に残ったところを中心にひとつずつ簡単に紹介します。大事な点を洩らしたり、曲解している部分があると思いますが、ご容赦を。

 「〈冥府〉から」(松本勤)は、『悪の花』(1857年)に先立って、1851年に「冥府」の総題のもとに雑誌へまとめた形で発表した詩篇、いわば『悪の花』の原形ともいえる11篇を評釈したものです。ボードレールは発表の都度詩の形を変えているので、その比較も行っています。例えば評釈では、「ル・スプリーン」で描かれている雨のイメージと場末の雰囲気がまさに「冥府」であり、墓地では生者と死者が入り混じっていること、別の「ル・スプリーン」という詩に登場する負傷者は、バリケードの敗北した市民、労働者であることなどを指摘。また、1851年の詩篇が『悪の花』の他の詩篇と違っている点として、率直な心情の発露である作品があること、女性詩、匂いの詩、追憶の詩、ノスタルジーの詩、退行の詩、夢の詩がないことをあげています。

 「群集の発見」(西川長夫)は、『パリの憂鬱』の主要なテーマである「群集」を追ったものです。フランスではすでにデカルトが都市の遊民に近い習慣をもっていたこと、「群集の中の孤独」はルソー、シャトーブリアンスタンダールロマン主義の流れがテーマとし、「パリの群集」はレチフ・ド・ラ・ブルトンヌやルイ・セバスティアン・メルシェに続きバルザックが描いたことを概観したうえで、群集の一人に積極的に関与しその内面に入り込もうとする『パリの憂鬱』に見られる詩人の感性は、怠惰で不毛なイメージのあった『悪の花』の詩人の姿とは乖離があること、「群集の人」は「さまよえるユダヤ人・オランダ人」伝説の現代版であり、晩年のボードレールは自らがさまよえるユダヤ人の相貌を帯びるに至ったことなどが書かれていました。

 「『屑拾い』の栄光」(井上輝夫)は、『悪の花』、『パリの憂鬱』双方に登場する屑拾いに焦点を当て、パリにおける屑拾いの歴史、立場を説明し、詩の解釈を豊かなものにしています。17世紀から19世紀にかけてのパリで、屑拾いは社会の最下層に暮らしながらも確固とした職業意識をもった集団を形成しており、19世紀半ばには『パリの屑拾い』という大衆劇が空前のヒットをしたが、やがてゴミ箱の普及により姿を消して行ったと言います。酔っぱらいの屑拾いが凱旋する様を描いた詩「屑拾いたちの酒」を取りあげ、屑拾いの中には産業社会に対応できず身を持ち崩したナポレオン軍の兵隊もおり、実際に「将軍」という綽名の有名な屑拾いも居て、歴史に裏切られた者の苦々しい表情が読みとれるとしています。

 「落日―あるいはデカダンス詩学」(宇佐美斉)は、落日あるいは夕暮に偏愛を示したボードレールデカダンの観点から見ています。古代人が夕日に寄せる思いは、生・死・再生という円環構造に裏うちされ夢と希望にあふれているが、ボードレールの場合、夜の滅びに向って突き進む直線的な時間意識が露わで、「落日」と「血潮」というふたつのイマージュの結合によって暗示される死への予感があり、また夕べが「犯罪者の友」である一面、「黄昏狂」という精神を病む面を強く意識している。時間の強迫観念を逃れようと、絶えず酔おうとする刹那主義や、落日の一瞬に永遠を見ようとする陶酔の美学へ向かうが、それがまさにデカダン精神であり、ボードレールの美は生命の維持に必要な最小限の自然と最大限の人工とが危うい均衡を保っていて、そこに妖しい魅惑の徒花を咲かせているとしています。

