:JEAN LORRAIN『UN DÉMONIAQUE』(E.DENTU 1895年)(ジャン・ロラン『魔にとり憑かれた男』)


 今年はじめて読んだフランス書。これは一昨年難波のYブックスでガラスケースに入っていたのを買ったもの。値段もそこそこ高かったが、ルリュールされていて格調高い。

 昨年末に、フランス語読解の参考書を四冊も読んで、少しは読むスピードも速くなるかと思いきや、案の定、右から左へ抜けて行ったみたいで、むしろ遅くなったような気さえします。単語ばかり引いているのがなかなかスピードが上がらない一因です。何とかせねば。


 前半は幻妖怪奇なテーマの短編が九つ、中ほどはスペインの紀行文、後半はセーヌの川岸に繰り広げられる犯罪をテーマにした二つの連作短編、と内容はばらばらです。

 前半の短編中「LA MAIN D’OMBRE(影の手)」と、後半の連作短編の初めのもの(四篇)は一昨年読んだ『CONTES D’UN BUVEUR D’ÉTHER(エーテル中毒者の物語)』(2010年10月21日記事参照)のなかに入っていたものです。今回再読して、途中で思い出したのもありましたが、ほとんど覚えていないのもあって情けない。

 「UN DÉMONIAQUE」など前半の短編は、いずれもジャン・ロランらしい世紀末の歪んだ感性を感じさせるものばかり。奇矯で退廃的な単語を辞書で引くだけでも楽しく過ごせました。このなかで一つだけ異色なのは「HAVRE DE SONGE(夢想の港)」で、ボードレールの「港」を思わせる美しい散文詩です。

 スペインの紀行文のなかにも、ヴァレンシア地方の漁村の風景を描いた何篇かに、この「夢想の港」と同様、海辺の色彩豊かな風光や、夕陽と宵闇の光と影が交錯する黄昏時の美しさを綴った散文詩のような作品がありました。

 これまで読んだジャン・ロランの作品ではあちこちを旅して、それを作品にしたものがありましたが(「Monsieur de Bougrelon(ブーグロン氏)」のオランダ、「La Dame Turque(トルコの女」のマルタ)、紀行文そのものは初めてでした。異国情緒溢れる衣裳や食べ物、町はずれで踊る男女の姿、乞食の群れの描写など、ロランらしい着眼も目に付きます。ゴーチェの「スペイン紀行」を引用しながらその時と風景が変わっていないことが書かれていますが、ゴーチェの本も読んでから現地へ行ってその後どうなったか確認してみたい気がしました。

 後半の連作短編「水の物語」では人物や地名の固有名詞が多く出てきて難渋しました。当時のパリでは知らぬ人のない名詞ばかりだと思いますが、辞書にも載っていないものが多く、またネットでいちいち調べるのも面倒くさいので、テキトーに読み飛ばしました。百年以上も後に東洋の片隅で読む人がいるとはジャン・ロランも想定していなかったことでしょう。


印象に残ったものだけを簡単に紹介します(ネタバレ注意。再読部分は除く) 
○UN DÉMONIAQUE(魔にとり憑かれた男)
尻切れトンボで終わる断片集のような物語。一人の奇矯な主人公が緑の眼の妄想に取りつかれたさまを、自殺後に発見されたメモをたどりながら紹介する。東洋の神秘的な風光や雑踏、それに衣装や音楽、革命期の残酷趣味、文学や絵画、骨董、宝石の中の美、病気や貧困の悲惨がないまぜになって、混沌とした退廃的な美を醸し出している。「フォカス氏」に通じるところがあるように思う。


○LA MARCHANDE D’OUBLIES(ウーブリ売りの女)
公園でココヤシやウーブリ菓子を売っている婆さんが、子どもたちには優しく若者には母親のように振舞い一度は聖女のように思われたが、ある夜酔っ払いに殴打された後、人が変わり急に年老いて魔女のようになってしまう。ちょうどその頃子どもや若者の間に疫病がはやったが、実は婆さんが毒草を混ぜて売っていたことが判明した。聖女が魔女に変わる不気味さが印象的。


○PROIE DE TÉNÈBRES(闇の餌食)
降霊術の実験の後、延々と眠りこける奇病に陥り医師団がさじを投げた男を魔術師が救う話。眠りこけた男が幻覚を独白する内容は世紀末の退廃に彩られている。moxa(もぐさ)がフランス語になっているのに驚いた。また支那の首ふり人形が出てくる。


○LA DAME AU CARCAN DE PERLES(真珠の首飾りの女)
女性の首飾りの謎を語る散文詩調の濃密な文章。社交界のある女性、絹と刺繍に飾られたきらびやかな体と貧弱な頭の間に、丈高い真珠の首飾りが不自然で、いろんな噂が飛び交う。結核性頸部リンパ腺炎だとか、単に首の老いた醜さを隠しているだけだとか、従僕の話では首に斜めに切り傷があり割れ目に湿布をあてがっているんだとか。残念なのは盛り上がる前段のところで終わった印象があるところ。これと対になった男性版、奇矯な男が登場する「L’HOMME AU COMPLET MAUVE(薄紫の背広の男)」も収められている。


○HAVRE DE SONGE(夢想の港)
見知らぬ国とつながる港への思い。装具を操る水夫の動きなど停泊中の船の美しさ、港町の賑やかで猥雑な喧噪。灯台の光が霧や帆を照らしたかと思うと一瞬の闇。そこへ幽霊船のような帆船が音もなくすべってくる。遠くから船員たちの呼びかう声やサイレンの音が聞こえてくる。私は雨の降り始めた人気のない埠頭に佇み、飲み屋の音楽が耳に残るなかで、杖で撃ち合った末敗者が眼玉をくり抜かれた拳闘試合や船乗り同士の喧嘩、艶やかに舞う踊り子の姿、宿の大きなティーポットの輝きなどを思い出している。阿片の幻想か。青白い光に包まれた海の出入り口を幽霊船のような船が黒いシルエットを見せて過ぎゆく。船員たちの呼び合う声、サイレン。雨の中夢見ているこの私は眠っているのかはた目覚めているのか。


○HARICOT VERT(緑のインゲン)
詩人と自称し緑のインゲンとあだ名される奇矯な人物が登場、宝玉に散りばめられた世界が現出する。吸血鬼のように痩せたその男が通う宝石細工店の店主が語るには、いつも変な注文ばかり、羽根に宝石を鏤めた七宝の孔雀、ある時は「さかしま」に出てくるカメ、それに蝙蝠やサラマンドル、フクロウに蛙、皆サバトの動物ばかり、彼はマンドラゴラの根っこか墓場の花じゃないのか。


○LES MENDIANTS(乞食の群れ)
スペイン紀行の一篇。ジャン・ロランのグロテスク退廃趣味が濃厚な一編。教会の戸口に女乞食、側廊にロザリオを爪繰る乞食がいるなと見ていると、柱の陰に顔の崩れた乞食がいて、慌てて出ようとしたら乞食の群れが這いずり押し寄せてきて骨ばった手で服を摑む奴もいる。さながらゴヤの悪夢の絵そのものの地獄図。なんとか振り切って出ると、乞食たちは遠くから手を振り上げ飛び跳ね私を罵っている。