吉田敦彦『天地創造神話の謎』

f:id:ikoma-san-jin:20190331072208j:plain

 吉田敦彦『天地創造神話の謎』(大和書房 1985年)

 

 引き続き、吉田敦彦を読みました。この本は『天地創造99の謎』(サンポウブックス、1976年)に加筆・増補したものということなので、前に読んだ二冊よりは古いものです。オイディプス神話の構造分析や南米ボロロ族やアピナイェ族の神話についてのくだりは『神話の構造』と同じ内容。入門書的な体裁で、見開き2ページでひとつの項目を解説し、各項の冒頭で前項の復習を簡単にしながら次の説明に移る方法は、簡潔さと全体の流れを両立させるうまいやり方だと思いました。

 

 また、世界の神話をテーマごとに区切って考えているのが特徴で、全体は9章からなりますが、大きく二つに分かれ、ひとつは世界の初源についてのテーマ(世界の創造、人類誕生、太陽と月・霊魂・火・死の起源など)、もうひとつは神話自体についてのテーマ(東西神話の類似、神話はなぜ生まれたか)を取りあげています。

 

 一点気になったのは女性蔑視的な視点。とくに、第6章「霊魂は、なぜ生まれたのか」と第7章「女性は、なぜ罪と関係あるのか」に顕著。第6章では、人間の霊魂というものは、天に属する男性的部分と、大地に属する女性的部分に分かれ、男性的部分は天に飛翔しようとするのに、女性的部分が誘惑の手段を使ってそれを阻止しようとしているとするグノーシス神話と、天から来た魂と地下から来た魄が身体の中で結合したのが人間で、汚濁の世界から天上に帰ろうとする魂の要素が強いのが男性で、それを引き留めようとする魄の要素の強いのが女性という中国の魂魄説を紹介し、両者が類似しているが、これが人間存在の真相だと書いています。第7章では、「神に近い生活を送っていた男が、あとから出現した女の犯した過ちによって、苦しみに満ちた生を送った末に死ななければならぬ運命を持つようになった」とか、「なぜ男は女のために一生苦しみ、働くのか」とか妄言を吐いています。吉田敦彦は私よりかなり上の世代なので、戦前の気風が奥深く残っているということでしょうか。

 

 いくつかの面白い指摘がありましたので、我流の要約で紹介しておきます。

①神の意志で、神がなにか言葉を発すると、そのとおりに、天地の万物が生まれたり(古代ヘブライ神話)、神の名前を知るだけで絶大な力が授かったり(日本の伝説)、と言葉の重要性を指摘しているところ。

②卵の中から宇宙が生まれたというフィンランド神話を取りあげ、卵から生物が出現する奇蹟を見て、科学的説明のなかった時代の古代人の想像に思いを馳せているところ。また、卵から雛鳥が出現し蛹から蝶が飛び立つという神秘を前にして人類は霊魂の存在を信じるようになったというスペンサーの考え方を紹介している。

③海に矛をさし入れ海水を攪拌して引き上げた時に、矛の先端から滴った塩水が積もってオノゴロ島ができたという日本神話について、魚を釣るように陸地を釣り上げたという南洋の神話の一変種とする見方と、矛は男根で塩水は精液をシンボライズしており、男性器が創造の源とするインドやエジプト神話と共通しているとする見方を紹介している。

④人間の霊魂を神の息と同一視する観念は、ユダヤキリスト教に一貫するとしている。

⑤近親婚のタブーは人類のすべての文化に共通して見られるのに、いくつかの神話では、人類が原初の男女によってなされた近親婚から発生したことになっている矛盾を指摘しているところ。

⑥人類の諸文化の間に優劣の差はなく、人間はいつの時代どの場所においても、つねに偉大で崇高な神性と野蛮で低劣な獣性を兼ね備えた矛盾に満ちた存在であり、その矛盾を解決しようと痛ましい努力を続けてきた。神話はそうした人間の努力の証言だ、と最後に力説しているところ。

 

 恒例により、不思議な神話的想像力が感じられ文章を引用しておきます。

卵・・・割れた殻の上半分は天空となり、下半分からは堅固な大地ができた。卵の黄身からは太陽が、白身からは月が発生し、卵の中のまだらな部分は星に、黒っぽい部分は雲になった/p25

悪魔が神の身体を転がすにつれて、陸地はどんどん面積を増し、しまいには海は陸によってすっかり覆われてしまった/p27

マルケサス島の神話によれば、世界のはじめにはただ海だけがあったが、その上にカヌーに乗って浮かんでいたティキ神が、海底から陸地を釣り上げた/p28

世界が創造されるべき時がくると、この大洋に浮かび眠っているヴィシュヌの臍から、蓮が芽を出し、やがて黄金色に光り輝く一輪の花を咲かせる・・・この蓮の花が大地となり、また万物を生み出す大地女神の女陰ともなって、ヴィシュヌの内にある世界が、現実のものとして創造される/p35

アルメニアの伝説・・・毎年昇天節の晩に・・・岩から、馬に乗り一羽の漆黒の鴉をともなったメヘルという名の巨人が出てきて・・・また岩の中へ帰る・・・割れ目は、巨人が通るときは大きくなるが・・・岩の中へ帰るとまた元通り閉じる・・・かれのかたわらには、たえず二本のろうそくが燃え、また、かれの面前では宇宙を象徴する一個の車輪がまわり続けている。この車輪の回転が止まると、世界の終わりがくる/p51

アイヌの神話・・・悪神は、日の出の時にも日の入りの時にも、太陽を呑もうとして大口をあけるので、神々はその口の中に、朝には狐を二匹投げ込み、夕方には烏を一二羽投げ入れて、そのすきになんとか日神を無事に通過させていた/p70

むかし天には十個の太陽があった。弓の名人が地上の熱さを和らげようとして、そのうちの九個の太陽を射落としたところが、残った一個の太陽は射られることを恐れ、山のうしろに逃げ去り・・・二年間暗闇が続いた/p75

水の都の古本市とたにまち月いち古書即売会など

 今月は二つの古書市を覗いてきました。ひとつは、3月中旬の「水の都の古本市」で、二日目がうまく大阪の麻雀会と当ったので行ってきました。二日目ともなると、朝なのに客の姿は少なく、のんびりと見ることができました。室内が暗く、私の視力では背文字が読み取りにくいのが瑕ですが。ここでは念願の探求書を入手。

