:デ・ラ・メアの短篇、続き

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紀田順一郎訳「運命」(「幻想と怪奇2号 吸血鬼特集」)
吉良松夫訳注『老獅子号』(英宝社 1971年)
脇明子訳『九つの銅貨』(福音館書店 2009年):「チーズのお日さま」「九つの銅貨」「ウォリックシャーの眠り小僧」「ルーシー」
河野一郎訳『魔法のジャケット』(旺文社 1984年):「魔法のジャケット」「なぞ」「見知らぬ人」


 これも読んだ順です。前回デ・ラ・メアの短篇を取りあげた時、「幻想と怪奇」に載っているのに気づきませんでした。「老獅子号」は少し長かったので後回しにし、『九つの銅貨』と『魔法のジャケット』は前回の後に購入したものです。

 この中でいちばん面白かったのは、「魚の王さま」、次に「老獅子号」、「魔法のジャケット」、「運命」の順でしょうか。

 読んだ順に簡単に紹介します。(「チーズのお日さま」と「なぞ」は重複なので略)
 「運命」は、運命の偶然のいたずらがテーマ。主人公は長い航海を終え家に帰る途中、妻用に注文された棺桶を運んでいると知らず行き先が同じの荷馬車に乗せてもらう。棺桶と知らず箱の上に腰掛けるのだった。馬車を途中で降りて家の前まで来るとさっきの馬車が停まっていた。木によじ登って窓の内側を見ると・・・驚いて木から落ちて死んでしまう。

 「老獅子号」は、話をしたりする賢い猿が主人公で、どこか『三匹の高貴な猿』を思わせます。森のなかにいた猿が、猿商人に売られ、船で飼われ言葉を覚え、動物興行師に攫われ、次第に人間の知恵を身につけて評判を呼び、銀行口座を持つまでになるという筋書きで、文明と原始の対比がひとつのテーマとなっています。また、劇場に王が来臨した際に、猿が王と話し、王が猿に対等の敬意を払うというくだりは、下賤(猿、しかも見世物)が栄光(王が尊敬)に輝くという美学が感じられます。この王の威光というのはいかにもイギリス的な感覚。最高位に登りつめたのに、猿が昔育った森を懐かしんで帰って行くというところも、過去への追憶を大事にするデ・ラ・メアならではの人生観を感じさせます。最後は、森に戻ろうとした猿が本当に仲間に会えたのか、嵐でどこかへ行ってしまったのか、獣に襲われて死んでしまったのかと、いろんな解釈が残ったままの謎めいた終わり方をしますが、これもいかにもデ・ラ・メア風です。

 「九つの銅貨」は、妖精との契約、知らない間に部屋が片付くこと、海の中の別世界など、民話の要素がたっぷり入っています。善意の人と思われた小人が約束をどんどん上塗りしていくので、一瞬ならず者のように見えてきますが、結局主人公の少女の広い心がハッピーエンドへ導くという筋書き。見どころは現実と異世界の往還で、睫毛を抜いたりまた元に戻すことで、周りの景色ががらりと変わる場面。

 「ウォリックシャーの眠り小僧」、これも民話にある福の神、子さらいの笛吹男、離魂病を合体させたような話。叩かれてもいじめられてもへっちゃらで陽気な三人組の小僧のふるまいが愉快。小僧たちの仕事が煙突掃除というのもいかにもイギリス的。

 「ルーシー」は、少し現実的な物語で、祖父が築いた家が没落していくなかでの三姉妹の話。ぼんやりして夢ばかり見ている末娘が交流するルーシーという妖精だけが超自然的存在。舞台となる古い館も見事な存在感があります。三姉妹という設定や、姉二人から馬鹿にされている末娘が没落の後立場が逆転して幸せになるというあたりは民話的。

 「魚の王さま」は、異界への憧れと魚への変身がこの物語のいちばんの魅力です。魚釣りだけに熱中する青年が主人公。村から離れたところに長い堀が続いているところがあり、その向こう側に川があるらしいと知って憧れますが、行ってみると魔法使いによって人魚に変身させられた少女が幽閉されています。戸棚に隠されていた詩の謎を解読し、主人公自らも魚へ変身し敵地へ侵入して、魚の姿を元に戻す軟膏を、いくつかの瓶のなかから、ラベルの謎を解読して持ち帰るという冒険譚。謎解きの要素もあります。

 「魔法のジャケット」は、ジキル博士とハイド氏のように性格が変身する二重人格がテーマ。普段は自信がなくうすのろだが、時としてやんちゃで冒険好きになる少年が、ある日古物商で買った魔法のジャケットを着ると、瞬時に第二の自分に切り替わるのを発見し、ジャケットを着ることで、海軍の試験に難なくパスできたという話。その少年が老人になり、路上に絵を描いている少年を励まそうとそのジャケットを託すという話が枠物語のように前後に語られています。デ・ラ・メアの母親の父が海軍軍医で、遠洋航路に乗っていたそうで、この物語に出てくるランボールド提督にその面影があるような気がします。

 「見知らぬ人」は、デ・ラ・メアには珍しくシリアスな話。母と娘の対話を劇の台詞のようにして書いています。娘が電車のなかで偶然出会った男との会話を母親に報告。その内容を聞いていた母親は途中からその男がかつての恋人だったことに気づきます。解説で「娘の本当の父親かも」と書いているのは考え過ぎか。そうだとすると話は一段と面白くなりますが。


 『九つの銅貨』には、清水義博という人の版画が挿絵としてついていました。味わいは谷中安規にも似た雰囲気がありましたので、ひとつ見本を挙げておきます。