 「目の家族―ガラスと視覚」(天野史郎)は、ボードレールの視覚との関わりを、瞳、鏡、窓ガラスなど視線を映しまた遮るものを媒介に論じたもの。ボードレールは女性の瞳を鏡に喩え、宇宙を映す宝石として描いているが、実は鏡恐怖症で、自らを映しだす鏡は不幸、絶望の鏡であった。窓ガラスも中が透けて見えるのではなく、不透明のスクリーンとして想像を投影できるものでなければならなかった。一方、19世紀にガラスはパサージュや温室の素材として登場し、ボードレールも「パリの夢」で豪華なガラスの宮殿を想像したりするが、晩年の散文詩「貧乏人の目」では、贅沢なカフェのウィンドウの外に貼りつく貧乏人の親子の眼差しを、自らの存在の根底を揺るがしかねない他者の目線として描いていることを指摘しています。

 「詩の探偵」(竹尾茂樹)は、「小さな老婆たち」の詩を中心にして、近代に登場した探偵小説との関連から考察しています。まずポーによって確立された探偵小説では、探偵は、群衆の中の匿名の存在と化した犯罪者を個人として再構成しようとする存在で、背景には近代の都市があるとしたうえで、パリの場末をさまよいながら、あたかも探偵のようになって老婆の素性を突き止めようとするボードレールの詩との共通性を示しています。一方で、19世紀に若者に対する賞揚が高まるなかで、老人が工業社会の廃棄物とみなされて行く状況を踏まえ、ボードレールは、そうした老婆の無残な醜悪さと、メリヨンの描いた廃墟のような古びたパリの街とをつなぐポエジーを発見したと見ています。

 「美食から」(フランスワーズ・サバン天野史郎訳)は、ボードレールの作品に食がどう描かれ、ボードレールが食をどう考えていたかを、フランスの料理に対する通念と併せて考察したものです。不思議なことに、詩においては料理の内容にはいっさい触れられず、生理的欲求としての食、しかもそれを代表するものとしてスープしか登場しないとまず読者を驚かせます。しかしボードレールが料理を理解していなかったのではなく、小説「ラ・ファンファルロ」では食についての蘊蓄を主人公の口から語らせていて、血の滴るような肉、トリュフ、葡萄酒、さらには東洋の香辛料、あげくに、香料を香辛料の中に列挙し、さらにはエクスタシーを究めようと化学的物質(麻薬)にまで言及していることに注目しています。

 「香りまで―キッチュとノスタルジー」(多田道太郎)は、ボードレールの詩に頻出する(と言っても1856年以後の詩に多く見られるとのこと)香りの表現を巡っての論稿です。ここでもやはり人間が自らの動物性を否定しながらも動物の性腺から抽出した香水を身につけるという自然と人工の危うい均衡が指摘されていました。ついで、香りはメタファーによって、世界を香りの「雰囲気」に変貌させるとしたうえで、そもそも詩における象徴とは雰囲気に浸されることであると喝破しています。さらに、ノスタルジーのエキゾチスムへの転化の視点から、フローベール、ネルヴァル、ボードレールという系譜を考えたりしています。最後に、「虚無の味わい」という詩にある「香りを失った!」という言葉には、逆に、立ち昇る強烈な香りを感じさせるものがあることを指摘しています。

 「序」として多田道太郎が、なぜ「悪の華」ではなく「悪の花」という訳にしたかに始まり、各論文に関連したボードレールの詩の特性に少しずつ触れていますが、もし私がこの本の編集者なら、研究会について説明した「あとがき」を「序」にし、この「序」を「あとがき」にもってきたと思います。さらに欲を言えば、この論集はボードレールに多面的に光を当ててはいても、ボードレールの全体像を伝えるものではないので、その「あとがき」で、個々の論文を貫く共通の特性のようなものが浮き彫りにできればよかったと思います。また、フランス語表記を中心に誤植が多かったのは残念で、たぶん執筆者たちは十分校正させてもらってなかったのではないでしょうか。

山村嘉己と杉本秀太郎のボードレール論

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山村嘉己『遊歩道のボードレール』(玄文社 1986年)
杉本秀太郎ボードレール」(『杉本秀太郎文粋1エロスの図柄―ボードレール/ピサネロまたは装飾論』所収)(筑摩書房 1996年)                                         