矢野峰人譯『シモンズ選集』(アルス、大正10年12月、2000円)→少し傷んでいるが致し方ないか。

佐藤彰『崩壊について』(中央公論美術出版、平成18年8月、1000円)→こんな本が出ていたのは知らなんだ。建築史が専門で、教会の塔など東西の建物の崩壊について書いたもののようで、M・デシデリオやW・ベックフォード、J・ロマーノなどの名前が散見されます。

f:id:ikoma-san-jin:20190326113309j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326113358j:plain


  先週末、大相撲大阪場所観戦日がちょうど「たにまち月いち」の初日で、朝一に駆けつけました。いつもの矢野書房と寸心堂で購入。

モーリス・メーテルランク杉本秀太郎訳『温室』(雪華社、85年4月、1500円)

寺山修司歌集 帆歌』(短歌新聞社、昭和58年7月、300円)→自選歌集と謳っているのに、「ノート」には「歌の選択から配列まで、すべて岸田理生さんにおねがいした」と書いてある。

「本の手帖 特集:詩の雑誌」(昭森社昭和36年5月、300円)

「本の手帖 特集:豆本」(昭森社、昭和37年8月、300円)

「本の手帖 特集:詩と版画の交流」(昭森社、昭和37年11月、500円)

山崎正一『幻想と悟り―主体性の哲学の破壊と創造』(朝日出版社、昭和54年7月、300円)

f:id:ikoma-san-jin:20190326113450j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326113539j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326113626j:plain


 別の日、南森町の飲み会に合わせて、天神橋筋古書店を回りました。駄楽屋書房で下記。

井口正俊/岩尾龍太郎編『異世界ユートピア・物語』(九州大学出版会、01年4月、1000円)

 天牛書店では探求書が安く買えました。

小日向定次郎『D・G・ROSSETTI』(研究社、昭和9年4月、200円)

アーネスト・ダウスン小倉多加志訳『悲恋―ディレンマ』(白帝出版株式会社、54年7月、100円)

ロビン・スペンサー愛甲健児訳『唯美主義運動―Aesthetic Movement』(PARCO出版、80年6月、100円)

f:id:ikoma-san-jin:20190326113731j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326113804j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326113845j:plain


  大津在住の古本の師の病気見舞いに行く途中、奈良まで足を延ばして「柘榴ノ國」へ。ここも店主が退院したばかり。古い文庫本を二冊。

折口信夫『世々の歌びと』(角川文庫、昭和42年1月、380円)

栃折久美子『モロッコ革の本』(集英社文庫、昭和55年1月、150円)

 

 オークションでは、珍しい本をいろいろと入手することができました。

下條雄三譯『ペルシヤ・デカメロン』(文藝市場社、昭和4年11月、1080円)→内容は、葉巻蘭也『ぺるしゃでかめろん』と同じで、フランツ・ブライ編の『ペルシャデカメロン』(独文)を訳したもののようだ。

出品者のikakonbu3838さんは、「いかこんぶ」を逆さ読みすれば分かるように、「文庫櫂」さんで、このブログをご覧いただいているとのこと、ありがとうございます。日本橋電気屋街の裏手にあるお店には2回ほど行ったことがありますが、また一度寄せていただきます。

アンリ・ドゥ・レニエ鈴木斐子譯『生ける過去』(新潮社、大正15年5月、500円)→この本の存在は知っていたが、初めて見た。

塚本邦雄『樹映交感』(季節社、83年11月、1630円)

高貝弘也『露光』(書肆山田、10年10月、500円)

安齋千秋『フランス・ロマン主義とエゾテリスム』(近代文藝社、96年1月、716円)

吉田敦彦『鬼と悪魔の神話学』(青土社、06年5月、500円)

f:id:ikoma-san-jin:20190326113949j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326114028j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326114108j:plain

f:id:ikoma-san-jin:20190326114145j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326114219j:plain

 

吉田敦彦『神話の構造』

f:id:ikoma-san-jin:20190321130039j:plain

 吉田敦彦『神話の構造―ミト‐レヴィストロジック』(朝日出版社 1978年)

 

 前回読んだシンポジウムの報告と違い、学術的で、扱っているテーマも専門的な話題になり、難しくなっています。内容は、4つの論文から成り、そのいずれもが副題にあるように、レヴィ=ストロースの神話論のいくつかを紹介するもので、とくに最初の3論文ではその欠陥を厳しく指摘していて、レヴィ=ストロースに果敢に挑んでいる印象があります。恥ずかしながらレヴィ=ストロースはまともに読んだことがなかったので、その理論の大胆さに驚いたというのが本音です。

 

 まず冒頭の論文「神話の時間と構造」では、レヴィ=ストロースが、神話を通時的に読むだけでなく、その構造を共時的にも捉えるべきという理論をもとに、オイディプス神話を題材に分析した論文を紹介した後、それを検証し、その試みが破綻していることを指摘しています。複雑でとてもここでは紹介しきれませんので詳しくは読んでいただくしかありませんが、レヴィ=ストロースの神話の分析はとてもドラスティックで鮮やかで、推理小説を読んでるがごとき印象がありました。著者が言うように、たしかに強引な解釈が見られたり、通時的な読み方を捨象するなど無理があることは理解できますが、基本的な考え方には魅力を感じました。

 

 二番目の論文「神話と謎」では、レヴィ=ストロースによるオイディプス神話とペルスヴァル神話を比較した分析を取りあげています。その分析を簡単に紹介しますと、

①まず神話に現われる謎のあり方には、「答えが与えられぬことを予想して出される問」と、その要素を反転させた、「そのための問いが発せられなかった答」の二つがあるとし(p74)、

スフィンクスの謎を解くオイディプス神話は前者で、「聖杯が誰のため何に使われるのか」という質問を最後まで発しなかったために呪いを解けなかったペルスヴァル神話は後者であると指摘(p75)。

