小松和彦『異人論―民俗社会の心性』(ちくま学芸文庫 1995年)
あの世や他界の話から少しずれますが、『異界と日本人』を読んだ流れで、同じ著者の作品を読んでみました。昨年12月の古本市で購入したもの。まず、中沢新一による「解説」に眼を通して、大学院生だった小松と学生だった中沢の二人が、民俗学を志し、当時流行だった構造人類学を援用しながら、一緒に研鑽する姿が活写されていて、ほぼ同世代で、何をしてよいやらウロウロしていた私としては、羨ましさを覚えました。
小松和彦は、自分の問題意識を明らかにし、探求の手順を分かりやすく見せながら、丁寧に書き進んでいく書き方をしており、好感がもてました。最初は、純然たるフィールドワークの世界の話で、ややとっつきにくいと思っていたら、同じテーマをもった昔話の方に話が移ってから俄然面白くなってきました。私の場合、やはり物語に興味があるようです。
もっとも面白かったのは、民俗社会に神秘的なできごとが発生し、ある特定の家系が富んだり没落したりする現象を、その神秘的なできごとが社会の外部からくるか内部からかの二つ、特定の家系を社会の人びとが忌避するかしないかの二つを軸に、4つの象限に分けて考え、それを伝説や昔話のパターンで説明しているところです。
昔話の内容まではここで紹介できないので、この本を読んでもらうしかありませんが、内部で発生し忌避しないタイプとして「座敷ワラシ」、内部で発生し忌避されるタイプとして「動物憑き」、外部からやってきて忌避されないタイプとして「竜宮童子」型昔話、外部からやってきて忌避されるタイプとして「こんな晩」型昔話や信貴山縁起の「山崎長者伝説」をあげ、「大歳の客」は外部からやってきて忌避されない場合と忌避される場合が描かれている昔話として整理されていました。
古代の民俗社会を考える場合、現在われわれがもっているような価値観とはまったく違う世界だと思わないといけなくて、異人という存在は、われわれが考える旅人といったものではなく、閉鎖社会にめったに訪れることのない貴重な存在だったわけです。異人殺しについても、昔は人権概念が薄く、簡単に人を殺してしまうようなところがあったのは、「通りがかりの者を人柱にするという話が全国に残っている」(p21)ということからも推測できます。著者は、「異人殺しは公然と語りうる事柄ではない」(p23)と書いていましたが、密閉された社会のなかでは手柄のように得意げに語るといったこともあったのではないでしょうか。
「主題」について考察している「猿聟への殺意」の章では、著者の考え方のいくつかに若干の疑問をもちました。まず、テキストと主題の関係について、
①著者は、「一つのテキストには一つの『主題』しかない」(p136)と書いているが、テキストはあらゆる顔をもっているものと思う。
②「『主題』とはテキストを生み出す志向=意図であって、現象としての『テキスト』に外在し、先行している」(p138)とも書いているが、テキストから離れて主題は存在しない。
③「昔話テキストを貫く『主題』は、昔話を伝承している民俗社会の人びとの“現実”“人生”に深く関係している」(p139)というのは正しい指摘だが、一方、昔話の物語としての面白さは、一人の天才的話者の創作的行為に負った部分もあるはずである。
また、これも話の詳細は省きますが、「猿婿入」の昔話を素材にして分析を加えている部分でも若干の違和感がありました。まとめると次のようになるかと思いますが、構造主義的な分析が勝ちすぎているようにみえます。
著者は、この物語を、まず人間の社会と異類の社会の交渉という大きな枠組みで捉え、登場する人間のなかに、爺・末娘の結束に対立する長女・次女という構造を見、また爺が猿に畑仕事をしてもらう代わりに末娘を婿入りさせるという等価交換の図式を見、それが末娘の裏切りで人間社会の勝利へと導くといった流れを確認したうえで、この物語の根底には、異類に対する人間の悪意があり、人間が知恵で優っているということでそれを肯定しようとする意図があるとしている。
④普通に考えれば、この物語のポイントは、末娘の狡知にあり、石臼や米の重さのせいで折れる枝というトリックに話の妙味がある。娘を恋する猿に、餅を搗きたいからと石臼や米を担がせ、さらに谷川の傍に咲く桜の花をとってとせがんで、猿が木に登ると枝が折れ川に流されて溺れ死ぬという顛末であるが、われわれから見ると、猿の純情さに憐憫を感じ、それと対比して娘の非情さに憤りを感じてしまう。
⑤著者は、長女と次女を親の頼みを拒絶する冷たい娘として捉えているが、末娘の狡知に比べて、上の二人の娘は素直な女性であり、末娘の方が冷酷非情なわけである。
⑥著者は、「爺はこのとき、自分の娘を犠牲にしてでも辛い仕事から解放されたい、という邪悪な気持ちに取り憑かれ」(p151)と書いているが、爺は、猿が人語を解すとは思っておらず、素直な気持ちを呟いたまでである。
その他、印象に残った部分は、
①伝説と昔話の違いについて:伝説は、表層の現実に足を下ろしているのに対し、昔話は、表層の現実から切り離された普遍的事柄を語っているので、民俗社会の深層に潜む心性がいっそう明瞭な形で刻み込まれている。昔話の方が単純であり、メッセージの純化が図られている、としているところ。
②「こんな晩」型昔話の面白さ:宿を貸した六部を金に眼がくらんで殺した百姓に唖の子が生まれたが、ある夜、「おどっつぁん、ちょうど今夜のような晩だったね」(p71)と初めて口をきき、その子の顔が殺した六部の顔とそっくりになっていたという場面の衝撃力。
③山姥と河童について:山姥という存在は、奥山と村とが同質の空間ではないことを告知すると同時に、この二つの領域が相互に深く関連していることを示す存在であり、山の民との実際の交流から生まれたイメージ。同様に、河童のイメージは、周囲の人びとから「非人」「河原者」として賤視されてきた実際の川の民からきている、としているところ。
④蓑笠の意味について:葬送儀礼や婚姻儀礼で、死者や花嫁に蓑笠を用意する風習が各地で報告されているが、葬送儀礼の場合は、死者があの世へ旅していくための旅装束であり、婚姻儀礼では、花嫁が実家から婚家の成員になるという境界を通過するしるしとして用いられている。誕生の際の赤子を包む胞衣=エナも蓑と笠に相当する旅装束と考えられていた、という。また百姓一揆の際、蓑笠姿をすることが多かったが、蓑笠をつけることで農民身分もしくはその社会生活からの離脱を示そうとしたのでは、とも考えられるとしているところ。