:文豪怪談傑作選二冊

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東雅夫編『文豪怪談傑作選 川端康成集 片腕』(ちくま文庫2006年)
東雅夫編『文豪怪談傑作選 芥川龍之介集 妖婆』(ちくま文庫 2010年)


 二人の作家の怪奇的趣向のある作品を読み比べてみました。芥川のほうが7年早く生まれています。二人の怪異への傾向はまったく違っていて、川端康成は心霊学への興味が強く、千里眼を持っていたり神経症的だったりする人物が登場し、感覚的に鋭敏で少し薄気味悪さを感じさせる書き方が持ち味です。芥川龍之介は、幼いころに父母から怪談を聞かされて育った影響か、怪談や妖怪への嗜好が顕著、また海外の怪奇文学の造詣が深く、理路整然としたしっかりした文章で綴られています。

 どちらかと言えば、芥川龍之介のほうが私にはあっています。中学生のころに読書感想文を書かされた時「歯車」「河童」の晩年の作を読んで、神経症的で、かつ悟ったような諦観に満ちた態度が好きになれず、また「今昔物語」や外国文学からヒントを得て物語を組み立てる創作方法には、器用さだけでオリジナリティがないと、長らく敬遠をしていました。今回読んでみて、「英米の文学上に現われた怪異」や「The Modern Series of English Literature」の存在を知り、英文学を中心に怪異文学への興味が並大抵でないことが分かり、急に親しみを感じました。

 芥川龍之介(1892年生まれ)の生年に近い作家を調べてみると、日夏耿之介(1890年)、江戸川乱歩(1894年)や平井呈一(1902年)らがいます。このあたり英文学の怪異小説にのめり込んだ作家が集まっているのは、小泉八雲の影響、あるいはマッケンなど英米で怪異小説が流行したからでしょうか。


 『芥川龍之介集』では、幻燈の映し出す風景のなかに窓から顔を覗かせた少女の幻影を垣間見る「幻燈」が出色。大正時代の少年が見る西洋の風景への憧憬と相まって不思議な余韻を残します。遺稿の「夢」は、夢と現実が渾然となった主人公が、知らないうちに殺人してしまったのではという不安に苛まれ錯乱する話、「市村座の『四谷怪談』」は芥川ならではの才気ばしった仕方で議論が展開されていて、ともに◎。

 他、「妖婆」「魔術」「午休み」「文藝雑話 饒舌」「近頃の幽霊」「英米の文学上に現われた怪異」「The Modern Series of English Literature序文抄」「新編・妖奇怪異抄」「椒図志異(とくに「怪例及妖異14」「魔魅及天狗2、22」「河童及河伯1」「呪咀及奇病3」)」が面白かった。「椒図志異」ではUFOらしき話やドッペルゲンガー体験が語られています。「妖婆」と「アグニの神」は同じ趣向。


 川端康成の作品は、芥川に比べると、より私小説的雰囲気があり、学生時代の海の合宿を舞台にしたものや、伊豆の旅行体験が出てきたり、親子兄弟親戚などの人間関係が物語の展開の中心になるケースが多いように思います。また「白い満月」「歴史」「薔薇の幽霊」など山間の温泉町が繰り返し舞台となって出てきましたが、これは実際の体験がどこかにあるのでしょうか。文章は会話や語りの部分が多く、和文脈で優しく女性的で、悪く言えばダラダラしていて、家庭小説や少女小説のような雰囲気もどこか漂っています(とくに「薔薇の幽霊」)。

 『川端康成集』では、生まれつき千里眼の能力を持った主人公が、西洋のいろんな心霊学のエピソードを交えながら、かつての恋人に語りかけるという設定で自分の人生を振り返る「抒情歌」、霊媒や艶めかしい裸女の幽霊をなよなよとした筆致で描く「慰霊歌」、作家の講演会を舞台に、遺伝子操作により変身が可能だと偽科学的な大法螺を展開する「時代の祝福」がとりわけ印象的。

 ほかに、「伊豆の踊子」と同じエピソードが出てくる「ちよ」とその続編「処女作の祟り」が妄想をテーマにした狂気に満ちた作品。病人や千里眼の持ち主が続々と出てくる「白い満月」、狂人の妄想で話が展開する「弓浦市」、タイムマシンに乗って昔の故郷を訪れる妄想を語る「故郷」、親切な薔薇の精が住む幽霊屋敷が主役の「薔薇の幽霊」などが面白く読めました。こうやって羅列すると病的な話ばかりです。

 ちなみに、幻想小説アンソロジーでよく取り上げられている「片腕」は一種のポルノ小説、ここまで書くならもっと先まで書けと言いたくなってしまいます。