③知者でありかつ性的タブーを犯したオイディプスと、無知で性的純潔さを持ったペルスヴァルは、正反対の性質を備えていることに着目し(p76)、

④その隠された意味は、答えられないだろうと出された問に答えてしまうことは、結合してはならぬ者同士の性関係につながり、必要な問を発しないということは、性関係の不毛と純潔を表わすものとしたうえで(p77)、

オイディプスの近親婚によってテバイに引き起こされた疫病の猖獗は自然力の跳梁状態で「過剰な夏」を表わし、反対に、ペルスヴァルが解消できなかった自然力の凍結状態は「恒常的冬」を表わすとしています(p77)。

⑥夏の極端化は腐敗、冬の恒常化は不毛と結びつき、結局はどちらも人間の生を不可能にすることを人々に示し、現行の季節の平衡とその規則的な交代を好ましいものとして、これに従うべきことを教えているというのが結論で(p78)、これもなかなか鮮やかなものがありますが、これに対して、著者は、

レヴィ=ストロースのこうした分析は、各々のケースでいろんな方法を試すという試行錯誤的なもので恣意的であり、何か画期的な新しい科学的分析法が確立されたと思うのは間違いであると警告し(p81)、さらに、

②そもそもテバイを襲った疫病については、もともとオイディプス神話にはなく、後世にソポクレスがペロポネソス戦争の悪疫をヒントに付け加えたものであるとし(p84)、細かい部分で間違いを犯していると指摘しています。

 

 次の論文「ボロロ神話の論理」も詳細を説明するのは大変なので、大雑把に紹介しますが、レヴィ=ストロースがブラジル中央のボロロ族の二つの神話を取りあげ、①親族の内部で過剰な結び付きがある、②それが原因となって宇宙が分離される、③しかしその分離は新しい媒介者の出現によって補填される、という三段階の共通の構造があると分析していること(p104)、また、ボロロ族と、北米のオジブワ族、ポリネシアのティコピアには、もともと多数あった部族が現在の部族数になる原因を語る神話があるが、共通の構造として見られるのは、連続が不連続になる経緯が説明されていることで、無作為に選別がなされ不連続になるのと、何らかの基準があって選別され不連続になる二つのパターンがあることを指摘していると紹介し(p124)、そのうえで、また細かいところで作為的な誤謬を犯していることを暴露しています(p183)。

 

 最後の「死の神話の起源」は、上記3論文とは毛色が異なり、死の起源神話についての著者自らの考察が中心で、火の起源と死の起源を同時に説明する神話が日本でも世界でも見られることから始まり、男が女と性の交わりを持つようになって死が始まったという話も世界共通で、さらに、死の起源が農耕と結びつく神話も多いことが指摘されています。

 

 この章では、レヴィ=ストロースの理論については最後に少し紹介されているだけですが、ここでもレヴィ=ストロースの眼力は鋭く、ブラジルの各地にある神話をいくつか取り上げ、「腐木の呼びかけに答えた」や「蛆のわいた肉を持つサリエマ鳥の鳴き声に誘惑された」ことで人間に死が訪れるようになったという神話や、「臭いフクロネズミを食べた」途端に老人になる話の共通要素として、「腐ったもの」が人間の聴覚、味覚、嗅覚に触れたことが人間の死の原因になるという構造を見抜いています。

 

 いくつかの魅力的な神話的断片を引用しておきます。

竜の歯を抜き取り、それを作物の種を播くようにして、耕した地面の上に播いた。すると竜の歯が播かれた畝の中から、完全武装した戦士たちが生じた/p12→ハリーハウゼンの特撮映画を思い出します。

子供は母をもっとよく探そうとして、一羽の鳥に変身し、バイトゴゴの肩に糞をかけた。するとその糞から、彼の肩の上に、ジャトバの大木が生えた/p91

ボロロ族の間では、死者の遺体はまずいったん、村の広場に埋葬され、その後でまた掘り出されて、肉を取られた骨だけがきれいに洗われ、色をぬられ、モザイク状の羽飾りを貼りつけられて、籠に入れられ、湖か川の水に沈められる・・・ボロロ族が水中にあると信じている霊魂の村に行って、死後の生を生き、かつまた地上に再生する可能性を持つことができる/p96

ついに好奇心を押さえきれなくなって、目隠しを持ち上げ、一人の男を見た。すると彼の視線を浴びた男は、雷に打たれたように、たちまち死んでしまった/p118

少年たちは、途中でフクロネズミを殺してその肉を食べた。すると彼らはたちまちよぼよぼの老人に変わってしまい/p158

地下の世界では、地上が夜の間太陽が輝き、地上が昼になると夜になった/p160

Claude Seignolle『La Malvenue』(クロード・セニョール『異子』)

 f:id:ikoma-san-jin:20190316102557j:plain

Claude Seignolle『La Malvenue』(Phébus 2000年)

 

  これまで読んだセニョール作品のなかでは最高作と思います。物語の展開がとても興味を惹くようにできていて、これが日本語なら巻措く能わずというところでしょう。フランスの横溝正史、あるいは夢野久作か。長編の醍醐味が堪能できました。

 

 少し長くなるかもしれませんし、要領が悪いので意味が分かりにくいかもしれませんが、ストーリーを記しますと、

(現在)ソローニュの農場が舞台。祖父の代から、禁忌の沼の伝承がある。17歳のジャンヌはみんなから「異子」と呼ばれ、額に星印がある。どうやら生まれる時に何かあったらしい。行くなと言われていたマルヌーの沼から顔の一部のような石のかけらを拾ってベッドの下に隠している。麦の収穫が終わり、みんなでお祝いをしようという前の晩、ジャンヌは何かに導かれるようにして麦束の山に火を点け、臨時雇いのよそ者の老人の靴にその火種を入れる。使用人がその一部始終を目撃している。翌朝、よそ者が警察に連れていかれ、使用人がジャンヌに見たと言うと、誰にも言うなと命じる。使用人はジャンヌが好きだったが、ジャンヌは隣家の息子が好きだった。使用人に命じて、マルヌーの沼の茂みに捨ててある石のかけらを集めて家まで運ばせる。使用人は以前のある事件を思い出して恐怖に震える。