 二人の文章の印象がまるで違っているのは、ご本人の性格もあるでしょうが、発表の媒体にも影響されていると思います。山村嘉己の本は、大学生協の雑誌に書いた連載をまとめたもので、ボードレールのことをあまり知らない学生を視野に入れているので、基本的な情報を丁寧に説明し、文章も素直でたいへん読みやすい。それに対し、杉本秀太郎の「ボードレール」は、各種雑誌への発表論文と『「悪の花」註釈』の本人担当部分を併せたもので、ボードレールをある程度読みこんだ人や専門家を対象に考えているらしく、通説の裏を行くような少し斜に構えたところがあります。


 『遊歩道のボードレール』の特徴は、詩の引用が多く、それも詩の全体を引用していること、また図版もたくさん入っていること。図版は、ボードレールの肖像、「悪の華」の挿画、パリ情景に関連した版画、ボードレールが評している画家の作品、テーマに関連した絵などで、メリヨン、ロップス、ブラックモン、ゴヤ、レーテル、クールベドラクロワ、マネなどによるもの。印刷状態は悪いですが、類書のなかでは図版が充実しているほうだと思います。したがって、本人の文章は量が少なくなっています。
                                          
 これまでにあまり見られなかった(ように思う)論点としては、
①再版で「巴里情景」が追加されたこと、さらに晩年に散文詩『巴里の憂鬱』の完成に力を注いでいたことを取り上げ、当時オスマンの都市改造で、ゴーチェやネルヴァルと遊歩した通りが取り払われるなどパリの街路が大きく変貌しているなかで、なつかしいパリを詩のなかに留めようとしたという解釈。

②ジャキェ=ルウの指摘していることで、ボードレールの水はいつも死の面影を宿しており、キスのときに溢れる水、すなわち唾液にも死の影が忍び寄っていること。

③「profond(深い)」という形容詞の数が『悪の華』でよく使われており(P・ギローによると44番目の頻度)、海が深淵というイメージも『悪の華』に18回出現していて(これもジャキェ=ルウの指摘)、ボードレールにとっては海の深淵が最後の終焉の地であったこと。


 杉本秀太郎の文章は一種の悪文で、どこで訓練を受けたのか人の意表をつこうという姿勢が旺盛なあまり、説明不足で分かりにくいところがあります。突拍子もないものも含め論点は数多くありましたが、いくつか紹介しておきます。

①『悪の花』を構成するにあたって、ある見世物小屋を設定し、この舞台に登場する役者を配置し、そのうえで劇の傍観者でもある道化を配し、楽屋にかかっている版画について語ったり、役者がパリの街をさまよってその風景を描写する、といった具合に進行すると解釈しているのは独創的。→と思ったら、付記でスタロバンスキにヒントを得たと書いてあり、また後段でバルベー・ドールヴィイの「『悪の花』は名を明かさずに作者当人が俳優となって、いたる所に登場しているドラマである」という言葉もあった。

②詩の評釈に関して言えば、「照応」という詩は、「自然」という語が「女性」を指していて男との合一を歌ったものというふうに性的な解釈に偏していたり、「秋の歌」では、「断頭台」を「火刑台」と読み取り、かつ柩の蓋に釘を打つ音は死者として聞いているという解釈をしたり、「一騎打ち」は、劇中劇の決闘を見ている二人の人物の会話として考えたり、また「毒物」では、「毒物」が「惚れ薬」であり背後にトリスタン伝説があると解釈するなど、詩そのものに常に何かの補助線を引くことで新しく読みなおそうとしているのは、独創的だが不自然であまり感心できない。

③ただ、「高翔」という詩が、ワグナーの圧倒的な影響のもとに作られたと説明しているところや、「異郷の香り」には、音楽の陶酔がもたらす世界に近似した宇宙を作ることに成功しているとしているところ、「前生」の詩に、無限系列の入子構造を見出しているところなどは、鋭い指摘だと思います。

