:松本民芸館に触発されて

 先日、信州松本に古本ツアーに行った折り(9月11日記事参照http://d.hatena.ne.jp/ikoma-san-jin/20130911)、「松本民芸館」の展示品の素晴らしさに感激し、蒐集を行なった丸山太郎氏の書いたものを土産として買いました。両冊とも館内に展示もされていて、そのとぼけたような風合いに魅せられたので。

丸山太郎『時にふれて』(書肆 秋櫻舎 2012年)
丸山太郎『たぬきの東京見物』(書肆 秋櫻舎 2012年)
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 『時にふれて』は丸山が自らの蒐集品三十八点について、どこがお気に入りの点かを絵手紙風に綴ったもの。館内で、蒐集品と『時にふれて』掲載部分とが対比されて展示されていたのがなかなか面白く、現物に比べると絵は正確ではありませんが、なんとなく趣きがあります。

 『たぬきの東京見物』は、丸山が東京の病院から故郷の娘のために書き送った絵手紙物語で、墨で描かれています。稚拙といえば稚拙ですが、娘への愛情があふれていて、こんな絵手紙をさらさらと書いて送ることができればと、見本のつもりで買いました。

 出版元の秋櫻舎は松本の古本屋だと思います。足元に牝猫がじゃれついてきた所です。そう言えば工芸関係の本が充実していました。


 生駒に帰ってきてから、民芸に対する興味が再燃してきて、丸山太郎が師と仰いでいた柳宗悦の民藝に関する本を読んでみました。柳宗悦は『蒐集物語』(中公文庫 1989年)を以前読んだ時に、哲学の徒らしく理路整然と考え抜かれている筆致の一方、蒐集の魔に憑かれた情念の動きを赤裸々に語っている文章に感銘を受けた記憶があります。

柳宗悦『民藝四十年』(岩波文庫 1985年)
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 「朝鮮の友に贈る書」「失われんとする一朝鮮建築のために」「木喰上人発見の縁起」「大津絵の美とその性質」「蒐集の弁」は読んだ記憶がありました。「木喰上人発見の縁起」「蒐集の弁」は『蒐集物語』(中公文庫)で読んだので分かりますが、後はどこで読んだのか思い出せません。「朝鮮の友に贈る書」「失われんとする一朝鮮建築のために」の溢れる心情や、「木喰上人発見の縁起」での木喰上人の事跡を追いかける凄まじい執念は、何度読んでも感銘を受けます。

 この本は、論文発表の経年別に編集されていて、朝鮮民藝から、木喰上人、民藝館設立、琉球そして仏教へと関心が移って行く様子がよく分かります。しかし若い頃「ブレークに導かれてキリスト教神秘道に分け入り、その深奥を窺うにつれて、より深く豊かな世界が老荘大乗仏教の思想のなかに蔵されていることに気づいてゆく(p381)」と「解説」にあるように、柳宗悦の大元には出発点から一貫して宗教的なものがあり、彼の文章にはどの部分においても宗教的な刻印が見られるように思います。

 一つは直観を大切にしているところ。民藝品を評価するのも自分の眼だけに頼り、一期一会の出会いを大事にします。また人為や作為を否定して神がなすという境地を尊ぶところ。工藝品が量産によって無駄が省かれ、省略されるうちに洗練を経てなったのが民藝だという考え方です。

 また民藝を考える際に、「宗教家は救世の念願を果たすために衆生に呼びかけました。工藝に志す者はどうして民藝に呼びかけないのですか(p164)」というように、宗教のあり方と工藝のあり方を比較して考えたり、美そのものを仏教的な「無」や「不二」の思想に関連づけて考えたりします。そして彼の書く文章にも禅語のような簡略で一見矛盾に満ちた表現が多々見受けられます。

 例えば、「器が材料を選ぶというよりも、材料が器を招くとこそいうべきである(p87)」とか「音楽会に行かなければよい音楽が聞けないということは、それだけ平常の生活から音楽が去ってしまったことを意味するでしょう(p212)」とか「私の考えでは蒐集もまた一物の不断、不断の一物でなければならぬ。つまり物々が新鮮な一物として現われる時、不断の蒐集となるのである(p305)」といったところ。

 いま読んでみると、以前は感じなかった説教的な宗教臭やくどいようなところもありますし、民藝を強調するあまり、貴族的な工藝を排撃する姿勢はあまり好きにはなれません。私としては、「日本伝統工芸展」に出品されているような精緻で華やかな工芸品にも愛着があり、心惹かれるものがあります。これは彼の言うように美の堕落でしょうか。プロフェッショナル―アマチュアの図式だと思いますが、これはどちらを否定してもいけないものだと思います。

 柳が東大の哲学科時代、心理学を専攻していて、心霊学に関心をもっていたことや(「解説」p379)、彼自らも「真の美の表現には、怪異即ちグロテスクの要素が常に内在している・・・怪異の美を生み得る時代のみが、真に力のあった時代だともいえる(p236)」と書いているところには、幻想美学の信奉者として親しみを感じてしまいます。