 (過去)それは先代の主人がヌーの沼の土地を耕している時、埋まっていた古代の石像に犂が当って、首が捥げ、それを持ち帰ったことから始まった。女中に命じて石を洗うと美人だが意地悪な微笑が浮かんでいる。石を犬小屋の前に置いたが、その晩犬が呻く声がして、翌朝見ると犬は消え、石の口には犬の毛がこびりついている。主人が石を骨董屋に売りに行くと、骨董屋はマルヌーの沼は昔ガリア人が信仰した泉で、石像に触ると子宝に恵まれるという伝承があると言う。翌年、妻から身ごもったことを知らされる。

 (現在)使用人は石のかけらの入った袋を豚小屋に隠す。ジャンヌは沼で隣家の息子と出会い言い寄られるが、悪魔が乗り移った彼女は自分の家に火を点けるのと交換よと告げる。しばらくしたある夕方、ジャンヌと使用人がまた沼に行き、兎を追いかけて沼の深みに入った時、頭のない洗濯女が白い布を沼で洗っている姿を見る。使用人はジャンヌを置いて恐怖で家に逃げ帰る。

 (過去)春になり粉屋が麦を挽いた粉を持ってきた時、主人は納屋にまた石があるのを見つけ、聞くと、骨董屋が恐れをなして戻して来たと言う。粉屋も沼から出てきたものは危険だと忠告する。実際、屋根裏に上げようとした石が落ち、危うく粉屋に当たるところだった。二日続けて夜屋根裏から物音がするので、主人は見に行くが、戻ってくると高熱を発してうなされ祈祷師を呼べと言う。石が動きまわっていたらしい。祈祷師は、石の呪いがかかっていると言い、高熱を下げる呪文を書いた紙きれを飲むように処方する。

 (現在)ジャンヌは沼に沈むところを駆けつけた家の者に救い上げられる。一方、使用人は夜うなされて石のことを喋ったので叩き起こされ詰問される。ジャンヌに唆されて沼から運んだと告白し、ジャンヌは石のかけらを沼に捨てに行くよう命じられる。途中で隣家の息子と出会い、石を捨てるのを手伝ってもらうが、捨て終わった途端、雷雨となり、二人は泥の中で結ばれる。約束は守るよと隣家の息子は言うが、悪魔が去ったジャンヌには意味が分からない。家に帰ると、ベッドの下の石のかけらを捨てるのを忘れていたことに気づく。用事のついでに父の墓に詣でると、墓石が持ち上げられた痕があり石が欠けていることに気づく。その夜、娘のことを悪く言われた主人が使用人と取っ組み合いの喧嘩をし使用人は追い出される。ジャンヌが夜寝ていると、郊外の墓の方角から何者かが近づいてくる気配が、次々に犬が鳴くことで分かる。床を見ると例の石片が落ちていたので、外へ捨てに行くがすぐ誰かによって窓から投げ返される。外を見ると隣家が燃えている。

 (過去)主人は紙切れを飲んで復調したので、沼を見に行く。帰ってから屋根裏で物音がするので見に行くと、雇人頭が気まずそうに出てくる。追い返した後奥に誰かいるので見ると、妻が顔を伏せて泣いている。その夜、主人は石の頭を石像にくっつけようとして沼で溺れる夢を見たので、慌てて祈祷師の所へ相談に行き、帰って来ると麻縄で石を柱にぐるぐる巻きにする。すると家全体が大きく揺れる。次に沼へ走って石像を見つけた場所を掘りあてようとするが見つからない。今度は石の頭を沼に返そうとするが、屋根裏から石を持って階段を降りる際、石が女のように絡みついてきて転落して死んでしまう。女中は石の頭をハンマーで小石に砕く。と同時に妻が額に印を持つ女の子を出産した。それが異子だ。

 (現在)追い出された使用人が隣家の火事を見て、これもジャンヌの仕業と思い警察に行く。警察署では署員一同がよそ者の老人の言動に心酔していたが、老人に声をかけようとして牢から消えているのを発見する。一方、隣家では火を点けた犯人を銃で撃ち皆で追う。途中でジャンヌの妨害に遭うが、結局息子が犯人だと分り全員呆然とする。ジャンヌは自分が命じたと言って家に逃げ帰る。と部屋によそ者が現れて「石を沼に戻しなさい」と言う。そこへ使用人が警察を連れてやってくる。ジャンヌは石を持ったまま沼に向かって走り、石とともに沼に沈む。主人と警察らで沈んだ辺りを捜索し、手ごたえがあったので引き上げると、それは古代の石像で頭がなかった。

 

 小説の構成としては、現在と過去が交互に語られていく形で、しかもその二つの話が同じ構造を持っています。というのは先代の主人は元雇人頭が先々代主人の娘と結婚して跡を継いでおり、現在の主人も元雇人頭で、先代主人の妻と浮気をしていて、先代主人が階段から落ちて死んだ後、結婚して主人となっています。二つの物語に共通するのは石の呪いや沼の禁忌が主人と一家を圧迫していることで、先代と現在の主人に共通して仕えているのが女中と使用人。

 

 幻想小説のパターンとしても、いくつかの読み方ができるようです。基調となっているのが石の呪いで、これはメリメの「イールのヴィーナス」を思わせるところがあります。頭のない夜の洗濯女や墓から抜け出た魂がさまよう場面をみると幽霊小説ですし、ジャンヌ対よそ者という悪魔と神の対決物語とも読めます。あるいは普段は穏やかな美人なのに悪魔が憑りついたときは額の印が赤くなり邪悪になるジャンヌを見れば、「ジキル博士とハイド氏」のような二重人格小説の要素もあります。雰囲気を盛り上げるお膳立てとしては、田舎の農場、禁忌の沼、骨董屋、祈祷師、墓場、数々の伝説、紙に書かれた呪文、霧、雷雨など。

 

 もっとも印象的だったシーンは、深夜、墓地から帰ってきたジャンヌが布団の中にいると、遠くの墓地で犬が鳴くのが聞こえ、次に途中の犬が連鎖するように鳴く。何かが近づいてくるようだ。なぜか分からないまま歩数を数えてみると、ちょうど隣家の辺りへ来たところで、隣家の犬が鳴く。さらに数えていると、どんどん近づいてきて、ちょうど家に着いたぐらいと思っていると、家の扉が開き、自分の部屋の方へ歩いてきてついに戸が開き、ベッドの方に向かってくるという恐怖を煽る描写。これは幽霊小説でも珍しいパターンではないでしょうか。