杉本秀太郎も、水の魔力に言及していて、「八方塞がり」という詩で、深い穴に降りてゆく地獄堕ちの男が、底に溜まっている腐水に蠢く粘性の怪物の口に吸いこまれるという場面を、湿気の感じられないピラネージの版画と併せて考察していますが、他にボードレールの「散文詩プラン」にも「天に近く据えられた貯水槽から漏れる水」というピラネージに想を得たと思われる断片があり、ここでも湿気がはびこっているとの指摘がありました。

出口裕弘『ボードレール』と矢野峰人の「ボードレール」

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出口裕弘ボードレール』(紀伊國屋書店 1969年)
矢野峰人ボードレール」(『欧米作家と日本近代文学 フランス篇』所収)(教育出版センター 1974年)


 出口裕弘の『ボードレール』は読みだしてすぐ、以前読んでこのブログでも取り上げたことに気づきましたが(2008年10月18日記事)、すっかり忘れているので、そのまま読み進めました。矢野峰人のものは、ひと月ほど前に読んだ佐藤正彰の本で、明治期のボードレール移入に詳しいと紹介されていたので、購入したものです。この二つはまったくテイストが異なります。


 08年の記事と重複するかもしれませんが、出口裕弘の視点で独自性を感じたのは、ニーチェバタイユの系譜にボードレールを置いて考えているという点で、ボードレールのダンディズムと自己滅却の性格がより鮮明に理解できたように思います。もうひとつの特徴は、宗教者としての側面にはほとんど触れず、革命者ボードレールに焦点を当てている点。これは執筆の年代が学生運動華やかなりし頃と重なるからでしょうか。またメーストルとの関係について紙面を多く割いて説明しているのは貴重です。

 今回新たに印象に残ったフレーズは、

「天使でもなく獣でもない」人間が・・・中間者だと・・・言っているのではなくて・・・人間にあっては「天使をまねる」ことと「獣になる」こととは弁別しえぬ混沌の中にある、それが人間の構造それ自体だと言っている/p63

現代に至ってついに神は死に、人間の勝利という形を取ってサタンが勝利した、人間は神を殺しついでにサタンの存在を一笑に付すことによってまさしくサタンの制覇を招来したのだ/p112


 これまで読んできて、たぶん見過ごしたか覚えていないかだと思いますが、新たに知り得たことは、ボードレールがルイ・ル・グラン中学校を退校処分になったのは、級友をかばった「侠気」から教師と衝突したのが原因ということ(p72)、ボードレールが草案として残した散文詩には、「パリ風物」の系列と「夢解釈」という系列があると言い、「崩壊の前兆」と「階段」の一部が引用されていましたが、これがなかなかいい(p141、154)


 矢野峰人の評論は、前回読んだ関川左木夫が扱っている時代と重複するものでしたが、関川があまり書いてなかったことでいくつか印象深い記述がありました。

ボードレールの日本への移入の先駆けとしては、ラフカディオ・ハーンがいる。明治35年以前の東京帝大での講義で、ボードレールを取り上げ、散文詩「月の賜物」を英訳で紹介し評しており、明治36年には、「フランスロマン派の作家」と題する講義の中でもボードレールについて話したとのこと(p64)。→この講義録は全集に入っていればぜひ読んでみたい。

ボードレールの日本詩壇への影響は、露風などより木下杢太郎の詩の方が大きかったのではないか。杢太郎はボードレールの「異国の香」と「シテールへの旅」を愛読しており(p72)、杢太郎の詩「暮れゆく島」には「異国の香」の影響が歴然としているとのこと(p88)。

③明治期の作家たちがボードレールの情報源として唯一よりどころにしていたスターム訳『ボードレール詩集』には、甚だしい誤訳がたくさんあったが、誰もこれに気がつかなかったこと(p82)。ちなみに、この本は、フィオナ・マクロウドが監修した「カンタベリー詩人叢書」の一冊。

