J.-H.Rosny ainé『L’ÉNIGME DE GIVREUSE』(J=H・ロニー兄『ジヴリューズの謎』)


J.-H.Rosny ainé『L’ÉNIGME DE GIVREUSE suivi de LA HAINE SURNATURELLE』(Bibliothèque nationale de France 2017年)


 フランスSFの祖の一人と言われるロニー兄の作品を読んでみました。これまで『フランス幻想文学傑作選3』(白水社)や『19世紀フランス幻想短篇集』(国書刊行会)、『パルジファルの復活祭』(国書刊行会)、『現代仏蘭西28人集』(新潮社)で、いくつか訳された短篇を読んだことがあります。SFから幻想小説、ミステリー、自然主義的小説、社会小説など大衆小説の分野の幅広いジャンルで活躍した作家のようですが、この本に収められた中篇「L’ÉNIGME DE GIVREUSE」と短篇「LA HAINE SURNATURELLE(超自然の憎しみ)」は、ともに分身を扱った幻想的SF作品。文章は大衆小説だけあって読みやすい。


 「L’ÉNIGME DE GIVREUSE」は、1916年の作で、第一次世界大戦が色濃く反映しており、また創成期SFの素朴な力強さがありました。粗筋はざっと以下のとおり(ネタバレ注意)。
第一次大戦のさなかドイツ軍との前線で、二人の兵士が倒れていた。不思議なことに同じ顔で、同じところに傷がある。野戦病院へ運び込み所持品を調べてみると、汚れている箇所までまったく同じの同姓同名の兵士手帳を持っていた。丸三日昏睡の後、同時に目覚めた彼らは同じ名を名乗り、同じ記憶を持っていた。体重を測るとそれぞれ37キロで、元の半分だった。

二人を面会させてみると、相見知ってるかのように熱く握手した。二人へいろいろ質問しても同時に同じ答えが返ってきた。面会が終わって帰らせようとすると、二人とも急に元気がなくなり、一緒に居させてくれという。やがて、回復した二人が帰省するにあたり、叔父だけには本当のことを話し、母親には戦場でそっくりさんと出会ったということにする。帰ってみると、母親もガールフレンドも二人を見分けられない。母親は息子たちの療養のために海辺の館に移住する。

地元の医師の協力もあり、二人は徐々に体重も増え元気も出てきて、1時間ぐらいなら別行動を取れるようになってきた。ガールフレンドは本物とデートしながらもそっくりさんにも愛を感じてしまう。二人は本物とそっくりさんの役を交代し合って不公平のないようにする。二人の秘密を聞かされた医師が、原因を探ろうと、二人が倒れていた戦場へ赴き、周辺で聞き込みをすると、すぐ近くで貴族が館に籠って何か研究していたが、爆撃で死に、助手も徴兵されて戦死したと聞かされる。

ある日、ガールフレンドがそっくりさんと二人になったとき、彼が本物しか知らないはずの歌を口ずさむのを聞いて、恐怖を感じ失踪してしまう。無事に探し出せたが、二人は別の道を歩むことを決心し、一人が館に留まり、もう一人は叔父の勧めで飛行機工場で働くことにする。時が経つにつれ、二人は性格や顔つきも違いを見せるようになってきた。

館に留まったほうは、ガールフレンドとの関係を修復していき、結婚を考えるようになる。そんなときかつての愛人から、数日後にチリへ旅立つので会いに来てほしいという手紙を受取る。工場へ行ったほうが代理として会いに行く。愛人はそっくりなことに驚くが、何度か会っているうちに、二人の間に恋心が芽生え、お互い愛を告白し、半年後の再会を約す。

医師のもとへ、死んだと言われていた貴族の助手が訪ねてくる。貴族は稀代の天才物理学者で、原子や分子の分極に関するある発見をして、生物を複製する実験をしていたという。貴族が死ぬ前に残したノートには、傷ついた兵士が入ってきて、実験場で倒れ込んだと書かれていた。


 大雑把な概略なので、面白みに欠けるのは致し方ありませんが、やや荒唐無稽な筋立てのなかで、妙味といえば、分身によって男女の愛の関係が複雑かつ新鮮になっているというところでしょうか。まず、ガールフレンドとの関係で、女性の側から見て、本物とそっくりさんの区別がつかないまま二人と接するという困惑した状態が新鮮なこと。もうひとつは、かつての愛人との関係で、女性の側は初対面の人と思っているのに対し、男の側はかつての愛人との記憶を保持しながら別人として接するというもどかしさが描かれていて、これらは分身という設定でしか起こり得ない愛の形だと思います。

 SF作家やミステリー作家の多くがするように、著者は、科学や、超自然現象に対する自らの見解をあちこちで、登場人物に語らせ、披露しています。序文で、Musnikという人も指摘していたことですが、分身という超自然的な現象に対し、あくまでも合理的な見方をしようとする人たちと、神秘的な解釈をする人たちの二つの見方が全篇を通じていろんな場面で語られています。結論としては、著者は科学の力を信じる合理派の立場に近いように見えます。

 著者の見解としては、ほかにも、分身が当初はまったくの複製であったとしても、その後の環境によって別の人格にそれぞれ変化成長していくということがあり、また、第一次世界大戦の地獄の様相を、人類の愚行として糾弾したかったようで、文章の端々にそれが表われていました。


 「LA HAINE SURNATURELLE」は、読み終わってから、「小説幻妖 弐」(幻想文学会出版局)に翻訳が掲載されていることに気づきました。主人公が、完全に密閉された館で、深夜何者かに襲われ背中を刺され、警察の捜査が入るも解明できないというところまではミステリータッチ。幸い軽傷で済み、護身用の拳銃を枕元に置いて寝ていたら、今度は何者かが銃を手に現われたので、正当防衛で撃ち殺すが、その死体には重さがなく、自分と同じ顔をしていたというに至って、初めて幽霊小説だったということが分かる仕掛け。

 「L’ÉNIGME DE GIVREUSE」よりさらに荒唐無稽な話ですが、結論として、個人のなかにはいろんな人格が潜んでおり、自分に対する憎しみがひとつの人格として本人から流出して分身の姿を取ることがある、自殺という形を取ることもあるが、他者として本人を襲うこともあるという説明でした。その分身が死んでも、また新たな分身が生まれるだろうという言葉で終わっています。