:小沼丹『椋鳥日記』と結城信一『空の細道』

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小沼丹『椋鳥日記』(河出書房新社 1974年)
結城信一『空の細道』(河出書房新社 1980年)


 小沼丹の本は、山田稔の『マビヨン通りの店』の「小沼丹で遊ぶ」の文章に触発されて読んでみようと思いました。小沼丹について次のように紹介していたからです。「彼は小説らしい小説を作ることに興味を失い、・・・『自分を取巻く身近な何でもない生活』を題材に書くようになる。小説か随筆かの区別などどうでもよい(p60)」これはまるで山田稔そのものではないかと思って。

 内容は、娘と一緒にロンドンのウエスト・エンド・レインという所で間借をし、仕事もせず一年間ぶらぶらしながら、娘の英語の先生のご家族や、ロンドンに滞在している日本の同僚、近所の商店の人たちと交流する日常を描いたものです。

 読んでみて、山田稔とはかなりテイストが違う気がしました。小沼丹にはどこか洒落たところがあり、かつ穏やかでのほほんとした味わいがあります。何事もなく始まり何事もなく終わる、起伏も凋落も、高揚もありません。グランマ・モーゼスなどの素朴派絵画に通じるところがあるように思います。また、ある意味で男性的なところ、すなわち余裕と寛容、ものぐさなところも感じました。

 山田稔の作品は全体の構成がもう少し練られている気がします。ドラマティックな流れがある、悪く言えば作為があるということになりますが。また現実に対し、もう少し厳しい目線があるように思います。

 ユーモアのありどころは誤解を恐れずに言えば、東京に生まれ育った小沼丹と関西に長く住む山田稔の違いではないでしょうか。小沼丹にも自分を客観的に見る眼が感じられますが、山田稔のそれほど戯画化はされてはいません。

 ただ小沼丹はこの本しか読んだことがありませんので、そうした印象はたまたまイギリスが舞台になっているからなのかもしれません。


 結城信一の本も、山田稔を読んでいて、老人を扱ったこの本のことを思い出したので読んでみました。読んでみて、こちらは完全な小説だったのと、雰囲気も上記の『椋鳥日記』と180度異なることが分かりました。この欄で一緒に取り上げるのもどうかと思いましたが、同じ時期に読んだので、まとめて書いておくことにしました。

 短編集ですが、全体が連作のような形で、一人住まいらしき主人公の老人と若い女性の交流が描かれています。これがまったくの小説であるというのは、これらの作品が書かれた時の著書の年齢が今の私の齢と同じ62歳なのに、70歳を越えた老人のような雰囲気を醸し出していて、明らかに作為が感じられるからです。

 あまり悪口は書きたくありませんが、この作品に充満している純文学的な言い澱んだような気取ったもごもごとした文体はあまり好きではありません。文学少年的な感性が全体を覆っていて気恥ずかしくなるような印象を受けます。とくに女性の描かれ方については、どこか香山滋の通俗小説に出てくる女性のような類型化した(男性の欲望・理想を反映した一方的な造形)ものなので抵抗を感じてしまいます。

 これに比べると、耕治人の老境小説の悲しみに満ちたリアルな世界の方が胸を打ちます。

 けなしてばかりも何ですから、最後に良い点を挙げるとすると、まず「空の細道」のタイトル、空に細道があってそこを通ってあの世に行くというイメージが素晴らしいこと。それから、頭の中がおぼろになりつつある老人が一人称でたどたどしく語る形になっているので、そこに現出する世界がおのずから一種の幻想小説ともいえる境地になっていることでしょう。