 

 この本でも先日読んだ本と同様、J.-P.Sという人が序文を書いていますが、的確にセニョールの魅力を言い当てているので、当方で脚色した形で紹介しておきます。「セニョールは若くして師のヴァン・ジュネプについて多くの民間伝承を蒐集し、いつかは民俗学の知識を使って小説を書こうとした。ちょうどバルトークが作曲するのに、収集した民俗音楽から出発したように。だからセニョールの創りだす幻想は薄っぺらな幻想でなく、土壌に根づいた集合的無意識的な迷信の力を利用したもので迫力がある。当初は、サンドラルス、マッコルラン、ロレンス・ダレル、ユベール・ジュアンなど一部の識者から激賞されたものの一般からは評価されなかった。マラブの幻想小説叢書に入ってから、多くの読者の熱狂に迎えられた。がこれは逆に文学を重んじる人たちからは下位ジャンルに属するものとして軽蔑の眼で見られることになった。本来は質の高い文学作品であるのに」。

 

 民間伝承の雰囲気を色濃く残しているフランスの文学作品は、これまで読んだなかでは、ジョルジュ・サンドの『フランス田園伝説集』(岩波文庫)がありますが、ここでも石ころが目を開けてこちらを見るという話や夜の洗濯女が登場していました。また、アレクサンドル・デュマの『Les mille et un fantômes(千一幽霊譚)』にもそうした味わいの作品があったように思います。

 

 原題の「Malvenue」は辞書を見ると、「発育の悪い人」という名詞と、「場違いな、発育の悪い」という形容詞がありましたが、普通の子ではないという意味で「異子」と訳してみました。異子が果たして誰の子か、というのもこの本を読んでいての興味のポイント。先代主人か、奥さんと浮気をしていた雇人頭(現在の主人)か、それとも奥さんが少し触れただけの石像か? 私が思うには石像の子。

吉田敦彦ほか『神話学の知と現代』

f:id:ikoma-san-jin:20190311094006j:plain

吉田敦彦+山崎賞選考委員会『神話学の知と現代―第8回哲学奨励山崎賞授賞記念シンポジウム』(河出書房新社 1984年)

 

 山崎賞というのは、哲学者の山崎正一が大学退職金の一部を基金として、哲学の研究で優れた業績を上げつつある人の将来の研究に期待する意味を込めて贈る賞で、村上陽一郎市川浩坂部恵らが受賞しています。この本は第8回目に受賞された吉田敦彦を中心に開かれたシンポジウムの記録です。2部に分かれていて、第1部はフランス文学者の渡辺守章、第2部は神話学者の大林太良をゲストに、活発な議論が展開されています。

 

 シンポジウムや座談会の記録は、堅苦しい論文を読むのとは違って、言葉が平易で分かりやすいこと、質問と回答という形なので問題点が浮き彫りになること、本音トークが聞けること、楽しい雰囲気が味わえるなどありますが、この本はそのシンポジウムのよいところが出ています。山崎正一と吉田敦彦両氏があらかじめ構成をよく練られたもののようで、吉田敦彦の基調報告、ゲストのコメント、さらに哲学者の面々による質問という形で進行、座長の山崎正一氏が味のあるまとめをしています。

 

 山崎正一の問題意識は明確で、この賞の過去の受賞者の顔ぶれを見ても、近代科学の考え方あり方を乗り越えようとする視点が感じられますが、この本でも近代科学主義が欠落させている部分として神話を取りあげ、最後の結論部でも、神話は科学を補完するもので、人間はどうしても抽象的なのっぺらぼうな世界に生きることはできず、文化という一種の澱みみたいなものと切り離しては生きられないと主張されているように受け取りました。

 

 いくつかの興味深い論点が見られましたので、いつものように曲解をまじえて紹介してみます。

①現代の神話:現代の人間はそれぞれが別の価値で動いているように見え、自分たちも意識していないが、実は深いところで共通する神話を生きているのでは(吉田、p40、243、256)。これに対し、目に見える形でストーリーになっていないと神話とは言えないのでは(大林)という意見があり、神話の原材料みたいなものと訂正している(p258)。→これはユング的な心理学の領域にも関係してくるものだと思う。

②神話の読み直し:ヨーロッパ人にとって神話のような機能をしているものは、日本人にとっては「日本の神話」ではないかもしれない。例えば自然観や、伝統詩歌によって伝承され共有されている感覚的な風景のほうがそういう機能を果たしているのでは(渡辺、p45)。神話には言説、図像、儀礼の三つの要素があり、ギリシア神話には儀礼が残っていないが言説は多く、日本神話はその逆で(渡辺、p82、137)、もし神道儀礼がなくなってしまえば、日本神話は残らないだろう(渡辺、p142)。

③神話の定義:例えばキリスト教の信者からは神話という言葉は絶対に出ないことからすると、神話というのは自分たちの信じていない異教の神々の話という前提がある(渡辺、p36)。神話の言葉というのはもともと音声言語で、身振りとかを全部含めた言葉の呪力が神話を支え、神話が土着的に生きていたが、今はそれが普遍化され神話の言説だけが知識として瀰漫している。それは真の神話ではない(渡辺、p52)

④古代神話のルーツ:インド・ヨーロッパ語族の神話の三機能構造がアメリカ大陸で見られることについて、インドから東南アジアを通って、さらに太平洋をこえたという経路があり得る(大林、p185)。日本については、農耕起源神話など縄文中期の文化はニューギニアなどの古栽培民の文化と近似していただけでなく、オセアニアを経由してアメリカ大陸の古栽培民の文化とも、近似性を持っていたのでは(吉田、p214)。弥生時代から古墳時代の前期までは日本の文化は中国南部の文化と連なっていたが、古墳時代の半ばごろから北の騎馬民族文化が入ってきた(江上波夫の説を紹介、大林、p186)。