島崎藤村もまたある時期ボードレールを愛読していたらしく、あちこちの文章に、「秋の歌」、「航海」などの詩について、またモンパルナスの墓地のボードレールの墓に詣でたことなどを書いているとのこと(p93~94)。

大正元年から二年にかけて、雑誌「朱欒」に、フランス語から直接訳したと思われるボードレール散文詩が掲載されており、訳者は「無名氏」と書かれているが、それが誰か明らかでないとしたうえで、その訳しぶりを褒めている(p95~96)。

 明治45年2月の「早稲田文学」に掲載された後藤末雄訳の『人工楽園』は、この時点ではまだ英訳も出ていないので、ボードレール移入史上、重要な意義があるとしているが(p92)、後藤末雄はこのときまだ大学の二年生というから驚き。また「アステイオン」92号の張競「夢を種蒔く人・厨川白村」で、白村が野口米次郎の英詩集についての評を読売新聞に、また博引傍証を尽くした「ポー論」を「明星」に発表したのが、まだ東京帝大の学生時代と書かれていましたから、昔の大学生は早熟だった、というか勉強熱心だったことが分かります。

CLAUDE SEIGNOLLE『INVITATION AU CHÂTEAU DE L’ÉTRANGE』(クロード・セニョール『不思議の館への招待』)

f:id:ikoma-san-jin:20200605115246j:plain:w86 外観   f:id:ikoma-san-jin:20200605115302j:plain:w170中扉
CLAUDE SEIGNOLLE『INVITATION AU CHÂTEAU DE L’ÉTRANGE』(WALTER BECKERS 1974年)


 このブログにコメントを寄せていただいたJann Fastierさんから勧められた本。セニョールが知人らから聞いたり、自らが体験した超自然的な話を集めたものです。見出しだけでも100ほどあり、見出しのなかにも話がいくつか含まれているので、大雑把に200ぐらいの小話が収められていると思います。著名人では、ジャン・レイやジャン・ジオノ、ジョルジュ・デュアメル、ジャック・ベルジェ、セルジュ・ユタン、さらにブラッドベリまで。またご自分の作品にまつわる話もありました。

 セニョールはフランスの地方に伝わる伝説口碑を収集し、それを彫琢し小説仕立てにして語る幻想作家で、この本にはそうした土俗的なものもありましたが、全般的には都会的なモダン怪談が多く、宇宙人、空飛ぶ円盤、魔の三角地帯など黒沼健風のオカルト話もあり、はっきり言えば少し期待外れ。

 私の趣味から言えば、第Ⅴ章の「FASTUEUX SALONS AUX ÉTAMINES D’ARAIGNÉES.(La Vie secrète des Morts-Voyages dans le temps-Illuminations)(蜘蛛の織物でできた豪華なサロン―死者の隠された生、時間旅行、霊感)」が好み。とくに「LE VOYAGE EN CASTILLE(カスティーリャへの旅)」が秀逸。カスティーリャの富豪と文通をしていた友人があるとき富豪から招かれて、マドリード近郊の古びた館を訪れるが、そこには蝋燭の明りのもと、伝統衣装を身につけ、カスティーリャ訛の古いフランス語で古代の錬金術を語る人々がいた、というひとときの眩暈を描く香気ある短篇。

 第Ⅴ章ではほかにも、オートバイの青年が雨の中に立たずむ娘を見つけ家まで乗せて送っていくが、翌日上着を娘にかけてあげたまま返してもらうのを忘れていたので取りに行くと、その娘は数か月前に亡くなっており、お墓に行くと上着が落ちていたという「LA VESTE(上着)」、イギリスの無学の羊飼いが15歳にパリに出た途端に才能を発揮し、24か国語を操って詩集を次々に世に問うたが、事故で死んでしまった。その後忘れ去られていた詩人をドキュメントにしようとテレビ局が動いたが、知っている人の証言がまちまちなうえ、本人の写真もなく、原稿も紛失し、そのうち本当に存在していたかと疑い始めたというボルヘス風小話「UN CERTAIN MONSIEUR ROBIN(ロバンとか言う紳士)」など。

