坂井信夫の詩集二冊

  
坂井信夫『影の年代記』(弓立社 1979年)
坂井信夫『レクイエム』(七月堂 1983年)


 坂井信夫についてはまったく知りませんでしたが、4年ほど前、神戸の古本市で、『レクイエム』を手に取り、架空の町をテーマとした散文詩のようだったので、購入したのが始まり。『影の年代記』も、難波の天地書房の均一棚で見つけ、中身を確認して面白そうだったので買ったもの。

 今回読んでみて、この二冊の詩集はまったくテイストが違うものの、両者とも不思議な魅力を放っているのを感じました。『影の年代記』は、普通の行分け詩で、創世記に出てくるような風景をバックに、政治運動の過程で起こるような怨念、裏切り、迷妄、狂躁などの情念が渦巻いた作品群。片や『レクイエム』は、散文詩で、駅とか町、田舎村といった名称だけの抽象的な場所を舞台に、いろんな男が繰り広げる謎めいた物語が展開します。坂井信夫は他にもたくさんの詩集を出しているようなので、タイトルの面白そうなのを2、3入札しているところです。


 『影の年代記』の作品群は、77年から78年に書かれたと、「あとがき」にありましたが、60年代の学生運動の時代の気分が濃厚で、佐々木幹郎の初期詩篇や阿久根靖夫などと似通った雰囲気があります。最初の数篇から、具体例を見てみますと。

衰弱した肉体に火をかけられ/くるったように駆けだしたのだ/p3

きみはやっと呟くことができるのだ/〈ここまでは生きた…〉と/p4

きみが為しえなかったことさえも/みえない手が記録しつづけているのを/p4

きみは飲んだくれて捕まったばかりに/さびた槍をにぎらせられたのだ/p5

のこされた衣もことばも/燃えるものには火をかけられて/ことごとく灰になってしまったけれど/p6

そこには忘れさっていた屈辱と/きえることのない土足のあとが印されているだけだから/p8

どのような試みにむかっても/まっすぐに貌をあげていられるのだ/p9

なにものかに強いられて/きみは択ぶしぐさをしてみせるだけだ/p10

眠っていた声にそそのかされたばかりに/きみの名は消しがたく記録されてしまったのだ/p14

 全部で35篇あるうちの5篇でもこれだけありますが、こうした感じが全篇を覆っていて、狂躁、必死、無力感、不本意、もどかしさ、喪失感、蹂躙された屈辱感、妙な高揚、悔恨などが渦巻いています。夢魔の世界、無意識裡の世界のように、具体的な筋道立った説明はまったくなく、ある状況に陥ったことが断片的に語られているだけです。一種の歌のようなものを感じます。

 全体は、年代記と書かれているように、何か一つの物語をなぞっているようで、創世記の故事らしきものがあちこちに顔をのぞかせていたり、ドストエフスキーの登場人物の名前が出てきたりしますが、なにぶん、素養がないもので、何を意味するか、よく分かりませんでした。


 『レクイエム』は、『影の年代記』と比べると、情念的なものが剥き出されるのではなく、いちおう物語になっていて、カフカのようなお伽噺的な掌篇が多いですが、生まれた村に戻り禁じられた書物を持っていたため礫を投げられる男の話「礫」には、『影の年代記』同様の政治運動に関わるような激しさが見られますし、それ以外の作品にも、何かしら不条理な状況に陥った男が呻吟したり、諦観したりするような場面が多く見られます。

 なかでは、記憶を失った男が、少年の頃のある風景だけを覚えていて、そこへ戻ることができたら、現在までの記憶を取り戻すかも知れないと思い、それが桃源郷のように感じられるという「村」、押入れから出て来た絵に描かれていた扉を見た男が、女を殺した記憶をよみがえらせ巡礼に出るという「扉」、台所に吊り下げられた壁掛けの絵を見続け、次第に椅子と同化していく男を描いた「家」、小指の先端に楔を打ち込む苦行をする男の「楔」、どこへ向かってるかも分からない男たちの行列に入るが、どんどんと人が入れ替わり、死ぬ者も居れば岩になる者もいるが、千年経っても歩き続けるという「野」、ピアノの音に記憶を刺激され講堂へ侵入した男が交番に連行されると、なぜか鞄に大金が入っていたという「波」が、印象的。


 と書いたあと、ネットを見ていたら、『追悼・矢島輝夫』という文集を坂井信夫が編集していることを知り、所持していたので、ぱらぱらと読んでみました。矢島輝夫と相当つながりのあった人だと知りました。矢島輝夫は、学生時代に「私を背負って」、「墜ちる―棒が?」(『暗き魚』所収)を読み衝撃を受け、夢のなかをさ迷う感じの小説への志向のきっかけとなった作家です。この二人に、どこか共通点があるのを感じました。