:ピエール・ロチ遠藤文彦訳『倦怠の華』(水声社 2009年)


 ピエール・ロティの物語をもう一つ読んでみました。彼の比較的初期の作品(四番目)ですが、他の作品と違ってロティとプラムケットという友人との対話の形式になっています。


 刊行者による注では「ロチとプラムケットとの共同制作」ということになっており、訳者も共作を前提として解説を書いていますが、私の印象ではこれはロティの一人芝居のように思います。辰野隆や渡邊一夫の随筆によくある対話形式です。そう思う理由は、プラムケットの語る文章のなかに、ロティの文体が見えるからです。


 なぜ対話のスタイルを採用したのでしょうか。対話でお互いの物語を揶揄しあうことで、異質な視点を取り込み単線的な物語にならないように工夫したのと、もうひとつは、前三作品が日記や手紙の引用を多くしていたので、そのスタイルからの脱却を試みたのではないでしょうか。


 二人がそれぞれの夢や思い出を語った一種の短編集ということが言えます。「カスバの三人の女」のなかで、「千一夜物語の続きのような話」というフレーズがありますが、この本の全体が一種の枠物語の構成になっていると言えましょう。


 内容は「鐘楼が倒壊する夢の話(ロティが語る)」「そのロティの夢を泥酔の風景として描き直す話(プラムケットが語る)」「子どものころ庭のミニチュアの造作を壊してしまう話(ロ)」「こうもりに関する三つの話(ロ)」「中国旅行の話(プ)」「ヘルツェゴヴィナへ行ったときの話(ロ)」「鯨の群れと出合ったときの話(ロ)」「カスバの三人の女の話(ロ)」「屋根裏部屋で先祖の台帳を見つけた話(ロ)」「プラムケットが穿頭手術を受けている夢を見た話(ロ)」「イスタンブルイスラエル人を家から追い出した話(ロ)」「中国の神父たちの話(プ)」「ブラジル体験の話(ロ)」と盛り沢山で、これ以外にも、断想や感想の入り混じった話が随所に出てきます。


 ここでもやはり、「子どものころ庭のミニチュアの造作を壊してしまう話」「こうもりに関する三つの話」「屋根裏部屋で先祖の台帳を見つけた話」「ブラジル体験の話」などで少年時代の思い出が出てきます。


 ロティが少年時代の王国や遠くの異郷(さらに死までも!)への憧憬を抱き、ここではないどこかを求める心は、次のような文章に表れています。

僕らはいたるところで退屈するのだから、よその場所しか居心地がよくない。だから時折、僕らが今いる場所を離れてよそに行くのも悪くはない/p32

心を打つ印象は、もう遠い昔の思い出の中にしか見出せない・・・/p62

君が存在しない一切のものを懐かしんでいることの証拠であり、存在するものの内に、賢明で分別のある人々の生命の糧である魅力を見出すことなく、幻覚に囚われたおのれの人格の中に閉じこもり/p63

それらを見つけたのも、とある五月の夕べのことだった。夕陽が、窓越しに、その古い台帳と齢百の花々を照らしていた、―僕は、柔らかく風変わりな色彩のもとに、いまは亡き春の日々を、永遠の虚無の塵に埋もれたあの春の日々のことを思い浮かべていた/p114

行ったこともないどこかからの途方もない隔たりの感覚、出会ったこともないだれかとの別れの感覚、いまだかつて見たこともなく、おそらくは知りえない場所、夢の中で住んだか、あるいは前世でおぼろげに、かすかに住んだことのある場所からの追放の感覚に・・・/p141


 巻末に訳者の懇切丁寧な解説がついています。よく分らなかったところもありましたが、最後に「象徴」というキーワードでロティの体験のあり方を解明しています。

象徴の創造的発見が反復を含意する再認ないし追認であるということ、すなわち、象徴ははじめからそれと認識できるものではないということ、反復を経てはじめてそれとして発見されるものであるということは、その影響ないし効果が、象徴の或る両義的性格にも及んでいるように思われる。・・・つまりそれは、象徴となるものに二重の様相―日常に属しながら謎めいており、陳腐なようでいて新奇でもあり、俗なようでいて聖性を帯び、古びたようで新しく、はかなくて束の間のもののようでありながら永遠の観を呈し、偶然的なようでいて本質的でもあるという様相―を付与しているように思われる/p264