 また第Ⅵ章の「LA GALERIE AUX PORTRAITS DE FAMILLE.(Personnages insolites ou monstrueux)(家族の肖像の画廊―不気味な怪物のような人々)」の狂人・畸形人に関する話も衝撃的。セニョールが精神病院に招かれ超自然話をしに行くが、どれが患者か医者か警備員か分からず、話し出すと次々に狂人たちが騒ぎ出しキリストも現れるなど混迷を極める「DES FOUS ?(気ちがいか?)」や、四つ足で走るかのような狼少年が魚を手で掴む「LE FILS LOUP(狼の子)」、毛を剃られた猿をよく調べてみたら人間だったという残酷譚「Le singe(猿)」、早老症で骸骨のように痩せた少女が水頭症の頭を震わせていたが眼の光だけは清らかだったという聖性譚「LA PETITE REINE(女王のような女の子)」など。

 第Ⅶ章「LES COMMUNS CORNUS.(Magie et sorcellerie)(角の生えた村―魔術と妖術)」では、パンをこねて鼠の形にすると生きて動き出す魔法を語る「LES RATS DE MIE(パンの鼠)」、魔術師により妻の病気の身代わりとなった白樺を誤って切り倒したら妻の病気がすぐ再発して死んでしまうという「UNE SANTÉ DE BOULEAU(白樺の健康)」(以前読んだ「UNE SANTÉ DE CERISIER」-『Le Rond des Sorciers』所収-と同じ話だった)、インチキ祈祷師の魔術を破った途端に、すでに死んでいた美女が臭いにおいを放ちながら溶けていくという怪奇映画的結末の「LA BELLE COPTE(コプトの美女)」など。

 古本にまつわる話もいくつかありました。一生かかって集めた魔道書を売り払い、得た小切手を換金しに銀行へ行こうと、いつも立ち寄る古本市を横目に見ながら通り過ぎた途端こけて死んでしまうという悲惨な「LES GRIMOIRES VENDUS(売った魔道書)」、マルセル・ベアリュの甥が開いている古本屋へ、ジャック・ベルジェアメリカのパルプ雑誌を探しに行き、そんな珍しいものはないと言われて帰ろうとしたら、一人の少年がパルプ雑誌を抱えて売りに来たという夢のような「PETITE SUITE BERGIERESQUE(ベルジェ風の小話)」など。

 日本に関連した話が2カ所出てきました。ひとつはテュアルドというアフリカの架空の国から政府代表として日本に武器調達にやってきたと主張する狂人の話(「LE TUARED(テュアルド)」)。もうひとつは、背の高い鱗に覆われた金髪の宇宙人が日本語のような言葉を喋ったという話(「SUSANA RACONTE(スザナが語る)」)。

 クロード・セニョールはラジオなどに出ているうちに、みんなから魔術師のように思われて、あちこちから超自然的現象にまつわる相談が寄せられたようですが、ある話では、田舎の魔術師と対決させようと画策する人が出てきて、本人もその気になって魔術を施したりしているのがおかしい(「Comment j’ai fait revenir Jules(私はどうしてジュールを呼び寄せたか)」)。

何かの気配を感じさせる音楽 その②

 前回(5月6日記事参照)の続きで、不安を掻き立てるような揺らぐ響きのある音楽について書きます。書いているうちに分量が多くなってしまったので、今回はロシアの作曲家のなかでも、リムスキー・コルサコフだけにします。リムスキー・コルサコフのCDは何故かたくさん持っていました。いくつか重複している曲もあります。
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スペイン奇想曲他』(LCB-088)
『サトコ』、『見えざる町キテジ』、『金鶏』は、いずれもスヴェトラーノフ指揮、USSR交響楽団
 このCDはコルサコフの歌劇の管弦楽作品を中心に名曲を集めたものですが、きわめて録音が悪い。それはともかく、前回書いた「サトコの伝説によるエピソード」の縮小版のような歌劇『サトコ』「前奏曲」以外には、次の3曲に何かが起りそうな気配を感じさせる空気を濃厚に感じました。いずれも冒頭部分です。

