高橋優子の三冊

    
高橋優子『冥界(ハデス)の泉』(沖積舎 1997年)
高橋優子『薄緑色幻想』(思潮社 2003年)
高橋優子『薔薇の合図(シーニュ)―Signe de la rose』(天使舎 2003年)


 高橋優子はまったく知らない人でしたが、オークションで、『薔薇の合図(シーニュ)』が出品されていて、頁の写真を見て、文章が魅力的に思えて入札したのが始まり。それから読みもしないまま、次々と同じ出品者から落札しました。今回、まとめて読んでみて、やはり文章に独特の味わいを感じました。『冥界の泉』と『薄緑色幻想』は散文詩、『薔薇の合図』(「薔薇の合図」と「犠の羊」の二篇)は小説に分類できると思いますが、三作とも文章のあり方はまったく同じで、区別がつかないほど。

 その特徴を考えてみますと、
①内面世界の描写に終始していること。沼とか森とか野原、湖、鏡など、背景は出てくるが、いずれも抽象的で神話的。ほとんどが一人称で、私の目線で語られている。『冥界の泉』では10篇中8篇、『薄緑色幻想』では10篇中10篇、『薔薇の合図』では、「薔薇の合図」全体と「犠の羊」16章中10章が一人称。

②一人称の主体は明らかに女性であり、全体的に感情、情愛に満ちた女性的な優美さのある文章が連綿と続いて行くあたりは、平安朝女流文学を思わせるところもある。

③一人称で描かれるが、「あなた」や「あのひと」、「あの方」といった他者への呼びかけが頻繁に行われ、考え方によっては、二人称的文体とも言える。

④ここが重要なところだが、「あなた」の性が不確かなところがある。どうやら一部の「あなた」は男性のように見えるが、大半は女性と考えられる。つまり女性同士の愛情、あるいは性愛と言っていいほどのエロスが溢れている。精神分析の対象になりそうな文章が連綿と続く。

⑤「あなた」の姿を遠くから認めたり、近くに並んで立っていたり、寄り添って歩いたりという身体感覚の表現が目につく。また指や掌が象徴的に扱われ、掌を差し伸べたり掌を取ったり指を絡ませたりという場面が多い。

⑥全体的な印象で言えば、少女小説を文学的に高めたという感じか。ハンス・ベルメールバルテュス少女ムシェットといった言葉が効果的に引用されたり、ギリシア神話にもとづく作品があったりする。


 『冥界の泉』は、この3作中、もっとも不思議なイメージに富み、全体が統一された感のある作品。10篇の散文詩で構成されていて、一つ一つが独立していますが、関連があるようです。ある詩篇では、どうやら、私は冥界の沼沢地の縁を彷徨っているかと思えば、また別の詩篇では、今度は、「あなた」が冥界に居て、お互いの指を探りながら、過去の追憶を語ったり、現在の幻影が入り混じったりして、靄の中に居るような朦朧とした世界が綴られます。

 具体的に何が書かれているか、よく理解できないのですが、読んでいて気持ちのいい文章です。読めば読むほど混迷を深めて行きますが、味わいも増してきます。物語と呼ぶにはあまりに茫洋としていて分かりにくく、詩としか呼びようがない作品。跋を書いている高橋英夫も解説に困っている様子です。

 「波の音は、何処の海辺も同じ響きがするものなのだろうか」(p43)、「この灰白色の底に横たわって、人はどんな夢を紡いでいるのか。けれども、彼女こそ自らの夢のただなかに浮かぶ道をひたすらに歩みながら、この世の外を彷徨っているのかもしれないと思えてきた」(p77)とか、「落ちながら夢のなかで、死とはもうひとつの世界に生れ落ちることであったかと」(p78)といったいくつかのフレーズが印象的でした。


 『薄緑色幻想』は、最後の2篇だけ少し毛色の変わった内容になっていますが、前の8篇は『冥界の泉』と同様の雰囲気を持った作品群。背景は、少し街を思わせる風に具体的になっています。矢川澄子による跋がついていますが、どうやらこの跋は『冥界の泉』用に書かれたもののようで、そのときは採用されなかったようです。


 『薔薇の合図』が小説であるという根拠は、登場人物が固有名詞で語られているところと、具体的なストーリーらしきものがあるからです。小説と言っても、文章の繊細さは変わらず、散文詩的です。この作品も、ほとんど女性たちばかりが登場して、情愛の世界が繰り広げられます。要約してみたところで本文の魅力は伝わりませんが、物語としてはおよそ次のような枠組みです。

「薔薇の合図」:歳の離れた夫と結婚した私は、夫の妹に対して夫以上に心を動かされている。もしかして妹がいたから結婚したのかも知れないと思うほど。夫は優しい眼差しを投げかけながら、ときに手荒に二の腕の内側に十字型の傷をつけたりする。妹は私に何か合図を送り続けていた。何か秘密があるように思えた。ある日、美術展で、一緒に「海に身を投げるサフォー」の絵を見ていると、背後に誰か居るような気配がするとともに、妹は、兄の先妻を思い出したと言う。「先妻の方はどうして死んだのかしら」と尋ねた途端、妹は気を失う。先妻に嫉妬を感じながら介抱しようとして、上腕の内側に自分と同じ十字の傷がついていることを発見する。

「犠の羊」:私は、父の居ない美しい母娘の娘の塔子に、強く惹かれている。塔子はひそかに思っていた少女が遠くへ去ったあと、心に激しい痛みを感じるようになっていた。母親の育った湖沼地帯の写真を見て、行ったことがないのに、記憶があると言う。私は、ある女性彰子から、母娘と別の女性有維子と4人で、有維子の生地である掘割のある町へ旅したときのことを聞かされる。塔子はそこで、母以外の2人の女性に愛情を感じるとともに、母が有維子と口移しで柘榴を食べる姿を見て、母親は自分よりも有維子に愛情を抱いていると見抜くのだった。その後、母と有維子が頻繁に会うなかで、塔子は母の愛を繋ぎ止めようとしていた。母親は苦しみにどんどんと窶れて行った。

 ある日、母親は私のところへ来て、弟が湖に身を投げた話をして帰って行く。それから間もなく、私は母親が亡くなったことを知る。塔子は有維子のもとに引き取られ、塔子も少しずつ馴染んできたころ、突然有維子から「あなたのいちばん会いたい人よ」と父親を紹介される。これまで女性ばかりのあいだで育ってきたので、塔子は男性に怯えを感じたが、三人で暮らし始める。ようやく父に慣れてきたころ、父が亡き母のことを「神さえも眼を背ける女だった」と言うのを聞いて愕然とし、有維子に対し、父と別れるようすがりついて懇願した。しばらくして塔子は姿を消し、父親も居なくなった。私は湖沼地帯に思いを馳せながら塔子の名を呼ぶ。