久保田万太郎『いまはむかし』


久保田万太郎『いまはむかし』(和田堀書店 1946年)                                             


 久保田万太郎の俳句関連本を読んだついでに、随筆集を読んでみました。昔書いた随筆集から抜粋したもののようで、俳句の人らしく季節感に敏感で、春夏秋冬の4章に分けて編集され、春は桜、夏は夜店、秋は祭礼、冬は浅草酉の市などの話題が取り上げられていました。

 一読しての印象は、題名どおり昔を思い出す文章が並んでいることです。面白いのは、万太郎が懐かしんでいるのは、「たけくらべ」に描かれているような明治の名残りですが、万太郎がそれらの文章を書いているのは大正12年から昭和7年までで、われわれからすれば、その万太郎が生きて書いていた時代に懐かしさを覚えることです。

 何が懐かしさを醸し出すのかと言えば、戦前の東京の日常の生活が描かれていることで、当時の風習、祭礼、寄席通い、夜店や仲見世の様子がスケッチされ、人々の濃密な付き合い方が垣間見えることです。それに今はもう見かけることもほぼなくなったお店の種類がたくさん出てきて、古めかしい飲食店の店名、活動写真館名の数々がちりばめられていること。

 お店の種類でいうと、下駄屋、小間物屋、絲屋、あるへい糖を主とした菓子屋、いろいろの定紋のうちぬきをぶら下げた型紙屋、刷毛屋、凧屋、東京名所だの役者の写真だのを売る写真屋、絵草紙屋(これはめっきり少なくなったと嘆いている)、豆屋、紅梅焼屋(これも以前のやうに目につかなくなったと嘆いている)、名所焼の店、がらくたを積んだ道具屋、古鉄を並べたふるがねや、襤褸屋、女髪結、かざり工場、紺屋、夜店では、金魚屋、蟲屋、燈籠屋、一品洋食。

 飲食店の店名では、西洋料理の店が、「金龍軒」、「比良恵軒」、「芳梅亭」というように、ことごとく中華料理屋のような名前なのに驚きます。ほかに、安料理屋「音羽」、しるこや「秋茂登」、牛肉屋「常盤」、蕎麦屋萬屋」、天ぷら屋「大黒屋」、茶屋「萬梅」、それにどんな種類の店か分かりませんが、「奴」、「萬盛庵」、「梅園」、「来々軒」、「一仙亭」など昔風の名前が出てきました。今も残っている店はあるのでしょうか。そう言えば、「神谷バー」と神谷伝兵衛氏についても触れられていました。

 活動写真館では、「木馬館」、「遊楽館」、「松竹館」、「三友館」、「大勝館」、「電気館」、「富士館」、「オペラ館」などの名前が出てきましたが、それは酉の市の提灯に記名されていた協賛者の名前としてなので、どんな活動写真館だったかは不明です。

 昔の東京の地名が頻出するのも東京在住の人には懐かしいでしょう。また関東大震災とその後の火事の様子、明治42年の吉原大火、大正9年の浅草の大火についても記述がありました。

 作家らしさを感じたのは、原稿用紙へのこだわりで、はじめて小説を書いたとき松屋の原稿用紙を使い、その後伊東屋春陽堂のものを試してみたが気に入らず、松屋のを使い続けたが、そのうち次第に松屋の用紙が大きすぎる気がし始め、文房堂を使ってみるとすらすらと戯曲が一つ書けたので、気に入って8年ばかり使った。ところが震災で文房堂が焼けて途方に暮れ、少し大きめの相馬屋の用紙を使うようになったある日、友人の家で原稿用紙を見て、強く心を惹かれた。それが以前使っていた松屋のものだったので、さっそく松屋の用紙を買いに行く。

 「白襟の藝妓・・・空つ風のなかを座敷から座敷へといそぐ人々の、その抜けるやうに美しい姿である。笄を挿した髪、下げた帯、とられた褄。…月のないゆきずりの、そのあたりの闇の濃ければ濃いほどその美しさはいや増した」(p15)といった文章は、万太郎の師の鏡花を思い出させる文体です。