 歌劇『見えざる町キテジと乙女エヴローニャの物語』組曲の「荒地への讃歌」は、冒頭、ホルン?と低弦が長音を奏でるなか、ハープがグリッサンドを繰り返し、弦がさざめくようなリズムを刻むのが、何かの予兆を感じさせ、木管が鳥の囀りを模すなど、自然描写が1分30秒ぐらいまで続いて、メインの主題に繋げます(https://www.youtube.com/watch?v=3Quc76IkRHM)。途中、弦や管が一斉に音を打楽器的に出して驚かせる部分があり、終結部も弦と管が一斉に音を出した後、ハープのグリッサンド、弦の震えとともに終わります。

 同組曲の次の「ケルゲニッツの戦い」も、冒頭、同じ短いフレーズが絶えず繰り返され、風雲急を告げ、何かが迫ってくるような慌ただしさを感じさせます。たぶん戦闘が迫っているのでしょう。弦の小刻みなリズムが強まったり弱まったりするなか、冒頭のフレーズが木管から金管へと楽器を変えながら、1分ほど続きます(https://www.youtube.com/watch?v=3GYIStEipK8)。その後主題らしきものが登場し、やがて戦闘が始まったのか大混乱の騒ぎになります。

 歌劇『金鶏』第1幕「序曲」は、勇ましいファンファーレが15秒ほど鳴り渡った後、すぐだらりとした気分になり、その後不安感やおどろおどろしさはないものの、夢幻的で神秘的な雰囲気が全曲を通じて持続します(https://www.youtube.com/watch?v=9iJIari2re8)。中心の楽器は、クラリネットとハープで、クラリネットの旋律には東洋的なテイストがあり、催眠術を掛けられるような感じになります。最後はまたファンファーレが鳴り響き、唐突に終わります。

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『ANTAR』(hyperion CDA66399)
SVETLANOV/ The Philharmonia
 この曲は、当初は交響曲第2番として作曲されたものですが、後に交響組曲として編成され直され、死後出版されたもののようです。最初の曲「ラルゴ」の冒頭部分に、何かの気配と煽るような曲調が感じられました。ホルンらしき低音が夜明けを感じさせるように重々しく響くなか、3音のフレーズをいろんな楽器が繰り返していきます。背後にはティンパニーが小さくやはり3音を打ちます。それが延々と続き、次第に高鳴って行くのが、何かが起りそうな予感を抱かせます(*)。2分ぐらいして、少し悲しみを帯びた主旋律が登場しますが、ティンパニーの3音がまだところどころで不気味に鳴ります。開始後4分ぐらいから5分過ぎまで、また何か起こりそうな気配が少しあります。2曲目の「アレグロ」も冒頭、風雲急を告げ差し迫ったものを感じさせるようなパッセージがありますが、1分ほどで終わります(*)。(*の2ヶ所を引用しようとしたらHyperionからたぶん著作権の関係でブロックされました)。

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『Kashcheï the Immortal』(VL2018-1)
Samuel Samsud/ Moscow Radio Choir and Orchestra
 歌劇『不死身のカチュシェイ』全一幕の完全版ですが、これもきわめて録音が悪い。全部で3場あり12曲が収められています。
 1曲目の冒頭40秒ぐらいまで、低弦のうねりとトレモロで始まるのが、何かが起こりそうで、次の木管で奏でられる下降音も不気味な感じがします(https://www.youtube.com/watch?v=ANmcQ2SuT_A)。
 4曲目の4分20秒あたりから、弦が目まぐるしい旋回するようなフレーズを細かく持続させ、主旋律が断片的に混じるのが、不安定な印象があります(https://www.youtube.com/watch?v=9aBgL_v_njA)。7分40秒ぐらいからは、今度は弦の下降音がひとつのパターンとなって最後まで続くのも不安を余韻として残します。
 5曲目も、冒頭1分ぐらいまでは4曲目の不安感を引きづっています(https://www.youtube.com/watch?v=1jWd_wK_6n4)。その他の曲にもところどころ反復技法などがありますが、あまり記憶に残りませんでした。