⑤親離れ:現代の日本にはいつまでもスサノヲ・コンプレックス(母からの分離の拒否)から脱却できない男たちが満ち溢れている。ある男には妻が、べつの男には娘が、また別の男にはマイホームが、母の代りとなっている(吉田、p241)。もともと動物の場合は生まれた時点で母親しかいない場合があり、父親という存在は人間になってからかもしれないし(山崎、p241)、オスとメスがコドモを育てることに協力する動物でも、コドモが一人前になる前に子と別れるので、動物の場合は父親の意識も母親の意識もない(吉田、p241)。

⑥人間と動物:人間がなぜ知恵を働かせ、整合性を持った神話や文化を生み出して生きるのかと言えば、人間が自然的には整合性を欠いているからで、人間以外の生物は本能に従って生きるだけで、種の存続のためにもっとも合理的で整合的な環境に適応した生き方ができるので、サピエンスである必要がそもそもない(吉田、p260)。人間は秩序のために無秩序を、合理のために非合理を、根本的に必要としている。同種の動物同士がむやみに殺し合ったり、雄が雌を強姦することはなく、人間の専売特許(吉田、p261)。

 

 私なりの面白い発見としては、

①タイラーやフレーザーあるいはデュルケームのような大学者たちは、だれも実際に未開人の所に行って研究することは一切せず、宣教師、行政官、探検家、商人などの報告を資料として分析していた(吉田、p17)。→これはアームチェア・ディテクティヴのようなものか。

②お釈迦さまも、豚肉食べて豚肉の中毒で死んじゃいました(大林、p218)。→自ら禁を犯したのかと調べてみると、釈迦の時代は肉食可だったみたい。

③むかしは若者宿、娘宿というのがあって、若者宿の方から集団的にデートに押しかける時、いちばん下のやつが提灯を持って先に行く。そこから「提灯持ち」という言葉ができた(大林、p248)。

④欧米化に対して自国文化の伝統のアイデンティティが言われるが、実を言えば、アイデンティティなんかどうでもよく「抵抗したい」ということ。金持ちになったら家系図も欲しいという場合、なぜ欲しいかといえば、こちらももともと立派なものであったと言いたいということ(山崎、p272)。

神話の本二冊

f:id:ikoma-san-jin:20190306102445j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190306102528j:plain

 大林太良『神話の系譜―日本神話の源流をさぐる』(講談社学術文庫 1997年)

大脇由紀子『徹底比較 日本神話とギリシア神話』(明治書院 2010年)

 

  引き続き神話に関する本を読んでいきます。前回も書きましたが、酒を飲みながら、ギリシア神話と日本神話が似ているという話をしていて、また興味がぶり返して、まっさきに読んだのが『日本神話とギリシア神話』です。この本は初心者向けの入門書の体裁を取っていてとても分かりやすく書かれていますが、内容は充実しています。第一章は、概説に加え神の異称一覧と神々の系統図を配し、第二章では、神の性格に焦点を当て、左ページに日本神話、右ページにギリシア神話というふうに対照させながら解説し、第三章では、神話のテーマに基づいて日本とギリシアを比較しています。

 

 ギリシア神話と日本神話の神同士の比較では、ガイアとイザナミをともに初源の女神として取り上げ、二人に共通するのは「奥さま」の恐ろしさを神格化したものだと指摘したり(p36)、厄災をもたらすが守護神でもあるゼウスとスサノオ(p44)、戦いの守護神と位置づけられるアテネ神功皇后(p56)、春の女神であるコノハナサクヤビメとアプロディテ(p62)、酒と豊穣の神であるが祟り神でもあるディオニソスと大物主(p74)、多くの偉業を成し遂げるが最期は父から離別されるヘラクレスヤマトタケル(p84)、月の女神アルテミスとツクヨミ(p98)、冥界の女王であり大地母神穀物神的な要素も持つペルセポネとイザナミ(p102)などの類似が解説されています。

 

 また、テーマ別の比較では、アイエテス王の金羊毛を盗み逃走するイアーソンを守ろうとして、彼を愛する王の娘メデイアが弟アプシュルトスの体を引き裂き投げ捨て、王がばらばらになった死体を拾っている間にイアーソンを逃がすという話と、イザナギが黄泉の国から軍隊に追いかけられ逃げるときに、身につけたものを投げるとそれが山ぶどうや筍となって追っ手を足止めしたという話が呪的逃走のテーマという点で共通していること(p167)、大地と農業の女神デメテルが、馬に変身した弟のポセイドンに犯され激怒して洞窟のような所に隠れてしまったので穀物が取れず世界が飢饉となり、日本では、太陽神アマテラスが弟スサノオの乱暴狼藉に怒り洞窟に隠れたので世界が真っ暗になるが、両者ともに卑猥なダンスで元に戻るという点が類似していること(p173)の二つが印象的でした。

 

 また恥ずかしながら、いろいろ知らないこと(あるいは忘れていたことかも)を教えられました。例えば、日本の「天皇」という語は古代中国の北極星を神格化した「天皇大帝」から作られたこと(p14)、皇族以外の身分から皇后となった初めての女性は仁徳天皇の后イワノヒメであること(p58)、「イオニア海」、「ボスポロス海峡」(「牝牛の渡り場」の意)という言葉は、ゼウスがイオを牝牛に変身させた時、虻が刺すので、ヨーロッパからアジアへ逃げようとして海を渡ったことに由来すること(p61)など。

 

 

 『神話の系譜』はいろんな専門誌、学術誌に掲載した論文をテーマ別にまとめたもので、上述の本に比べると、複雑で分かりにくい。範囲は中国、朝鮮、北方ユーラシアからインド・ヨーロッパ、東南アジア、オセアニアと世界中を網羅しているうえに、テーマも各種あり、その例がまた多すぎて食傷気味、頭がごちゃごちゃになってきました。もう少し咀嚼してほしいとは思うが、こうした丹念な資料の読み込みのうえに、著者の主張が展開されているので無視もできません。著者による「原本あとがき」と「解説」(田村克己)が全体を俯瞰していて分かりやすいので、こちらを先に読んだ方がいいかも。

 

 世界中でこんなに似た神話がたくさんあるというのは不思議です。民話についても、一か所にあった話がどんどん伝えらえて広まって行ったという伝播説と、同じ人間の考えることだから話が似てくるという普遍説(と言ったかどうか忘れた)がありましたが、神話についても同様のことが考えられます。しかし細部にわたって何か所も類似してくるとなると伝播としか思えません。

 

 いくつかの共通するモチーフを列挙すると、日、月が神の目であるというモチーフ(p12)、洪水神話(p25、p247)、失われた釣り針型の話(p100、p210)、見るなのタブーを破ったため夫婦が離別するというメリュジーヌ型ないし豊玉姫型の話(p100)、天界の代表者たる男と水界の代表者たる女とが結婚しその子あるいは孫に地上の支配者が生まれるという構造(p114)、王権の根源が天(p114)または海(p116)にあるという考え、あるいは土中よりの始祖出現モチーフ(p127)、穀種漂着モチーフ(p129)、性器損傷(p136)、二人の当事者の一方が称することが真実であるか否かを試すモチーフ(p143)、天上他界観(p145)、天地分離神話(p205)、死体化生(ハイヌヴェレ)型の作物起源神話(p222)、若木迎えや柱祭の儀礼(p225)、呪石のテーマ(p275)、石を取るかバナナを取るかと言われてバナナを取ったために人間は死ぬことになったというバナナ型の死の起源神話(p291)など。他にもまだまだありますが書ききれません。

 

 著者はまた一見似ていなくても、構造を比較することで類似の点が見つかると主張して、別地域の神話の構造を克明に比較していますが、素人なりに考えて、あまり意味があるとは思えないこじつけのような気がするところがあります。また似ているからどうなのかと言いたくなるところもあります。

 

 田村克己が解説で、自分が神話を研究するようになったきっかけとして、「肉のかたまりのようなものが切り開かれて人間の形をとるとか、首がころころと転がり最後に月になるとか」神話の内容の奇妙さに惹かれたと正直に告白していますが(p299)、私もそういう興味で神話の本を読んでいます。

 

 いくつか紹介しますと、

姑から辛い水汲みの仕事を命じられた貧しい女が、白髪の老女から桶を叩くとすぐに水で一杯になる魔法の棒を与えられるが、怪しんだ姑が魔法の棒を盗んで桶を三度叩いたところ、水は溢れ出たが水を止めることを教わらなかったため全村が水中に没し姑も溺れ死んだという話(江蘇省南京)(p27)→デュカスの「魔法使いの弟子」と似ている。

爺と婆が背中合わせで合体していたために、お互いに顔も見たことがなかったが、神さまが哀れんで稲妻となって二人を割り、以後子どもを作ることができるようになって、子孫が繁栄したという話(山形県真室川)(p53)→爺さんと婆さんに子どもができるとは。

治水工事の名手の禹は工事中は熊に変身している。妻がその姿を見てしまい恥ずかしくなって、崇高山の麓で化して敬母石となってしまった。禹が「わが子をかえせ」と叫ぶと、石が破れて子どもが生まれたという敬母石の伝説(『漢書』)(p63)、同様の話として、息子に王位をうばわれたクマルビが、息子に対抗できる怪物を作ろうとして、巨大な岩と交わって精液を流しこみ、岩が孕んで全身が閃緑岩からなる棒のような形の子どもを産む話(ヒッタイト神話)(p67)がある。

釈迦と弥勒ともう一神が最初の一組の人間を作ったが、夜のうちに何もせずに灯火に火を点し、水鉢に植物を生やすことのできるものが人間に魂を入れ守護霊となれるとして、三人で夜番をする。二人が眠り釈迦が目覚めていると、弥勒の前の松明に火がつき植物が生えているのを見て、その火を消し水鉢を自分のと入れ替える(モンゴル・ブリヤート族の神話)(p141)→釈迦がインチキをするとは。

班孟が墨を口中に含んで噛み砕いて、広げた紙に向かって噴き出すと、墨汁はみな文字となり、紙いっぱいの文字が自然に意味のある文章となった(『神仙伝』巻十)(p143)。

以上『神話の系譜』より。

 

トロイア戦争で大勝利をおさめた後、オデュッセウスの船は「ハス食い人(ロトファゴイ)」の国に上陸、至福の忘却に酔いしれるというハスの実を食べた水兵たちは、帰郷のことをすっかり忘れてしまう(『オデュッセイア』)(p130)。

丹後国風土記逸文では、浦島太郎の亀が「五色の亀」として登場、浦島太郎が舟に亀を乗せそのまま寝ていると、亀が突然他に類のないほど美しい女の人に姿を変え、その亀と太郎が結ばれる(p150)。→こんなパターンもあったか。浦島次郎の出てくる話は知っているが。

以上『日本神話とギリシア神話』より。

 

 ところで、ずいぶん以前から、神話について書かれた本を読んでいますが、いくら読んでも、神の名前や物語の筋が頭に残らないのは、困ったものです。

藤縄謙三『ギリシア文化と日本文化』

f:id:ikoma-san-jin:20190301102044j:plain

 藤縄謙三『ギリシア文化と日本文化―神話・歴史・風土』(平凡社 1994年)

 

 

 飲んでいて、ギリシア神話と日本神話の類似について喋っていたら、また興味が湧いてきて、その関連の本を読んでみました。藤縄謙三という名前は学生時代から知っていて、たしか『ホメロスの世界』か何かをその頃買った記憶がありますが、そのうち読まないまま古本屋に売ってしまったようです。今この本を読んでみて、たいへん後悔しております。

 

 近頃まれなくらい私の趣味にフィットして、読みながら何度も快哉を叫びました。ギリシアの専門家ではありますが、社会、歴史の分野の人なのに、ホメロスや抒情詩、牧歌詩など文学畑にも精通しているのに感心しますが、さらに驚きなのは日本の古典文学にも深い理解を示していることです。文章がとてもこなれていて読みやすく、痴呆症寸前の私の頭にもするりと入ってきます。翻訳も然り。マルクスの引用などでも(p326)、自分で手を加えて分かりやすく直しています。たくさんの知識を自分の頭のなかで咀嚼して整理し、自分なりの考えとして体系的に述べていて、そのため章や項目だてがあっても断片的でなく、ひとつの長編物語のように脈絡を持って綴られているのがすばらしいところです。

 

 そしてその底流に一貫して聞こえてくるのは、次のような感慨です。「四季の移り変わりに即応して営まれた日本人の生活は終り、俳句の季語も意味不明になりつつある。要するに日本の固有文化は今や死滅しつつあり、しかも古典文化として生き続けるのも困難な状況にある。私の書物は、実はその死を予感して歎く挽歌であったようである」(p387)。