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SCHEHERAZADE』(DECCA443 703-2)
RICCARDO CHAILLY/ ROYAL CONCERTGEBOUW ORCHESTRA
 これは『千夜一夜物語』にインスピレーションを得た有名な作品で、ヴァイオリン協奏曲的な色彩もありますが、交響組曲という位置づけになっています。昔からよく聞いたものですが、期待していた雰囲気には出会えませんでした。
 かろうじて1曲目。1分40秒ぐらいから、弦がひとつの波形を繰り返し続け、その上に木管や弦が主旋律を奏でます。この波形は船を漕いでいるようなリズムを感じさせます。この波形はずっと続き、途中少し曲想が変わりますが、5分ぐらいから次第に強いリズムが刻まれて、ティンパニも轟き、音量も大きくなってきます。これは、タイトルが「海とシンドバッドの船」ということですから、船が大洋に乗り出して大海原に出ていく感じがします(https://www.youtube.com/watch?v=EAHWvGdLQYs)。弦や木管のうねりが反復するのが、波を現わしているかのようです。

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『Suites:The Snow Maiden/ The Golden Cockerel他』
Donald Johanos/ Czecho-Radio Symphony Orchestra
 このCDには、『雪娘』、『金鶏』、『ムラダ』の歌劇をそれぞれ管弦楽組曲にアレンジしたものを収録していますが、『雪娘』と『金鶏』に少し気配を感じる曲想が含まれていました。
 『雪娘』の「Introduction(序奏)」は、初めから終わりまで、不安定な情緒が支配しています。冒頭強い音で始まるとすぐ穏やかな曲調に変じて、弦の小刻みなリズムの上に木管が鳥の声を奏します(https://www.youtube.com/watch?v=Hec570te82Q)。1分50秒頃から旋回するような弦のフレーズが繰り返し背景で演奏されるのが、何か煽るような感じ。しばらくすると低弦の重々しいフレーズが登場し暗雲の垂れ込めたような雰囲気になります(https://www.youtube.com/watch?v=N0crbffPWdw)。
 『金鶏』は四つの組曲に直されたもので、最初の「Roi Dondon dans son plais(宮廷のドドン王)」は初めに書いた『スペイン奇想曲他』のCDの第一幕「序曲」と重複しているようなので割愛。
 2曲目の「Roi Dondon au champ de bataille(戦場のドドン王)」は、冒頭から重々しく始まりますがすぐ冷め、1分40秒あたりから再び同じ重々しい楽想が繰り返され、何かがやってくるような雰囲気に包まれます(https://www.youtube.com/watch?v=O8Wpys0FTeE)。
 最後の曲の「Mariage et fin lamentable du roi Dondon(婚礼とドドン王の哀れな末路)」も冒頭から弦が小刻みに音階をあげていき、何かの兆しを感じさせる雰囲気(https://youtu.be/mTLl1C_-7aI)。がすぐに金管のファンファーレで中断され、また弦が現われ、という具合に交互に繰り返され、やがて楽しい曲想になりますが、また突然おどろおどろしいテーマが現れ、混迷を深めていきます。

 コルサコフは、このほか、ピアノ協奏曲、五重奏曲、弦楽六重奏曲、ピアノ三重奏曲や歌曲のCDも所持していますが、これには該当する部分はありませんでした。
 ロシアの作曲家はまだいますが、また次回に。