 

 いくつかその主張のポイントを私なりに紹介してみますと、まずギリシア文化と日本文化の比較に関しては、

ギリシアでは地母神崇拝が根底にあり聖なるものは人々の身辺に存在したが、日本人は生活の場から離れた所に神を敬して遠ざけていた。そのため、神話を基盤としてその上に何かが発展形成されるということがなかったし、遠くのもの、異国的なものに対する憧憬や劣等感、また遠くの権威に頼ろうとする習性が生まれた(p40~43)。

②国家的な不幸が起こった際、ギリシア人は神の正義について考えたが、日本人は神の祟りと考えた(p49)。

③日本人が歴史を川の流れに喩えるのに対して、西洋人は歴史を何か構築物のようなものと見ている(p111)。

ギリシア人は先天的に視覚的であり、幾何学的な精神の持ち主であったのに対し、日本人は陰影とか、おぼろげな景色とかを愛して来た(p132)。ともに「thauma idesthai(見て驚嘆すべきもの)」、「見れど飽かぬ」という共通した表現はあるが、その対象は、ギリシアが武器や戦車や城壁、染めた糸や衣類など人工的な製作物であるのに対し、万葉時代の日本人は、椿や萩、浜辺や月夜の景色など、すべて自然のものである(p148)。

⑤日本の抒情詩は、自らの内面に注意を向け自分一人の悲哀の情に耽るもので、主体の情感を歌おうとしているが、ギリシアでは、悲劇も喜劇も神殿建築も彫刻もポリスの公共事業として行なわれ、抒情詩人でさえ公共の世界を常に意識しており、孤独な情緒に耽るということが少なかった(p168~170)。

⑥西洋においては、人々は平等の立場に立って定理を基準にして判断を下していたが、日本では、真理は師から弟子へ親子関係のように相続されてゆくものであった。そのため真理を普遍的また公共的なものと考えない傾向が生まれ、芸術に向かう場合も、作品そのものよりも作者の内心や人柄の方に人々は関心を持つようになっている(p185)。

⑦「国家」を意味する「おほやけ」が「大宅」すなわち支配者の家を指す語であるように、日本では家の中の秩序関係がそのまま拡大して国家の秩序の原理なっているが、ギリシアでは、一夫一婦の単婚小家族が原則でどの家も基本的には同一の構造であったから、特定の家が他の家々を完全に包み込んでしまうことはなく、王と一般自由民の関係も、政治的な思惑による同等の関係であった(p199~204)。

ギリシア人は宇宙の形成を生殖の過程として理解する傾向があり、牧歌的な生活というのはこの宇宙的なエロスの力の中で生きることであった。それゆえ西洋の牧歌的文学の伝統は青春の文学であり、季節のうちでは春が傑出して愛好されていた。それに対して日本の伝統的文学には、西洋の牧畜や農業のような生産活動との結びつきがなく、秋が最も好まれたのも、秋が収穫の季節だからではなく、もの悲しさや紅葉の美しさのためであった(p340~352)

⑨西洋における牧歌的な生活の理想は、神話的な黄金時代の楽園、若々しいエデンの園のような生活へと近づくことであったが、日本における自然への没入の思想は、自己を清らかにして極楽浄土に近づくことを意味し、また芭蕉の「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」のように老人趣味的であった。中国の陶淵明の桃源境は、ギリシア人やヘブライ人の理想郷と類似していて、労働のない極楽とは違って、軽度の楽しい労働のある世界である(p368~372)。

 

 それ以外に印象に残った指摘では、

①『日本書紀』のどのページにも、大小の天変地異や災害や疫病についての記述があるように、天皇は神霊に満ちた国土の生動と呼応すべき存在であった(p64~66)。

②18世紀の古典主義までは、古代ギリシアの美は永久に通用すべき美の模範とされていたが、19世紀の歴史主義の登場によって、古代ギリシアの美も歴史的な形成物に過ぎなくなり、相対的な価値しか持たなくなった(p108)。

③古代、中世、近代という三時代区分の起源は、ルネサンス時代の人々が中世的世界を脱却しようとして、古代のギリシア・ローマを模範と考え古代への回帰を希求したことにあり、日本で同じ時代概念を考えるのはおかしい(p118)。

④短歌のいくつかに視覚から聴覚へという構成が見られるが、これは日本的な精神の構造を示しており、叙景詩に抒情性を与えている(p157)。この典型的な和歌の構造は、庭園の風景を観賞したあと薄暗い部屋で湯の沸く音を聴く茶室の時間構成と似てはいないか(p159)。

⑤古代人の原始的な信仰では、霊魂は現世と完全に異なった土地へ行くのではなく、人間の間近に留まって地下で死後の生活を営む。この信仰から埋葬の必要が生じ、子孫によって規則的に供物が捧げられることになる。またこれが、食物調理のための火に清浄なものを見る「かまど」の崇拝と合わさり、家族宗教という一つの宗教を成立させていた(p191~192)。

プラトンは支配者階層内だけの共産主義を説いていた。結婚には優生学的な配慮を行ない、悪い親から生まれた子どもや不具の子どもは内密理に葬ることにして、人口数を一定にするという内容(p224)。→プラトンがこんなことを書いているとは!

アリストテレスによれば、人間の幸福は無為の生活ではあり得ない。幸福とは良く行なうことであって、一種の行為にほかならない。この行為は、必ずしも他人と関係を持つ必要はなく、自分自身のためになされる思惟が最も行為的であり、それゆえ観想的生活がすぐれて幸福な生活ということになる(p240)。

ユートピア思想とか革命思想とかは、牧歌的な理想の伝統を地盤にして育ったもの(p323)。

科学的精神だけでは工業文明は成立せず、そこには人間の労働を節約しようという一種の怠惰の精神がなければならない。しかし、機械の発明による産業革命は、結果的には労働の強化を生み出しただけであった(p326)。それを見ていたウィリアム・モリスは、工業をなるべく工芸の如きものに変質させ、労働というものを苦痛から解き放ち、人生最大の喜びに転化することを考えた(p330)。